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02
その山の名前を知る者は、もう誰もいない。日本にある土地、山岳にはそれぞれ名前が付けられているため、正確には名称は存在する。しかし、富士山を「芙蓉峰」や「富嶽」と呼ぶように、必ずしも正式名称で呼ばれるわけではない。この山も日本が付けた正式名称ではなく、かつては別の名前で呼ばれていた。
お願い山――。
どんな逸話があり、その名で呼ばれていたのか。それを知る者すら、もうすでにほとんどいない。朽ち果てたベンチと、伸び放題の草が生い茂り、大きな樹が一本生えているだけの展望台。いつからか、誰も訪れる者がいなくなった証拠であり、長い間放置された歴史を物語っていた。
人々の記憶から忘れ去られた山。それが、この山の現状であった。
「名前を忘れてしまったのですか?」
「……うーむ。何じゃったか、忘れてしもうた。そもそも、人間と話すのなんぞ、どれくらいぶりじゃろう?」
顎に手を当て、首を傾げ必死に思い出そうとする老人だったが、いくら思い出そうとしても思い出せない。喉まで出かかっているような、あと少しで思い出せる――ではなく、まったくもって名前の一文字すら思い出せない。
人々から忘れ去られるとは、それほどまでに神様の存在を歪めてしまうようだ。
「思い出せませんか?」
「……どうやら、そのようじゃな。まったく思い出せない」
「おじいちゃん、名前忘れちゃったの?」
それまで、必死に涙をこらえ黙っていた夏鈴が口を開いた。すでに、目に溜まっていた涙は潜め、純粋に澄んだ瞳で語りかける。
「……ダメじゃ。思い出せない。ワイの名前を知らんか?」
「し、知りませんよ。初めて会ったんですから」
「そうじゃよな。これは、大問題じゃ!」
「大問題? 落ち着いてください? 別に、名前を忘れただけじゃないですか。今に思い出しますよ」
焦る老人に対して、冷静に対応する奏凛。問題の当事者と第三者は、いつだってこのように温度差が生じてしまう。所詮は他人――と、割り切ってしまえば、案外冷静に広い視野を持つことが出来るが、当事者からすればそんな余裕はない。
実際に、神様にとって、名前を忘れてしまうっことは、死活問題なのであった。
「落ち着いてなどいられるか! 神は、人間の信仰があって、その存在を許されておる。そこに居るかもしれない。存在するかもしれないと思う願いを糧にしている。つまり、名前も思い出せないワイは、人間たちから忘れ去られ、消滅してしまう――ということじゃ」
人間が居て、初めて神は存在する。その言葉通り、人間が神はいると思うことでその存在は許され、崇められ、信仰へと繋がる。もし仮に、自分に何か不幸が訪れたとする。その時、九割以上の人間は、神様に祈るだろう。無神論者でも、化学がこんなにも発展した現代でも、それは古より変わらない。
神とて、自分の存在が消滅するとなれば、焦りもするものなのだ。
「……じゃあ、夏鈴が名前を付けてあげる」
「……なんじゃと?」
考えもしなかった提案だった。もちろん、根本的な解決案ではないが、問題の解決策としては申し分のない効果を持っていた。名前を忘れてしまったのなら、新たに名前を付けて、新たな信仰を得ればよいだけのこと。
いつだって、物事を解決するのは、純粋な心を持った者が示してくれる。
「そうだよ。新しく名前を付ければいいんだよ。そうすれば、少なくとも僕たちが忘れることはない。そうすれば、神様も消えないで済むでしょう?」
「……そうじゃな。頼む、ワイに名前を与えてくれ。お願いじゃ!」
この数分の間で、互いの立場が入れ替わったように、人間の子供に懇願する神様である老人。神にとって、屈辱ともとれる行動だが、自分の存在がかかっているとなては、必死にもなる。
神も人間も、自分が消えてしまうことを恐れる心に変わりはないようだ。
「それで、何がいいと思う?」
「うーん。ポメちゃんなんてどう?」
「ポメちゃん? それは、去年まで夏鈴が飼ってた犬の名前だろう?」
「うん。だって、目の辺りとか似てない? 口の周りの髭もふわふわしてて、ポメちゃんぽいし」
「いや、そうじゃなくて。神様の名前だよ。もっと神様っぽい名前にしないと」
「うーん……」
名前を付けるといっても、犬や猫のように簡単にはいなかった。それは、大きな問題があったからだ。神の名前になくてはならにいものが、この老人にはなかった。
それは、神話である。神社に祭られている神々には、それぞれ逸話があり、語り継がれて来たからこそ信仰が生まれる。有名な天照大神は、天界を治める太陽を司る神だからこそ、天を照らす大神の名を関している。
ふわふわの髭と、枯れ木のような細い身体の神から、名前を考えるには難題としか言えない。
しばらく沈黙が続いたあと、夏鈴がぼそっと言葉を零した。
「……わすれがみ。忘れ神なんてどうかな?」
「忘れ神? 自分の名前を忘れた神様だから?」
「そう。忘れ神。ぴったりでしょう?」
「ぴったりだけど……それでいい?」
一応、本人にも確認する。考えてみれば、これほど滑稽な名前はない。自分の名前を忘れたから忘れ神とは、忘れ物をした者を「忘れん坊」と呼ぶくらい滑稽なこと。変に伝われば、侮辱しているようなものだ。仮にも、神である老人が怒りでもしたら、また空中に飛ばされるかもしれない。
どんなに考えても、名前の思いつかない奏凛には、この賭けに乗るしかなかった。
「忘れ神か……良い名じゃ。これより、ワイは忘れ神と名乗ることにする。ほっほほほ」
「そ、そうですか?」
意外と寛容で、大雑把なところは、神と言えるのかもしれない。
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