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ついこの間まで、エヴァンス領は戦場一歩手前だった。
ハイド国エヴァンス領は隣国との国境にある。隣国とは良好な関係を築いていたが、代替わりしたハイド国王が苛烈な人物で、急に他国への侵略戦争を仕掛け始めた。
国王は周囲を自分と同じ思想の人物で固め、軍を動かしたのだ。
そして隣国と接しているエヴァンス領が最前線となってしまったのである。
国境にある空っぽの要塞は軍の駐屯地となり、各部隊を率いる将軍たちが集まった。
のんびりと領主を務めていたヴィクターは慌てた。
まず、戦場となりそうな要塞近くの住民を避難させ、軍部には争いを考え直してもらえないか何度も頭を下げた。
自分よりもはるかに屈強な将軍らの会議に強引に出席し、反対意見を唱えた。怒鳴られても、考え直してくれとしつこくすがった。
元々温和なヴィクターだが、引けなかった。
自分の領地の住民の命がかかっていたのだ。
しかし血の気の多い将軍らは誰もヴィクターの話を聞かなかった。
焦るヴィクターは軍師にも頭を下げた。彼は赤みがかった長髪と髭から『暁の策士』と呼ばれていた。
老齢の軍師は耳は聞こえるものの発声に難があるらしく、介添に従者の少年を伴っていた。
必死で現状を説明し、戦を回避してくれと頼むヴィクターに、軍師は鷹揚と頷いた。
そして従者に身振り手振りで発言を伝え、それを彼が翻訳する。
「エヴァンス卿、気に病まれず。戦にはしません」
「ほ、本当ですか……?」
軍師は頷き、座り込むヴィクターの肩を硬い手でぽんぽんと叩いた。
軍師の言っていたことは本当だった。
従者は軍師の業務上の部下でもあったのだろう。また、第三部隊の女将軍はひそかに反体制派だったようである。
彼らが裏で動いたようで、あれほど息巻いていた将軍たちが、一人、また一人と反戦派に回って行った。
さらにヴィクターは軍師の指示通り、補給物資の調整や一般軍人たちへの裏工作を行った。戦ったところで敗色濃厚であるという噂を流したのだ。
最終的には無理な侵略を進めようとする将軍は残らなかった。
潮が引くように軍は撤収していき、戦の雰囲気は霧散した。
軍師に大変な感謝と礼を述べた際、彼はこう言った。
「エヴァンス卿、あなたは良い統治者だ。これからも領民を大切にする気持ちを忘れないでくれ」
ヴィクターは時折その言葉を思い出しながら政務に励んでいる。
その後、王都ではクーデターが起こり、暴君は倒された。
代わりにクーデターの首謀者だった暴君の息子であるステラの兄が即位したのである。
若き新国王は良識的な人物で、彼の元で政治の立て直しが行われた。
そんな中、ヴィクターは妹姫ステラとの婚姻を命じられたのである。
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