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3.デスメロンソーダ
決戦の木曜日。
俺はいつも通り出社した。
班のリーダーに昨日の欠勤のことを謝り、まだちょっと風邪残ってますけど気合と根性で頑張りますという顔をしておいた。
仮病はバレるどころか、リーダーに「すまんな」と言われた。
やはり、ここぞというときにものを言うのは日頃の勤勉さだ。
だがこの日の仕事中、頭の中では野村はうまくやってくれてるかという心配ばかりがもたげていた。
信号で止まると、信号機の黄色の中には新谷の酔っ払った顔、赤の中には猫化した野村の顔が映った。
そのように、気が気じゃないまま仕事を終え、家に帰りベッドに座りひとまずホッと一息ついているとスマホが鳴った。
野村だった。
待ってましたとばかりに取るところだったが、落ち着いて三コール目くらいで取った。
「もしもし」
「もしもし、倉松か」
「おぉ、どうだった?」
「完璧だ」
「よしっ、あいつは終わったな」
実は最初考えていた作戦はシンプルだった。
朝、覆面を着てマンションで待ち伏せして新谷を車で拉致って見知らぬ山に捨てて帰るという遅刻率百パーセントの案だったが、覆面が近隣住民の方に怪しまれるのと、大声を出されたら終わるというので却下した。
その結果、次のように変わった。
まず昨日、酔っ払って寝てしまった新谷宅を出る時点で部屋の鍵を野村が持って帰る(一応最後の良心で部屋の鍵はかけて帰った)
そうすると今朝、新谷は家から出る際に鍵がないことに気づき、遅刻にならないギリギリまで鍵を探すことが推察される。
予め聞いておいた会社の最寄駅と始業時間から計算すると、八時に部屋を出るくらいがギリギリ遅刻しない出発時間なので、念の為その十分前の七時五十分に新谷の部屋のある十七階のエレベーターで野村は待ち伏せする。
自慢の高層階のため、階段を使う可能性はまず考えられないため、簡単に待ち伏せが可能。
もちろん、バレない程度の変装はする。
そして八時頃エレベーターに乗ってきた新谷と一緒に一階まで降りるが、一階に到着して降りる瞬間に油断している新谷の前に後ろから手を回し、昨日のマルゲリータを顔面にペチャリとつける。
パイ投げで誕生日の人を祝う要領だ。
新谷は突然視界が塞がれて何が起こったのかわからなくなり、その場にへたり込むと予想される。
その隙に野村はエレベーターから出て、ドアを閉める。
そして最上階の二十三階のボタンを押す。
朝から上の階層に上がる人はあまりいないはずなので、もれなくノンストップで最上階までマルゲリータ新谷は直行。
その隙に隣のエレベーターを使って、野村は再び新谷の部屋のある十七階まで上がり外から鍵をかける。
一応、鍵がなくなって捜査されるのは避けたいので、新谷の部屋の隣の部屋のドアの前にこっそり鍵を落としておく。
おそらくパニック中の新谷は見つけることはできないだろうし、見つけた住民が届けて新谷の元に戻るまでにある程度のタイムラグは発生するので、やはり出勤前の新谷の元に鍵が渡ることはない。
そして、必ず隣の住人が見つけるので警察沙汰になる心配もない。
その結果、ギリギリで部屋を出たのにも関わらず、マルゲリータを洗い流す時間がいるし、部屋が閉まっているためどこか他のところで顔を
洗い流すか、少なくとも拭かなくてはいけない。
その場所を探すだけでも時間が過ぎ去っていく。
つまり、これで少なくとも三十分の遅刻は免れないという計算だ。
そして今しがた、野村の口から作戦は上手くいったとの報告があった。
唯一残念なのはマルゲリータを顔面につけられて、慌て困惑している新谷の姿を見れなかったことだ。
もちろん現場の野村も見れていないだろう。
さぞや憐れだったことだろうに。
「マルゲリータ新谷に姿は見られなかったか?」
一応心配だったので聞いてみた。
「なんだよそのあだ名。
あぁ、最低限の変装しかしなかったけど、新谷のやつエレベーターに入ってきたときに鍵が見つからなかったからか、顔面蒼白だったから俺が先に入ってたことすら気づいてなかったと思うぜ。
あとはマルゲリータまみれの新谷が部屋に逃げ入ろうとしたけど、鍵がかかってたときの反応は見たかったなー」
「だよな。
それだけが残念だ」
そう言いながらも俺はこの復讐計画について、既にかなり満足していた。
しかし、野村の計画ではこれはただの始まり。
まだ復讐計画の「序」といったところだろうか。
「まぁともあれ、これで新谷はもう今の会社には長くないだろう。挫折をあまり知らないやつが一度狂った歯車を戻すのはそう簡単ではないはずだ」
野村の声は踊っていた。
「つまりあいつは近々会社を辞める。
野村の言うところの『金』、お金の出どころを奪ったというところだな。
それで次は何を奪うんだ?」
ワクワクとドキドキが交差した。
「よくぞ聞いてくれた。
次もバッチリ計画済だ」
こいつ、大学院生なのに勉強してるのか?
まぁいいけど。
「次は新谷の能力、つまりスキルを奪う」
「スキル?」
「あぁ、あいつの持ってる技能を奪うんだ。
でないと、せっかく会社を辞めたのにすぐに転職されたら意味がない」
たしかにその通りだが、俺は一つ引っかかった。
「でもそれ無理じゃないか?
だってあいつの持ってる仕事の技能って、パソコン関係だろ?いくらなんでもそれを奪うのは無理だろ。
記憶喪失にするとかは現実的じゃないし。
いくらなんでも腕を怪我させるとかはやらないだろ?」
野村は不敵に笑っている。
「その通り。
たしかに新谷の技能を奪うことは不可能。
毎日の仕事で染みついていることだしな。
なら、考え方を変えてみるんだ。
その染みついた技能を奪うことはできなくても、その技能を発揮しても意味がないようにもっていくことはできると思うんだ」
一瞬セミナー講師と喋っている錯覚に陥った。
「どういうことだ?」
「じゃあ、言い方を変えよう。
お前、自分の同僚がどんなやつだったら嫌?」
「嫌な同僚?
うーん。
嘘つくやつとかかなぁ」
「他には?」
「他?」
なんだ?答えがあるのか?
「うーん、ずる休みするやつとか」
俺じゃねぇか。
「他には?」
「うーん、なんか臭いやつとか」
「そう!!」
「びっくりした!!
急に大きい声出すなよ」
「すまんすまん。
でも嫌だろ、臭いやつって。
例えば仕事ができて臭いやつと、仕事は普通だけど臭くないやつ、どっちと働く?」
「そりゃ、臭くないやつだよ」
「だろ?
つまり、臭いやつってのは、技能を無力化されてるんだよ」
「あ!!!」
そう、そこで俺はあることを思い出して気付いた。
「だから昨日、新谷の部屋から帰る前に、俺を外に待たせて野村の家に戻ってたのか。
あのとき、何か小細工してたんだろ」
「お、気付いたか」
「てことは、新谷が寝たあと冷蔵庫をやけに物色してたのも何かしてたんだな?
でも一体何を…」
「ふふふ、一番手っ取り早く人間が臭くなるよはどこだと思う?」
こいつさっきからミニクイズ多いな。
なるほど、でもわかったぞ。
「口か。口臭。」
「その通り!
俺は新谷の冷蔵庫の中の水、お茶等の飲料や調味料ありとあらゆるものにニンニクエキスを注入したんだ。
あと洗面所で歯磨き粉にも入れたんだぜ」
ニンニクエキスなんて持って来てたのかこいつ、気持ち悪いな。
いや、頼りになるのか。
「でも昨日は酔ってたから気付かなかったとしても、流石に新谷も今日以降は臭いで気付くんじゃないか?ニンニクの臭いがすること。
あっそっか、気付いたとしても歯磨き粉自体にニンニクエキス入ってるから詰んでるのか。」
「その通り。
しかも新谷はおそらく自分の部屋の中がニンニクまみれなことに気づかないぜ。
そのために、倉松を外に待たして俺一人で作業してたんだから」
「そうだ。
あれ何してたんだ?」
「あれはな、除菌スプレーにもニンニクエキスを入れて部屋中に噴射してたんだよ」
「臭っ。でもなんでそんなこと?
余計バレるんじゃ…」
「たぶんバレないぜ。
思い返してみろよ。
友達の家に入ったときって、なんか独特の臭いを感じなかったか?
臭いかどうかじゃなくて。
それに引き換え、自分の家の臭いって感じないだろ?
だから新谷がニンニクの臭いに違和感を感じないようにニンニクスプレーを全部屋に噴出しといたんだよ」
理論的には確かに納得しそうになるが、本当に大丈夫なんだろうか?
「安心してくれ。
今日エレベーターの密室であったとき、既にあいつニンニク臭かったぜ。
あれでいざ口を開けて喋りだしたらもう、周りはヤバいだろな」
「あれ?てことは、新谷滅亡計画第二段階の技能を奪うのって…」
「そう、第一段階の金を奪う段取りのときに、既にほぼ完了させてたってわけ。
あとはにんにくの臭いが体中を駆け巡るのを待つだけ。効率的だろ」
こいつ、知能犯じゃねえか。
ただの飯食い大学院生じゃなかった。
「流石、野村だな。
ここまで短期間で新谷を追い詰めれるとは。
今日は久しぶりにぐっすり眠れそうだわ」
本心だった。
「フフフ、今日はともかくニンニク臭くない部屋でぐっすり寝てくれ。
また第三段階の実行段階がきたら連絡するわ。
そして次がおそらく新谷滅亡計画の最終段階になる」
「そうか、もうそんな段階か。
始まったら早かったな。
本当、今回の件野村に相談して良かったぜ」
「いーってことよ。
まだ礼は言うなよ。
全ては新谷の逃げ場を余すことなくなくしてからだからな」
それにしても、野村をここまで動かすモチベーション。
本当に生理的に新谷が嫌いだからだけなのか?
まぁいずれもう一度聞いてみるか。
「よし、じゃあ。
またな野村」
そう言って電話を切って、ベッドに横になった。
すぐにウトウトしてきたが、頭にこの数日であった色々なことが思い浮かぶ。
ベーグル。
ブロッコリー。
マルゲリータ。
ニンニク。
どれも俺は食べていないのに、なぜか頭から離れない。
食べ物以外も色々思い浮かんでくる。
ベーグル姉妹の姉レイミ。
顔の記憶があまりないが細いツリ目でキツい印象がある。声は少し不快な甲高い声。
こう思うと鳥のような印象の女子だった。
何の鳥かまでは考える義理もないし、興味もない。
ともあれ鳥だ。
髪型はショートカットだったな。
サイドを片方だけ刈り上げてた。
ポケットに携帯ナイフ忍ばせてそうだったな。
怖いな。
早く忘れよう。
次。
ベーグル姉妹の妹ミレイ。
顔の記憶があまりなかった。
だが垂れ目だった印象はある。
だけど何を喋っていたかも記憶がない。
髪型もどんなだったか…
短くもなく長くもなく、全国の女性のちょうど平均くらいの髪の長さだったんじゃないだろうか。
どんな服を着てたのかも記憶がない。
そもそも着てたのだろうか。
いや着てただろう。
着てたからこそ印象にないのだ。
代わりに垂れ目がこの子の印象の全てを引き受けている。
この子は忘れる以前に色々と普通すぎて情報がない。
そしてユウミちゃん。
どうしてだろう。
君には幻滅したはずなのに。
君のことは嫌いになったはずなのに。
どうして君のことを考えると左心房が疼くのだろう。
今でも君の全身が脳裏に浮かぶ。
ツリ目でも垂れ目でもない大きな瞳。
シフォンケーキのようなふんわりした髪。
女性に使う言葉かわからないけど中肉中背の身体に、ほどよく膨らんでいた胸。
数回だけど組んでるのを見てドキリとした両脚のワルツ。
ワルツ?
ワルツってなんだ。
そうか、今俺の頭の中で流れているんだ。
恋のワルツが。
会いたい。
会えないのならせめてメッセージのやり取りだけでもしたい。
「おはよう」「おやすみ」「また明日」
そのやり取りだけでもしたい。
でも俺は連絡先を知らない。
誰が知ってる?
新谷は間違いなく知ってるだろう。
でも今更あいつには聞けない。
野村は?
野村は知っているのか?
たしか「ユウミちゃんには協力頼めない」というニュアンスのことを言っていたけど、ユウミちゃんの連絡先を知らないとは言っていなかったはずだ。
あいつも知ってるんだ、連絡先。
恥を忍んで聞くか?
いや、絶対馬鹿にされる。
俺のことを新谷と一緒に馬鹿にしてた子なのに、何でそんなやつの連絡先を聞きたいんだって思うに決まってる。
文句言いたいから連絡先教えてくれって言うか?
うーん。
なんか違和感がある。
それに、連絡し合ってることがバレたときが恥ずかしい。
それとも理由は「ぼやかして」聞くか?
「ちょっと一応連絡先教えといてくれる?」という風に。
そうだ、ユウミちゃんだけじゃなく他の二人の連絡先も聞けば「今回の復讐の件で何か必要なのかもしれない」と勝手に良い誤解をしてくれるかもしれない。
よし、これだ。
〘さっきはセンキュー
ところでさ、一応例の女子三人の連絡先
教えといてくれない?
必要になるかもしれないし、さ〙
よし、バッチリだな。
これで送信と。
その後も野村からの返信を待ってる間、俺はユウミちゃんのことを思い浮かべていた。
飲み会で喋った僅かな会話を手掛かりに、それを何倍にも広げて空想で会話をした。
空想の中の自分はスラスラと喋り、むしろマウントをとっていた。
遊園地に行って公園に行ってショッピングに行って海に山に夜のドライブに。映画はなぜか行かなかった。
そうだ、女子は一日に一回はカフェに連れて行かないといけない生き物だと聞いたことがある。
コーヒーも紅茶も特段好きではないがカフェに行くと機嫌が良くなる。
カフェにいっていない時間が一定時間を越えると機嫌が悪くなる生き物だと聞いた気がする。
よし、もっとカフェにいこう。
そうだ、最初に遊びに誘うときは「カフェいかね?」って言おうか。
なんかカッコつけてるな。
「そうだ、カフェにいこう」
違うな、なんかキャッチフレーズみたいだな。
「今度カフェいかない?」
うん、シンプルでこれがいいな。
カフェに行ったら何を飲もう。
コーヒーも紅茶も詳しくないけど、キリマンジャロとか頼んじゃおっかな。
にしても、野村返信遅いな。
こんな時間に何してるんだよあいつ。
さっきまで電話してたとこだから、寝てるわけはあるまいし。
風呂に入ってるにしても、二時間も帰ってこないのはおかしいし。
好きな子ができて、どうしようか悩んでる女子ならそれくらい長風呂しててもいいけど、あいつは彼女いる男子だしな。
というか、もうすぐオッサンだよな俺たちも。
「洋平ー!ご飯できてるわよー!
というか、時間きたら自分で降りてきなさいよー!」
俺ももうすぐオッサンなのに、なんて言われようだ。
母よ、あんたは階段上がって直接呼ぶのもめんどくさいのか。
仕方なく俺は重い腰をあげた。
スマホは一応ポケットに入れていった。
「あんた、晩御飯の時間きたら降りてきなさいよ」というさっきと同じことを改めて聞きながら、俺は何の魚かわからない魚の煮付けを食べた。
悔しいかな、ご飯がすすむ。
あとはいつもの卵焼き。
間に海苔が入ってるやつ。
よく見たら朝御飯みたいだ、と思っていると「サラダも食べなさいよ」と母の小言が続く。
俺は言葉にならないような声で返事をし、僅かにサラダを食べる。
いつから親と喋らなくなったのだろう。
妹の果穂と父はよく喋っているのに。
今も二人ペラペラ喋っている。
なぜだ?まだ果穂が学生だからか?
母もボケる父に突っ込みだした。
果穂はそれを見てケタケタ笑っている。
よく見たら母も父も笑っている。
またか。
また俺だけ離れ小島状態か。
いつからだろう。
前までは四人で楽しく喋っていたのに。
俺が社会人になってからだろうか。
まあ、熟年した家族なんて、そんなもんだろう。
俺はさっさと残りのご飯をかきこみ、部屋に戻った。
すぐにスマホを見る。
すると野村から返信が着ていた!
俺は高鳴る胸を抑え込むように、一旦深呼吸をした。
五分だけぼんやりテレビを見てから野村の返信を見た。
〘え、三人って誰のこと?〙
それだけだった。
俺は愕然とした。
そしてすぐに苛立ちがこみあげてきた。
あいつは、なんてわからずやなんだ。
そんなのあの三人に決まってるだろ!
すぐに返信を入力した。
〘あぁ、レイカちゃんとミレイちゃんとユウミちゃんのことだよ〙
うーん。
ユウミちゃんを最後に書くと本命っぽいのがバレそうだな。
〘あぁ、レイカちゃんとユウミちゃんとミレイちゃんのことだよ〙
よし、これでバレないだろう。
送信、と。
すると今度はすぐに返信があった。
〘え、あの三人!?
急になんで?〙
あいつは本当に空気が読めないな!
頭がいいのかは知らんが、空気は本当に読めない男だ!
どうしよう。
正直に言うか?
いや、駄目だ。今更言うのは情けなさすぎる。
うーん、他にないか。
そうだ、合コンってのは異性の繋がりでどんどん繋げていくと聞いたことがあるような気がする。
よし、多少チャラく言って誤魔化そう。
〘いやー、ぶっちゃけるとあの三人に
また別の合コンセッティングしてもらおうと思って。
友達は可愛かったりするでしょ。〙
よし、これだ。送信。
そしてすぐさま野村から返信が着た。
今度は頼むぞ、野村ちゃん。
震える手で返信を見る。
〘おぉ、お前がそんなに恋愛に積極的だとは思わなかったわ。
でもそういうプライベートなことだったら、一応連絡先教えていいか、三人に聞いていいか?〙
こいつは駄目だ。
なんで肝心なところで真面目というか、律儀というか。
しかし、もう引くに引けない。
俺は全然構わないというニュアンスの返信をした。
それからしばらく返信がなかった。
モヤモヤがつのっていく。
なぜ返ってこない?
そうか、三人共が野村に返信しないと俺には返ってこないから、一人でも返さなければ俺に返信できないもんな。
大方バイトでもしてるんだろう。
結局その日は野村から返信がなかった。
俺はろくに寝れなかった。
朝になって鏡を見ると目が真っ赤になっていた。
眠たい。
しかし、仕事に行かなくてはいけない。
不条理な世の中だ。
一昨日仮病を使ったのに味をしめてまたサボろうかと思ったが、持ち前の勤勉さでなんとか着替えて出社した。
ぼんやりしたままバイクを走らせ、坂道ではアクセルを回し、下り坂ではブレーキをかけ、無表情の老人に無表情で荷物を渡し、無表情で右折をし、信号機では無表情で停車した。
また信号機をぼんやり見つめていると、今日は青色の中にユウミちゃんの顔が映って見えた。
やはり「進め」ってことか。
信号が青になると、俺はいつもよりアクセルをふかして発信した。
たぶん俺は普段より勇ましい顔をしていたと思う。
歩行者が見ていたら「ジャッカル」が郵便配達をしているように思ったかもしれない。
ジャッカルになってからは時間が進むのが早く感じた。
休憩中、かぶりつく勢いでスマホを見る。
昼飯はサンドイッチで十分だ。
野村からの返信が着ていた。
喜び勇んで緊張しながら中を見ると、たしかに連絡先が書いてあった!
ユウミちゃんの連絡先がそこにはあった。
あとの二人はどうでもいいが、レイカちゃんの連絡先がなかったのが少し気になった。
野村からも「レイカちゃんは返信がない」と言い訳混じりに書いてあったのが気になるが、まぁむしろ嫌いなタイプなのでどうでもいい。
いや、気持ち的にどうでもよくはないが、とにかくユウミちゃんの連絡先を手に入れたのだ、俺は。
しかも本人の許可もとれたということは、ある程度ウェルカムだということだ。
何て送ろうか。
いや、こんな仕事の休憩中に考えることはない。
終わって家に帰ってから、じっくり考えよう。
その日は、それから定時までの記憶がほぼなくなるくらい集中力を欠いていた。
どう送ればスマートに連絡をできるだろうか?
そればかり考えていた。
そして退屈な仕事がようやく終わった。
金曜だったのもあり、先輩に飲みに誘われたが俺は始めて断った。
そんなところに行ってる場合じゃない。
俺は俺を待ってる子のために早く愛の求愛信号を送らないといけないのだ。
風邪が治りきっていないと華麗に嘘をついて俺は家路を急いだ。
が、間の悪いことに最寄り駅に着いてすぐ野村から電話があった。
一刻も早く帰りたかったが、さすがに取らざるをえなかった。
「もしもし」
「お疲れ、今いけるか?」
「おう、ちょっとなら」
「…そっか、すまんな。
忙しいときに」
「いやいや、大丈夫だよ」
むしろ忙しくなるのは、これからだ。
「あのさ、新谷滅亡計画の第三段階の件だけど…」
そういえば、そんなこともやってたな。
「明日どうだ?
予定作れるか?」
「明日?あぁいけるぜ」
ユウミちゃんとのデートがなければな。
「じゃあ明日、また前のファミレスでいいよな?
時間はそうだな、九時くらいで大丈夫か?」
早っ!ほぼ出社感覚じゃねぇか。
まぁいいか。
「オッケイ。
じゃあ、明日。楽しみにしてるわ」
俺は巻き気味で電話を切った。
いつもなら、この電話で野村の計画をある程度聞いてるが、今日は俺を待ってる子がいる。
すまんな。
と俺は西の空に向かって声をかけて、歩き出した。
家に着くと自分の部屋に直行した。
そしてスマホの画面と長いにらめっこが始まった。
〘こんにちは。
倉松洋介です。
野村くんから連絡先聞きました。
またどこかでお喋りできたらと思います。
もし可能でしたら返信しただけますでしょうか。
よろしくお願い致します。〙
うーん。
なんか仕事の業務メールっぽいな。
もうちょっと砕けた方がいいか。
あ、あと前回の合コンで喋った内容も触れておこう。
何かでモテメールの常套手段って書いてた気がするし。
〘こんにちは。
倉松洋介です。
野村くんから連絡先聞きました!
またどこかでお喋りしましょうよ〜。
いけるのなら返信してください!!
よろしくどうぞ☆
ps.ブロッコリーの映画、この土日で見てみますね笑〙
うーん。
今度はなんか「こんにちは」が浮いてるな。
でもこの文に合う挨拶他にあるか?
俺はネットで「砕けた 挨拶」で検索してみた。
そして一つの思いがけない言葉に出会った。
そうか、この言葉、挨拶にも使えるんだ。
〘ヤッホー〙
凄い、俺は山登りでしか使わない言葉だと思っていた。
まだまだ世界は広いぜ。
俺は先程の文の「こんにちは」を「ヤッホー」に代えてみた。
うん、何か統一感が出た気がする。
その後、完成した文を十五分ほど見つめた。
結果的には何も変えずに送信した。
送信時は、なぜか目を瞑っていた。
そして目を開けた次の瞬間、俺はなぜこんな文を送ってしまったんだという恐怖に包み込まれた。
冷静になると恐怖を感じた。
「ヤッホー」って何だよ。
しかも冒頭から。
ヤッホーマンだとかヤッホー洋介とか山登り野郎とか、あだ名つけられてないだろうか。
いや、あの子はそんなこと言う子じゃない。
俺のヤッホーを正面から受け止めてくれるはずだ。
その後も何度も自分に襲いかかってくる後悔を、なんとか自己暗示で払いのけて返信を待った。
しかし中々返信はこなかった。
いつもの朝食のような夕食を黙って食べて、部屋に戻ってスマホを見てもまだ返信は着ていない。
気分転換に夜の散歩をしようと近所を歩いたが途中で「俺は作家か」と自分に突っ込んで十五分で帰った。
結局その日は、布団の中でスマホが光るのをひたすらに待ったが、スマホは一度も光らなかった。
対策をバッチリしているので、迷惑メールすら一通もこなかった。
始めてそれが寂しく感じた。
次の日、八時に目覚めた俺は眠気まなこで胸を押さえながらスマホを見た。
待ち受け画面はいつものままだった。
なぜあんなメッセージ送ってしまったんだろう。
後悔の波が押し寄せるが、もう後戻りは出来ないし、野村と会う用意もしなくてはならない。
俺は今まで生きていた中で一番ゆっくり着替えを済ませて、重い足取りで野村と待ち合わせしているファミレスに向かった。
よ
それにしても、予定が入っていて良かった。
なければ一日中悶々としているところだった。俺は野村にありったけの感謝をした。
ファミレスに着くと、約束の五分前だったが野村はまた一番奥の窓側の席にいた。
コーヒーを飲んでいたが、前回ここで会ったときには感じなかった「色気」を感じた。
「よっ」
俺は右手を上げた。
「おう、悪いな。
朝飯なかったから、先にここで食ってんだ」
そういえば俺も食べてない。
どうせ家にあっても喉を通らなかっただろうが。
それとは反対にモリモリハンバーグを食べている野村を尻目にまたスマホを見た。
もちろん返信はない。
俺は今日こんな感覚でスマホを確認し続けなければいけないのか。
店員にドリンクバーを注文し、メロンソーダを入れて帰ってくる。
今の俺にコーヒーの苦さは耐えれない。
「じゃあ、新谷滅亡計画の第三段階だが…」
朝飯を食べ終わった野村が喋りだした。
「お、もう九時五分か。
そろそろだな。」
時計を確認して言い出した。
何か起こるのだろうか。
少なくともユウミちゃんの返信はないだろう。
「軽くおさらいをすると、第一段階で新田から金を奪った。
まぁさすがにもう会社を辞めてはいないだろうが時間の問題だろう。
そして第二段階で技能を奪った。
あいつはこれから日々納豆漬けだろう。
技能を発揮してもニンニク臭い男という評価が上回る。
ちなみに、ニンニクフレイバーは月に一回は家飲みと称して、俺があいつの家に噴出しにいく。
そして今回の大三段階…
新谷から愛を奪う」
なぜかキメ顔の野村と目があってメロンソーダを噴出しかけたがなんとか堪えた。
「愛!?」
「そう、数少ない新谷に愛のある人がもうそろそろ来る頃だぜ」
新谷は時計をまた確認した。
しかし中々、その愛の持ち主は現れなかった。
少しイライラしている野村を見て、野村でもうまくいかないことはあるんだと安心した。
それから十五分後、聞いたことがある声が後ろから聴こえた。
「ヤッホー。ごめんね。遅くなっちゃった。」
一瞬「ヤッホー」に反応してしまったが、その声の主の姿を見てそれは吹き飛んだ。
来たのはミーコだった。
ミーコこと皆川美奈。
通称ミーコ。
なぜかミーコの「コ」は名前に入っていない。
大学時代、俺たちと同じゼミの数少ない女子の一人だ。
そういえば、ミーコは新谷と仲良かったはず。
「あ、そうか」と俺は全てを悟った。
ミーコと新谷は付き合っているんだ。
現在進行系で。
そして野村は新谷の、合コンやら女子への暴言の件を暴露しようとしている。
俺は新谷の暴言データを野村に送っている。
ここで、ミーコに聴かせることも可能なはずだ。
幻滅したミーコは新谷との恋人関係を解消する。
たしかに愛というか、心の拠り所を奪うことになる。
この追い込まれた状況でそれはかなり辛いはずだ。
しかしミーコが座った瞬間に、彼女は俺の予想を覆す一言を言い放った。
「あのさ、聞いてよ。
私と新谷付き合ってるのあなた達も知ってるよね」
恥ずかしながらさっきまで、俺は知らなかった。
「あのさ、別れようと思うんだよね」
野村は飲んでいたコーヒーを窓に向かって噴出した。
「おい、いきなり驚かすなよ」
野村は布巾で窓を拭きながら言った。
さすがに野村も予想していなかったんだろう。
今からやろうと思っていることを、当事者が自発的にするなんてことを。
「ちょっと、野村くん驚きすぎ。
だってあなた達も思わない?
あいつ、自分勝手すぎるんだよね。
最初は調子良いことばっか言ってるけど、慣れてきたら私の言うことなんて何にも聞いてくれないしさ。
プライド高いから、ちょっと否定すること言ったらすぐ怒るし。
それに、最近はあまり会ってないんだけどコソコソ浮気してる気もするし。
私、頭悪くても顔がカッコよくなくてもいいから、もっと優しい温和な人と付き合いたいんだよね。
私も今年二十代半ばだしさ、そろそろ結婚も考えると、ああいうタイプとはずっと暮らしたくないんだよね」
「え、そうなの?」
恐る恐る野村が聞いた。
どこか拍子抜けしている表情だ。
「そうよ!
だって、昨日もなんか嫌なことあったのか知らないけど、愚痴みたいなメッセージ送ってきたんだけどさ。
なんか結局どうでもいいから私返してないんだよね」
どうでもいいからメッセージは返さない…
なぜか俺は胸を押さえた。
「で、結局なんなわけ?
こんな日曜の朝からわざわざ呼び出して」
「ん?
いや、最近会ってないし何してるかなーと思って。
新谷とも最近会ったんだけど、ミーコのこと何にも言ってなかったから、もしかして上手くいってないのかなーと思って心配してさ」
今まであんなにどっしりしていた野村がワタワタしている。
合コンでの自分を見ているようだ。
「え?それだけ?
なんだ、あんたが結婚する報告かなと思っちゃったわ。ガッカリ。
だったら私用事あるっちゃあるから帰るね。
あ、フリーの良い男がいたら紹介してね。
じゃ、また」
そう言って、ミーコは五百円だけ置いて帰っていった。
頼んだロイヤルミルクティーは半分くらい残っていた。
ミーコがいなくなってしばらく呆然としていた俺たちだったが、野村がスマホを見ながら口を開いた。
「ま、もしかしたらお前も気付いてるかもしれないけど、本当はミーコに新谷の合コンとか、そこで来ていた女子たちの悪口を全部ミーコに聴かせて幻滅してもらおうと思ってたんだが、既にあこまで考えてるとはな。
まぁ、手を下す必要がなかったってわけだ。
本当はあいつの他の女友達とかにも密告してやろうと思ってたんだけど、さすがにもう充分哀れだよな」
「確かに。
そもそも合コンに来た女の子も実際可愛くなかった子いたし、その子の悪口ってほとんどの男が言うだろ。実際俺も思ってたし」
「ちなみに、その可愛くない子って誰だ?」
なぜか、それを言う野村の顔がけわしく見えた。
そのとき、俺はある一人の女子の名前を言おうと思っていたが咄嗟に名前を出すのをやめた。
嫌な予感がしたのだ。
俗に言う第六感だ。
「いや、別にこの子がって子はいないけど…」
「そうか」
それを聞いて野村は安堵した表情になった。
「じゃあ、まあこれで一段落ついたって感じかな。
新谷も充分これからの数週間は地獄を味わうだろう。
で、悪いんだけど実は俺今日本当は予定あったんだけど、このことでキャンセルしちゃったんだよね。
もうやることはやったし、ちょっと今からそっち行っていいか?」
俺は一瞬ムッときたが、すぐにまた第六感が働いた。
「彼女か?」
「あぁ…」
そう答えた野村の顔は、どこか儚げに見えた。
そしてドリンク代は、お詫びに奢るわという野村の言葉に甘えて俺たちは店を出て、気付けば俺は一人で駅に放り出された気になった。
そして一人になったことでまた感覚が研ぎ澄まされたのか、いくつかの疑問が一つの答えに帰結する気がした。
合コンであまり喋らなかった野村。
異様な新谷への執着。
合コンの女子三人の連絡先を聞いたのに二人分しか送ってこなかったこと。
そしてさっき、俺が合コンに可愛くない子がいたと言ったときの野村の対応。
そしてこのあと彼女と会うと言ったときの儚げな表情。
夏なのに、俺はなぜか恐ろしい寒波がきたように肩をすくませて震えてしまった。
そして野村に申し訳ない気持ちになった。
そうな、女子側にも数合わせのメンバーがいたのか。
だが、俺にはもう構っている余裕がない。
俺は俺の人生を華やかにしていかないといけない。
家に帰る電車の中で俺は意を決してスマホを見た。
なんと、ユウミちゃんからの返信が着ていた。
俺はあまりの興奮で、途中で止まった知らない駅で降りようかと思ってしまったが踏みとどまった。
いや、喜ぶのはまだ早い。
肝心なのは内容だ。
中身を見てみる。
〘うん、また遊ぼー〙
以上。
い、一行?
いや一行にも満たない半行だぞ、これは。
うそだろ…?
たしか俺七行くらい送ったよな。
七行が半行…?
しかも一日空けて。
十四分の一だぞ。
君の気持ちは俺の十四分の一だと言うつもりなのか。
ハロウィンには程遠い真夏の昼。
電車が家の最寄駅に着いた。
俺は季節外れのゾンビのように最寄り駅から家に向かった。
途中、コンビニで缶ビールを買った。
いつもは出していたポイントカードを出さなかった。
店員が怪訝な表情でこちらを見ていた。
今の俺はポイントなんていらない。
欲しいのは行数だけだ。
家に帰り、珍しく台所のテーブルに座ってビールのプルトップをゆっくり空ける。
通りかかった妹が、さっきのコンビニ店員のような怪訝な表情をしている。
そのあと、母親とひそひそ話をしているのが聴こえた。
今の俺は五感が研ぎ澄まされている。
ユウミちゃんにメッセージを送らない方が良いという第六感は働かなかったようだが。
そして俺はビールを半分くらい飲んだあと、ゆっくりスマホを出しメッセージを送った。
〘前はありがとうございました。
また、合コンやってくれませんか?〙
送り先は、新谷俊哉。
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