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居場所
「ねぇ、なんかよく見えないんだけど!」
望遠鏡を覗き込みながら杉崎に苦情を言う。
息は白く、空気は凛と澄んでいる。
今夜はしっかりと防寒してきたから、私はそこまで寒さを感じていなかった。
それより、早く輝く星達を望遠鏡を通して見てみたくてウズウズしている。
「ちょっと待って!
あなたがコーヒー飲みたいって言うから今準備してんでしょーが。」
杉崎は新品のキャンプ用コンロに四苦八苦している。
どうやら手がかじかんで上手く動かないらしい。
そのコンロは、美しい星空を見ながら美味しいコーヒーを飲みたいというワガママな私の願いを叶えるために杉崎が新しく買ってくれたものだ。
「はぁ、やっと着いた…。」
手を真っ赤にして杉崎がため息をつく。
コンロは青白い炎を発し、乗せられた小さなヤカンからは温かそうな湯気が上がる。
「ねー、早く!」
子供の様に催促する私に、今度は望遠鏡の調整のために杉崎が立ち上がる。
一人で忙しそうな杉崎を、私はニヤニヤと見守った。
「はい、出来ましたよ。」
望遠鏡を覗くと、あの日と同じ、淡い光をまとった美しい月がはっきりと目に映る。
「きれー…。」
うっとりと見惚れる私の横で、コーヒーを片手に杉崎が夜空を見上げた。
「今日は泣かないんですか?」
杉崎のくせに、意地悪に尋ねる。
「泣かないよ。
ただ美しいなと思うだけ。」
私はもう美しいものを見ても、自分の穢れを嘆いたりはしない。
フラワーショップの花々同様、その美しさに素直に癒しを感じ、感謝するだけだ。
「ねぇ、杉崎。」
私は望遠鏡を覗き込みながら杉崎を呼んだ。
「何ですか?」
いつもの無表情な感情のこもらない返事が返ってくる。
「大好き。」
…ッブ
杉崎が飲んでいたコーヒーを吹き出した。
「ちょっ、きったねーなぁ。」
私はゲホゲホとむせる杉崎を見て笑った。
「だから!
なんであなたは、いつもそう、突然…」
「でも、居心地いいんでしょ?」
杉崎の言葉を遮る様に言う。
いつもの無表情が真っ赤になって慌てるのを見て、私は意地悪く笑う。
「もうすぐ漫画、終わっちゃうねー。」
あたふたと溢れたコーヒーを拭く杉崎を尻目に、私は夜空を見上げながら寂しそうにつぶやく。
RENの漫画はそろそろ佳境を迎え、おそらく年内には完結してしまうだろう。
完結を迎えるにあたり、主人公はRENと肩を並べるほどに強くなっていた。
愛する者を失い、他を寄せ付けないほどにがむしゃらに力を手に入れたRENは、今は仲間に囲まれその孤独にすら打ち勝とうとしている。
漫画が終わってしまうのは寂しいが、漫画の中のキャラクター達がそれぞれに幸せを掴み取る姿に私は励まされている。
「また、一緒に映画行こう。」
隣にそっと寄り添う様にして杉崎が言った。
一見冷たい雰囲気すら感じる杉崎だが、私の心の動きを誰よりも敏感に感じ取ってくれる。
私もまた、触れ合う距離の杉崎の手から、杉崎の緊張や鼓動の早さを感じ取ることができる。
杉崎が与えてくれる『普通』の恋愛は、どんな恋愛漫画より甘く切ない刺激を与えてくれる。
私達は、お互いがお互いの大切な居場所になっていることにちゃんと気付いていた。
そして今も変わらず、杉崎はあのおんぼろ自転車に乗って私のアパートにやってくるのだ…。
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