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蛇が店長に大目玉を喰らってから数時間後、蓮はいつもの様に外回りの営業兼配達に回っていた。
突然の出来事に動揺しているせいか、蓮は今日、つまらぬミスを何度も繰り返している。
一度、休憩して落ち着かせよう。蓮は得意先の個人病院の駐車場の端に営業車であるプロボックスを停車させると運転席のシートを一気に倒した。
午後の診療が始まったのだろう。あらかじめ左右に停車していた車内から小さな子供を抱いた母親達が待ち構えていた様に降りてくる。誰もが皆同じ様に心配気な表情を浮かべ、病院の入り口へと足早に向かっていた。
ふと、夜間にマユが高熱を出した日の事を思い出した。あの時は本当に心配で生きた心地がしなかった。実の子でなくても愛情というものは生まれるもの。自分はあの時確かにそう思った。
「しっかりしろ!」
蓮は声を出して両手で自分の頬を叩いた。朝比奈の令嬢との結婚。それは即ち華やかな黄金の未来。
蓮は使い古されたプロボックスの汚れた天井の滲みを見つめた。
汚い営業車に乗る派遣社員で先の見えない生活。スナックでボトル一つ気軽に入れられない様な惨めな生活。だが、朝比奈の親族になれば外車であろうが国産の高級車であろうが、ビンテージカーであっても何でも簡単に買えるだろう。勿論、スナックで銘柄を気にする必要などない。
そしてスーツは勿論オーダーメイド。こんな安物でほつれたものなどきっと二度と袖を通さない。
なのに俺はまだ何を迷っているのだ。
蓮は着古した背広の内側から徐にスマートフォンを取り出した。ロック画面には赤子を抱く笑顔のミチルの姿が写っている。
蓮は何かを振り払うように目蓋を閉じた。
そう、これはきっと、あの妖しい天使の導きなのだ。幸せになる為の運命の分かれ道。このチャンスは絶対に失うわけにはいかない。それにこのままうだつの上がらない俺と一緒にいてもミチルもマユも幸せはなれない。
俺は地位も名誉も、そして何より金が無い。
そうさ、金が無ければ愛する人を幸せになんて出来るわけがないじゃないか。
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