44人が本棚に入れています
本棚に追加
/71ページ
✳︎
緊急事態である。
俺は心を落ち着かせるために『下町奉行、呪詛を斬る!』のブルーレイを観ていた。江戸時代を舞台にした時代劇で、呪いにかかり半妖怪になってしまった多くの人たちと、呪いにかかっていない人たちとの人間模様を描いた知る人ぞ知る名作である。今でいうところのゾンビモノだが、あまりにもマニアックでこのドラマを知っている人物にお目にかかったことがない。
このドラマを知ったきっかけは父方の祖父である。祖父はいわゆるホラー好きで、怪談モノについて語らせたら右に出る者はいないのではないかと思うくらい、それはもう詳しかった。俺は子どもの頃に祖父がVHSで観ていた『下町奉行、呪詛を斬る!』をたまたま観てしまい、恐怖のあまり母のお尻に突撃した。
しばらく眠れぬ夜が続いたが、なぜか気になって再び祖父の部屋へ向かった。祖父はとても優しく、俺のことをかわいがってくれた。なので、祖父のことは大好きだ。そんな祖父がなぜあんなに恐ろしいものを観ていたのかがよくわからなかった。何のために自ら進んで怖い思いをするのだろうか。
「怖いいうのんはな」
祖父は俺を膝の上に乗せて、それはそれは優しい笑顔でこう言った。
「えんたあていんめんと、や」
何を言ってるのかわからなかった。
怖いものを見て、この満面の笑顔である。頭がおかしいのだろうか、と俺は本気で怖くなった。俺は祖父の膝の上から飛び出し、母のお尻に突撃した。
しかし、今ならわかる。
祖父の言っていたことが。
俺は祖父の影響をモロに受けて、すっかりホラー好きと成り果てた。怖いものは苦手だったし、祖父のことも怖くなっていたが、何かしら惹かれるものがあり、少しずつ祖父と一緒にホラーを堪能していった。初めは怖くて、祖父にしがみついて目を閉じていることが多かったが、慣れというのは恐ろしいものである。徐々にテレビの画面を食い入るように見ることとなる。
怖い。ふるえるほど怖い。夜寝る時や、お風呂に入ってる時に思い出すと、たまらなく怖い。
それでも観てしまうのは、なぜか。
それはホラーがエンターテインメントだからである。それ以外の答えはない。
人生で悲しいときや苦しいとき、いつもホラー作品が俺を救ってくれた。怖い。けれども、その怖さの底から生まれてくるエネルギーは温かく、勇気や希望として俺を励ましてくれるのだ。
だからこそ、大好きな『下町奉行、呪詛を斬る!』の力が必要なのである。
なのであるが。
見過ぎたせいか、何も感じない。それどころか、画面を見ていても頭に全然入ってこないし、気付くと別のことを考えてしまっている。つまり、観ていないのである。
なんてことだ。こんなことは今までなかった。共に苦境を乗り越えてきた下町奉行の苦渋に満ちた表情が画面に大写しにされる。
ドラマなんて観てる場合じゃない。俺の心がそう叫んでいる。俺の心を支配し、混沌の渦を作り出している人物の笑顔が頭に浮かぶ。
ふわふわの、たんぽぽの綿毛のような柔らかい髪。白い透き通るような肌からはキラキラと光が溢れているように見え、茶色がかった黒目が優しい視線をこちらに向けてくる。
俺の心臓は大いなる喜びと、絶望的な苦しみに苛まれ、もうどうしていいのかわからない。
「もうアイツに会えないなんて」
画面の中の下町奉行が絞り出すような声で言う。
「そんなこと、信じろってえのかい?」
信じたくなんかないよ、と俺は答えた。
最初のコメントを投稿しよう!