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2.デスマルゲリータ
スマホを置いて、またベッドに仰向けになる。
「許せん」
脳裏に浮かんだのはその怒りの三文字。
別に髪色が変わるだとか、筋肉が隆々になるだとかはなかったが、眼球が痛くなっている気がした。
怒りで眼圧が上がっているのだろうか。
俺はスマホの内側カメラで自分の眼を見てみたが、驚くほど真っ白だった。
カエルのお腹のようだった。
目薬をそっとカバンにしまい、また目をつぶり冷静に努めようとする。
すると暗闇の中に、にやけた表情の新谷がこちらを見ている姿が映った。
目を開け顔を振り、また目を瞑るも、また新谷が暗闇で俺を嘲笑う。
楽しかったことを思い出して、新谷のことを忘れようとしたが、小学校時代に従兄弟と遊んだことを思い出そうとしている自分に気付きまた落ちこむ。
そしてそれをまた新谷が嘲笑う。
結局その夜は怒りと悲しみの陰鬱スパイラルに巻き込まれ全く寝れなかった。
その間、新谷は何も知らずに熟睡しているはずだ。
だがもし寝れていなかったとしたら、俺とは全く違う理由なのだろう。
そのことが増々俺を苛立たせた。
だがそれでも月曜の仕事は、問答無用にやってくる。
無意識にバイクに跨がり、無意識にバイクを走らせ、無意識に信号に止まり、無意識に荷物を届ける。
今まではそうだったが、その日はいつ何時でも俺を嘲笑っている新谷が頭から離れなかった。
信号で停車していると信号機の黄色の中にまで新谷がいて俺を嘲笑った。
俺に今更何を注意しろと言っているのだ。
限界だった俺は、仕事が終わるとすぐ相手のことも考えずにまた野村に電話していた。
「トゥルルル」
呼び出し音が鳴る。
「はい」
思っていたよりも早く野村は電話に出た。
「どうした?」
そのとき、俺は何も考えていなかった。
本能で喋っていたのだ。
「野村、俺復讐したい」
「え?ふくしゅう?」
「復讐。
リベンジだ。
俺、新谷を懲らしめたいんだ」
「ふふ、まさか俺に協力しろとか言うんじゃねえだろうな?」
「その、まさかさ」
「ったくよ。
しゃーねーな。
今回だけだぞ」
思ったより、電話口の野村の声は弾んでいた。
電話している俺の声を周りで聴いている人がいるとしたら、まさかこんな陰湿なことで二人が意気投合してるとは思わないだろう。
「で、何するんだよ」
「何するって、お前が発起人だろ。
仕事終わったんだよな。
ひとまず、今から駅前のファミレスとかで集まろう。
そうだな、ヴィレッジ・エイトでどうだ?」
「オッケイ、あこは賑わってるから会話が聞こえにくいから丁度だな」
「じゃ、三十分後くらいでいいか?」
「オーケー」
そういうと俺はスマホをポケットに入れ、つい街中なのを忘れにやけてしまっていた。
さっきまで、ネガティブな沼に沈んていた自分が今は僅かだが希望の光を手にしている。
人間の本能というものは、捨てたもんじゃないと思った。
約束の五分前にヴィレッジ・エイトに着いた俺は窓際の席で待っていようと店の奥に行ったが、既にそこには野村の姿があった。
「早いじゃん」
「そっちこそ」
阿吽の呼吸のように少ない言葉で挨拶を交わす。
元々野村とはそこまで仲が良かったわけではないし、二人だけで集まるのも今回が初めてのはずだ。
やはり新谷という仮想敵をつくることで、自然と絆が生まれたのだろう。
しかし野村は今回の件では、そこまで新谷を恨む理由はなさそうだが…過去に何かあったのだろうか。
俺が席に座ると同時に野村が店員呼び出しボタンを押す。
「飯はどうする?」
なぜ、呼んだあとに聞くんだと思ったが、
「いや食べないでおく」
と答える。
「じゃあ飲み物だけでいいな」
と野村が答えると、すぐに店員が来る。
「ドリンクバー二つ」
と野村は注文し、
「ちょっとトイレ」
と言って席を立った。
あいつってあんな感じだったかな?
と少し首をひねるも、そもそも昨日の飲み会ですら会ったのは久しぶりだった。
今日は新谷もいないし、女子たちもいない。
雰囲気が違うのは当然か。
新谷が戻ってくるなり、俺たちは各々好きなドリンクを入れに行き、再び椅子に戻ってジンジャエールを一口飲んだ野村が口を開いた。
「さて、新谷滅亡計画だが…」
「なんだよ、その計画」
俺はピーチティーを飲むのをやめて、思わず突っ込んだ。
野村が膝をテーブルについてあまりに真剣な顔で言うからだ。
「そもそも、野村って新谷嫌いなのか?
昨日は被害そんなになかったんじゃね?
そもそも元々嫌いなのか?」
俺は疑問を口にした。
なんせ俺たち三人は大学のゼミで一緒だっただけで、ゼミの飲み会以外ではプライベートであまり一緒になることはなかった。
バイトも別々だったし。
だからそこまで嫌いになるような思い出はなかったと思っていたのだが。
その俺の考えを野村は一言で否定した。
「俺、あいつ生理的に無理なんだよね」
まるで女子高生の口調のようだった。
しかしなぜか納得もしてしまった。
それくらい昨日の新谷は不快だった。
「さて、というわけで俺は倉松くんの新谷への復讐は大歓迎なんだけど、そっちは具体的にどう復讐するとか考えてるの?」
そう言われると、具体的には何も考えていなかった。
「それは…
うーん、ボコボコにするとか?」
俺は適当に言ってみた。
「え、しばくってこと?
そんなの全然駄目。
悪手だよ。
そりゃ中学高校までならそれでダメージを与えれたけど、社会人となった今では大したダメージは与えられない。
怪我してるところが治ったらオシマイさ。
むしろ治らないような怪我を負わしてしまったら、こっちが法の裁きで痛い目をみることになる。
大人になると子供のころ出来なかったことが出来るようになるけど、逆もあるってことだな」
たしかにそうだ。
しかし、脳皺の少ない俺にとってはすぐに他の案は思いつかなかった。
「じゃあ、そういう野村くんは何か案あるのかい?」
色々ありそうな野村に振ってみた。
「あるっちゃあるよ。
段階的なものだけどね」
「段階的?」
「倉松くん。
人間はどういうときに、辛いと感じると思う?
たぶんだけど、一瞬だけ痛いとか恥ずかしいとかってそんなに辛さを感じないと思うんだよね。
それよりもむしろ、ジワジワと真綿で首を絞められるように、辛いことが起こり続ける方が嫌だと思うんだ。
なんせ、何も起こっていないときもそのことを考えないといけないからね」
たしかにそうだ。
俺は大きく頷いた。
たった一晩の飲み会で辛くなって、家に逃げ帰った俺が賛成するのは微妙なところだが。
「そして新谷のような姑息な人間は、そんな状況になったとき、その辛さに立ち向かうのではなく逃げ惑うに違いないと俺は思うんだけど、もしその逃げ道も徐々になくなっていくとしたら?」
「それは辛いだろうね。
たしかに、最初に辛いのがバチンとあってあとから緩和されていくより、尻上がりに辛いことがある方が精神的負担は大きい気がするな」
「だろ?」
野村は珍しく得意顔だ。
「だが、実際どうやって新谷をジワジワと追い詰めるんだ?」
「だから最初に言ったじゃねえか。
段階的にアイツを追い詰めるんだ。
つまり、あいつに必要なものを徐々に奪っていく。
そして最終的には、あいつの元には何もなくなるという素晴らしいハッピーエンディングが待っている。
もちろん、俺たちが逮捕されるようなことはしない。
本末転倒だからな」
「たしかにそれは面白そうだな。
傲慢なあいつの涙目敗走の面を拝めるんなら。
じゃあ
ちなみにだけど、一発目は何を奪うんだ?」
「フフフ。記念すべき一発目はな…
『金』をもらう」
「金?
おいおい、それこそバレたら逮捕されるんじゃないか?」
「安心してくれ。
金を奪うと言っても、金自体を奪うわけじゃない。
金の出どころ、つまり仕事を奪うのさ」
「仕事って、あいつSEしてるって言ってたよな。
そんな手に職ついてる仕事を急に辞めさせれるか?」
「辞めさせることは、よほどのことがない限り出来ない。
だけど、あいつが自分で辞めるようにもっていくことはできるかもしれない」
野村はしたり顔だ。
こいつがこんなに敵に回すと厄介だとは思わなかった。
あ然とした俺を一瞥して、野村は説明を続けた。
「まず、あいつは昨日の飲み会の際、得意気に週の間にリモートワークが一日あると言っていた。
おそらく明後日の水曜日のことだろう。
そこで罠を仕掛ける。
ちょうど明日が火曜日で一日空くので、明日俺か倉松が新谷と飯にでも行って、飲み会で一緒だった女子の悪口を引き出す。
あいつはあの性格だ。
ブスだのアバズレだの必ず言う。
そしてそれを録音する。
その録音した音源を女子に聴かせて、俺たち同様に恨みを抱かして計画に協力してもらう。
そしてその女子に水曜日、新谷の家に行ってみたいと言って潜入してもらい、パーティーと称して一緒に騒ぎ仕事を後回しにしてもらう。
そして新谷には酒をたらふく飲ませて寝てもらう。
結果、仕事は終わらず次の日それを引きずったまま出勤。
これはまだ具体的に思いついていないけど、どうにかして俺か倉松で新谷の通勤を邪魔して、遅刻させる。
となるとどうなるか。
理由はどうあれ、仕事も終わっていない上に遅刻したんじゃ流石の新谷も名折れるだろう。
それに、あいつ飲み会のときは後輩に頼られてる風に言ってたが実際はそんなことないはずだぜ。
大学のときのアイツの勉強の様子を見てただろ。
そんなに要領のいいやつとは思えない。
つまりペーペーに近い三年目のあいつは大ダメージのはず。
ついでに、水曜に一緒に家飲みする女子に「間違えて、新谷くんの忘れ物持って帰ったから届けにきたよ」とか言わせて木曜日に会社まで何か届けてもらおう。
万が一、玄関で通してもらえなかったら、新谷の名前を出しながらちょっと騒いでもらおう。
そうすれば、それを聴いてる社員が必ず噂する。
「新谷は水曜日、女と遊んで仕事をサボった上に次の日遅刻した。
たぶん部屋で遅くまでワチャワチャしてたんだろう、自己管理の甘いやつだ」って具合にな。
そうして、社内の新谷を見る目をどんどん軽蔑した目に変えていくんだ。
そのうち挽回するために、焦ってミスでもするんじゃねえか?
そうすると、どんどん悪循環にはまり居心地は悪くなる。
あいつ、プライドだけは一丁前にあるからその空気に耐えられなくなって辞めると思うんだ。
SE経験があるからすぐに転職も出来ると思うだろうしね。
と、まあ、このへんが新谷の金の出どころを奪うための計画ってとこかな。
どうだ?」
本当に成功するかは置いといて、いいところまでは行くんじゃないか?
しかも、誰も犯罪行為をしていない。
これも新谷の性格をある程度熟知してる野村だからこそできた計画だろう、俺には思いもつかなかった。
いつの間にか俺も呼び捨てにされているのが気になるが。
「いけるんじゃないか?
だが、まず肝心なのは明日だな」
「そうなんだよ、新谷が昨日の女子の悪口を言ってくれないと始まらないんだよな。
誘導がバレたら駄目だし、うまいこと悪口に導いていかないと」
だが、その不安は次の日の仕事終わり、全くの杞憂に終わった。
「あぁ、あのミレイとレイカのブス二人な。
最悪だわ、三分の二があんなブス共だったらやる気も出ねぇよ。
んで、もう一人のユウミとかいう雌豚もよ、ちょっと誘ったら『今日は帰らせてもらいます』だってよ。
大して可愛くもないくせに、値打ちこきやがって。
お前なんて友達二人がアレだから相対的にチヤホヤされてるだけで、世間から見たら全然可愛くないからな。
あ、ゴメン。
洋介くん、ユウミちゃん狙ってたんだっけ?
でも良かったよ、いかなくて。
俺が毒味してあげたんだから感謝してよ」
こいつはやっぱり終わってる。
これだけ録音できれば十分だと思い、俺はトイレに行ってレコーダーの電源を切りに行った。
はっきり言ってもう帰ってもいいのだが、怪しまれそうなのでもう少しこいつの暴言にでも付き合うか。
女子がいると羽振りはいいが、男同士だとガッツリ割り勘の新谷との不快飲み会はそのあとも二時間ほど続いた。
家に帰ったあと、俺はすぐに新谷の暴言録データを野村に送った。
これであとは野村がそのデータを女子に送り、明日の水曜日に都合のつく二人くらいを新谷の自宅に送り込んで仕事の邪魔をしてもらう。
大学生だから予定くらい空けれるだろう。
ふと思ったのだが、新谷はあそこまで悪口を言っていた女子を果たして家に招き入れるだろうか。
俺だったら絶対に家に上げないが。
その考えも一時間後に杞憂に終わることとなる。
〘ミレイちゃんとレイカちゃんが、明日の朝から新谷の家でパーティーする約束取り付けれたって今メッセージ来たから計画通り進行中。
あと細かいところは俺から詰めときます。
二人共やる気満々〙
と野村からメッセージがきたからだ。
やはり女子は敵に回すと恐ろしい。
しかし、翌日朝、その考えはまだ甘かったということを野村からのメッセージで思い知ることになる。
〘すまん、今日新谷宅に行ってもらうミレイとレイカなんだが昨日の夜から返信がない。
当日ドタキャンかもしれない。
このメッセージを見たら電話くれないか〙
俺たちにとっても恐ろしかった。
現在の時間は八時十二分。
たしか、女子二人が新谷宅に行くのって九時からだったよなと思いながら、俺は急いで野村に電話をかけた。
一コール目で野村が出た。
「もしもし。
すまん、大変なことになった」
「勘違いじゃねぇのか。
今、二人共新谷の家に向かってる途中だから返ってきてないだけとか」
「そうだといいんだが、俺なんとなくわかるんだ。メッセージが返ってこなくなったのは、昨日俺がちょっと細かく指示を出したあとからなんだ。
たぶん二人共なんとなく面倒くさくなったんだよ。」
「そんな…計画が丸潰れじゃないか。
あいつら、人に迷惑かかるとか思わないのか。」
「あいつらはそういうの気にしないタイプの女子なんだ。」
「そんな…」
と言いながらも、あの二人ならあり得ると認めている自分がいた。
「飲み会に来てたもう一人の女子の…名前なんていったかな…」
本当は覚えていた。
忘れるはずがない。
好きだったんだから。
「あ、ユウミちゃんか?急に当日頼んでも期待できないだろ。
それに他の二人に比べると新谷のユウミちゃんへの暴言はマイルドだったから怒りパワーも期待できない。
倉松。
もう方法は一つしかない。
腹をくくってくれ」
やはりか。
俺もなんとなくそんな気がしたから、さっきから着替えの準備を始めていたのだ。
「俺たちで、二人がやる予定だった役割をやるしかない。
仮病で仕事今日休めないか?」
やはりそうきたか。
配達業務は一人抜けるだけで大変なことになる。
しかし激務の疲労からなのか、俺の所属するグループは休む人が多い中、俺はこの三年近くで一度も欠勤をしていない。
そろそろ一回くらいしたって、恨まれないだろう。
「たぶん、大丈夫だ」
俺は少し誇らしげに言った。
「すまんな。
じゃあ急いで出る準備してくれ。
最速で新谷の家に何時に着ける?」
「たぶん、九時くらいだろうな」
本当のことだった。
俺の家から新谷の家まで三十分はかかる。
「わかった。俺、家から缶ビール何本か持って行って、ちょっと時間あるからコンビニで缶チューハイも追加で買って行こうと思ってる。
倉松も冷蔵庫の中に残ってる酒類あったら持って行ってくれ」
俺は昨日少しだけ飲んだ缶チューハイの残りを思い出した。
おそらく他にはない。
俺の家族は普段誰も酒を飲まないからだ。
「わかった。
でもたぶん、持っていける酒は残ってない。
俺の分の缶チューハイも頼めるか?
レモンかグレープフルーツでいいから」
「了解。じゃあとでよろしく」
電話が切れたあと、俺は急いで仮病の電話を会社にして、着替えて諸々の準備をして家を出た。
たまたまだが、新谷の住んでいるマンションは俺の家から自転車で十五分程度の近いところにあった。
たぶん、それがきっかけで喋るようになったはずだ。
そもそもあいつとは共通点が全然ない。
俺は人生で一番かというくらいペダルを速く漕いだ。
新谷のマンションには約束より五分前に着いた。
「おぉ、早いじゃん。」
昨日のファミレスと同じような口調だった。
野村は新谷のマンションの前にいた。
相変わらず生意気なマンションだ。
「よし、あと五分だけ打ち合わせできるな」
俺は自転車をとめて、言った。
「あぁ。と言っても新谷をおだててひたすら酒を飲ませて寝させるしかない。
問題はどういう経緯で俺たちが来たかの理由を説明をするかだ」
確かにそうだ。
裏で女子と俺たちが繋がってるのは、どうしてもバレてしまうから、ある程度警戒はされてしまうだろう。
「でも、女子二人が急遽無理になって、新谷が準備してくれてたら悪いから、繋がりがあって連絡先を知ってる俺たちが代わりに行くように頼まれたと言うしかなくないか?」
「あぁ、それで行こう」
野村は途中から俺の話を聞いてなさそうに見えたが、威勢よく部屋番号を押して新谷を呼び出した。
「はい。」
新谷の声は普段より高かった。
その声に笑いそうになっていると、野村は冷静に喋り始めた。
「あ、野村だけど」
「野村?あの野村か?」
「あの野村だよ。
昨日はお疲れ」
「どうしたんだ?」
そういう新谷の声はかなり剣があった。
「あのー、ミレイちゃんとレイカちゃんから連絡きたんだけどさ。
今日二人共、ここに来る予定だったんだろ?
ちょっと用事が入ってらしくて、来れるの昼以降になるらしいんだよ。
だからそれまで新谷待たせるの悪いから、繋ぎで行っといてって言われたんだよ。
全く人使いが悪いよ」
野村はほどよく参ったような雰囲気で言っていた。
あとはどうやら、新谷の機嫌を察知して女子二人が来ないと今の段階で言うのはまずいと思ったのだろう。
部屋に入れてもらうのを優先したわけだ。
さて、どうなるか。
「あ、あと倉松も来てるから。
結構悩んでるらしくて話聞いてほしいみたいよ」
「あぁ、そうなの。
まぁとりあえず入れよ、開けたから。
あ、でも俺今日午前中は仕事するから、二人で先に飲んどいてくれ」
なんだかあまりよくない展開だと思って野村を見ると「入ることが大前提だ」と言ってるように頷いていた。
新谷の部屋に入ると不服そうな顔でこっちを見ていた。
手元にはおそらく仕事用のパソコン。
椅子に座って仕事モードだ。
ここまでは想定通り。
この部屋に来るエレベーターの中で、野村と打ち合わせしていた通りだ。
数少ない時間で出た新谷に仕事をさせない作戦は「とにかく無理矢理にでも酒を飲ませる」こと。
新谷はワインが好きだった。
が、知識はあまりないらしい。
それを利用するため、野村はここに来るまでにコンビニであまり知らない名前のワインを買ってきていた。
千円もしなかったらしいが、二十万のワインを家から持ってきたと言って早めに飲ます作戦だ。
そう、やつが一回でも飲んだらこっちのものだ。
あとは俺たちは酔ったフリをして、無理矢理にでも新谷に酒を飲ませる。
その結果新谷をベロベロにして仕事続行不可能に追い込む。
果たして予定通りにうまくいくのか。
現状、新谷は歓迎ムードゼロでパソコンから目を離していない。
野村は「慌てるな」と言わんばかりに俺の前にレモンチューハイを置く。
自分の前には生ビール。
最初から無理矢理新谷に飲ませようとして拒否反応が出るのを嫌がったのか、野村は一切新谷に絡まず俺たち二人で乾杯した。
おそらく酒が飲みたくなる欲求が高まる時間をつくっているんだろう。
俺たちは二人だけで、この新谷滅亡計画以外ではあまり喋ったことがないので、最初はぎこちなかったが、好きな文房具ベスト3を発表し合ったあたりからは盛り上がった。
ちなみに俺の三位は分度器。
野村の三位は大きな三角定規。
「先生が使うやつ?」
と聞くと「そう」と答えていた。
そして俺の二位はコンパス。
野村は大きなコンパスだった。
「チョークを挟むのがいけてる」とのことだった。
そして、一位は二人共三色ボールペンだった。
そのときに新谷の耳がピクリと動いた気がしたので、本当は何か言いたかったのかもしれない。
そのあたりで一時間近く喋っていたので、そろそろ新谷の妨害をしないといけないと思っていたところに、野村が動いた。
「新谷ー。
頑張るのはいいけど、一回休憩しようぜ。
集中力上がって作業スピード上がるだろ。
ほら、今日はせっかくお邪魔するから家から親父のワインかっぱらってきたんだ。
ちょっと飲もうぜ」
野村が誘うと、新谷はこっちをチラリと見た。
「なんか、高いらしいぞ。
二十万くらいするらしいぜ。
野村の親父さんワイン好きらしいからな」
「あぁ、この年代のこの地方のワインはめったにないらしいからな」
野村も俺の嘘に呼応した。
パッケージを見ると、魔法のランプのようなものが書かれていた。
もしくはカレーのルウが入っているような。
そのランプにヘビが二匹たかっているような模様だ。
まさかインド産じゃねぇだろうな。
俺も怪しんでいたが、新谷が重い腰を上げてこちらに近づいてくる。
「あー、これ高いやつだわ」
とボソッと言ったので、俺は危うくレモンチューハイを噴きかけた。
隣を見ると野村も急に下を向いて小刻みに震えている。
そうとも知らずに新谷は、マイグラスに安物ワインを入れて揺らし始めた。
そして香りを嗅いで楽しんでいる。
二千円の香りを。
小さな声で「やっぱり違うな…」
と呟いていた。
たしかに違う。
そして、一口だけ飲んでまた揺らし始めた。
野村は咳払いを始めた。
「どうした?風邪か?」
と新谷が珍しく心配していた。
俺は始めてこいつが哀れだと思った。
しかし、新谷はそのワインを二杯飲んだら満足したのか、立ち上がってしまった。
俺はまずいと思い叫んだ。
「新谷!!」
苛立った顔で新谷はこっちを振り向いた。
「新谷、お前の文房具ベスト3も教えてくれ」
追い込まれた俺の口から出た言葉はそれだった。
新谷は面倒くさそうにこっちを振り向いた。
「お前の三位と二位の逆だよ…」
そう言って再び机に座ってパソコンを触りだした。
俺は「ヤバい」と思うのと同じくらい「あいつは分度器の評価高いんだな」と思った。
だがそんなこと考えてる場合ではない。
なんとか再び妨害しないと、新谷が仕事を終わらせてしまう。
俺がそう焦りだしたとき、横をほふく前進した野村が通り過ぎていった。
そして新谷の脚に全身で抱きついていった。
「ごろにゃ〜ん。
新谷く〜ん。
仕事ばっかりしてないで遊ぼうよ〜」
そう言って尻を振っていた。
俺は誤解していたのかもしれない。
野村はプロだ。
プロフェッショナルだ。
「や、やめろよ〜」
最初は嫌がっていた新谷も、猫化した尻振り男に徐々に心を開いていくようになっているように見えた。
懐柔されていく新谷。
変貌していく野村。
俺は一瞬、何の為に誰が為にこんなことをやっているのか分からなくなった。
が、すぐに昨日受けた屈辱を思い出し立ち上がる。
「まだ十二時前だよ〜新谷くん。
せっかく俺たち来たんだからさ〜、もうちょっと付き合ってくれてもいいじゃないのさ〜。」
酔ってるフリはバレてないだろうか。
そもそも本当にちょっと酔ってるんだが。
「ソウニャ、ソウニャ。
倉ニャツくんの言うとおりニャ。
さっ、あっちに行くニャ」
そして俺たちは、力技で再び新谷を酒の散乱したテーブルへ戻した。
「そうだ、ピザでも取ろうよ。
新谷くーん、お代は俺と野村ちゃんでもつからさ〜」
「そうだな、腹は減ってきたし。
勝手にしてくれ」
俺たちと絡みづらくなってきたのが嫌なのか、新谷はさっきのワインとビールを飲みだした。
これは酔いが回ると俺は胸を高鳴らせた。
そして三時間後、新谷はマルゲリータを顔面に乗せて仰向けで寝ていた。
具の方を上に向けて隠れないようにしていたのは、あいつの最後の良心だろうか。
そして「ううう…あのブス共は来ないのか…ううう…」
と寝言のように呟いていた。
俺たちは念の為、その顔面マルゲリータの光景を写真におさめ新谷をベッドに運んだ。
無意識に野村と目が合った。
そして次の瞬間ハイタッチしていた。
「これは一日寝るコースだろ」
とは思ったが、念の為夜になるまではここで起きないように見張っておこうということになり、あと三時間はここにいておこうということになった。
三時間後、新谷はまだ泥のように眠っていた。
野村はさっきから冷蔵庫をゴソゴソ漁っている。
こいつはどんだけ食への欲求が強いんだ。
念の為、俺は新谷が途中まで入力していた文字列を何個かバレない程度消しておいた。
これで、どれほどのダメージを与えれるか分からないが。
「よし、帰るか」
現金を盗み終わった銀行強盗のような面持ちで、今度こそ俺たちは新谷宅から退去した。
扉から出たあと、野村が「ちょっと待って」と言って、もう一度戻っていったが戻ってくるまで2分程度かかった。
少し気になったが、俺も酒が回ってあまり元気がなかったので何をしていたか、聞かなかった。
明日の朝は、この眠りの坊やの通勤を妨害しなくてはならない。
俺は、さすがに二日連続サボるのはマズイので、その任務は野村に任せて俺は出勤することにした。
そう、野村は大学院生だ。
昨日の自己紹介で言っていたな、たしか。
遠い昔のようだ。
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