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 その山の名前を知る者は、もう誰もいない。日本にある土地、山岳にはそれぞれ名前が付けられているため、正確には名称は存在する。しかし、富士山を「芙蓉峰」や「富嶽」と呼ぶように、必ずしも正式名称で呼ばれるわけではない。この山も日本が付けた正式名称ではなく、かつては別の名前で呼ばれていた。  お願い山――。  どんな逸話があり、その名で呼ばれていたのか。それを知る者すら、もうすでにほとんどいない。朽ち果てたベンチと、伸び放題の草が生い茂り、大きな樹が一本生えているだけの展望台。いつからか、誰も訪れる者がいなくなった証拠であり、長い間放置された歴史を物語っていた。  人々の記憶から忘れ去られた山。それが、この山の現状であった。 「名前を忘れてしまったのですか?」 「……うーむ。何じゃったか、忘れてしもうた。そもそも、人間と話すのなんぞ、どれくらいぶりじゃろう?」  顎に手を当て、首を傾げ必死に思い出そうとする老人だったが、いくら思い出そうとしても思い出せない。喉まで出かかっているような、あと少しで思い出せる――ではなく、まったくもって名前の一文字すら思い出せない。  人々から忘れ去られるとは、それほどまでに神様の存在を歪めてしまうようだ。 「思い出せませんか?」 「……どうやら、そのようじゃな。まったく思い出せない」 「おじいちゃん、名前忘れちゃったの?」  それまで、必死に涙をこらえ黙っていた夏鈴が口を開いた。すでに、目に溜まっていた涙は潜め、純粋に澄んだ瞳で語りかける。 「……ダメじゃ。思い出せない。ワイの名前を知らんか?」 「し、知りませんよ。初めて会ったんですから」 「そうじゃよな。これは、大問題じゃ!」 「大問題? 落ち着いてください? 別に、名前を忘れただけじゃないですか。今に思い出しますよ」  焦る老人に対して、冷静に対応する奏凛。問題の当事者と第三者は、いつだってこのように温度差が生じてしまう。所詮は他人――と、割り切ってしまえば、案外冷静に広い視野を持つことが出来るが、当事者からすればそんな余裕はない。  実際に、神様にとって、名前を忘れてしまうっことは、死活問題なのであった。 「落ち着いてなどいられるか! 神は、人間の信仰があって、その存在を許されておる。そこに居るかもしれない。存在するかもしれないと思う願いを糧にしている。つまり、名前も思い出せないワイは、人間たちから忘れ去られ、消滅してしまう――ということじゃ」  人間が居て、初めて神は存在する。その言葉通り、人間が神はいると思うことでその存在は許され、崇められ、信仰へと繋がる。もし仮に、自分に何か不幸が訪れたとする。その時、九割以上の人間は、神様に祈るだろう。無神論者でも、化学がこんなにも発展した現代でも、それは古より変わらない。  神とて、自分の存在が消滅するとなれば、焦りもするものなのだ。 「……じゃあ、夏鈴が名前を付けてあげる」 「……なんじゃと?」  考えもしなかった提案だった。もちろん、根本的な解決案ではないが、問題の解決策としては申し分のない効果を持っていた。名前を忘れてしまったのなら、新たに名前を付けて、新たな信仰を得ればよいだけのこと。  いつだって、物事を解決するのは、純粋な心を持った者が示してくれる。 「そうだよ。新しく名前を付ければいいんだよ。そうすれば、少なくとも僕たちが忘れることはない。そうすれば、神様も消えないで済むでしょう?」 「……そうじゃな。頼む、ワイに名前を与えてくれ。お願いじゃ!」  この数分の間で、互いの立場が入れ替わったように、人間の子供に懇願する神様である老人。神にとって、屈辱ともとれる行動だが、自分の存在がかかっているとなては、必死にもなる。  神も人間も、自分が消えてしまうことを恐れる心に変わりはないようだ。 「それで、何がいいと思う?」 「うーん。ポメちゃんなんてどう?」 「ポメちゃん? それは、去年まで夏鈴が飼ってた犬の名前だろう?」 「うん。だって、目の辺りとか似てない? 口の周りの髭もふわふわしてて、ポメちゃんぽいし」 「いや、そうじゃなくて。神様の名前だよ。もっと神様っぽい名前にしないと」 「うーん……」  名前を付けるといっても、犬や猫のように簡単にはいなかった。それは、大きな問題があったからだ。神の名前になくてはならにいものが、この老人にはなかった。  それは、神話である。神社に祭られている神々には、それぞれ逸話があり、語り継がれて来たからこそ信仰が生まれる。有名な天照大神(あまてらすおおかみ)は、天界を治める太陽を司る神だからこそ、天を照らす大神の名を関している。  ふわふわの髭と、枯れ木のような細い身体の神から、名前を考えるには難題としか言えない。  しばらく沈黙が続いたあと、夏鈴がぼそっと言葉を零した。 「……わすれがみ。忘れ神なんてどうかな?」 「忘れ神? 自分の名前を忘れた神様だから?」 「そう。忘れ神。ぴったりでしょう?」 「ぴったりだけど……それでいい?」  一応、本人にも確認する。考えてみれば、これほど滑稽な名前はない。自分の名前を忘れたから忘れ神とは、忘れ物をした者を「忘れん坊」と呼ぶくらい滑稽なこと。変に伝われば、侮辱しているようなものだ。仮にも、神である老人が怒りでもしたら、また空中に飛ばされるかもしれない。  どんなに考えても、名前の思いつかない奏凛には、この賭けに乗るしかなかった。 「忘れ神か……良い名じゃ。これより、ワイは忘れ神と名乗ることにする。ほっほほほ」 「そ、そうですか?」  意外と寛容で、大雑把なところは、神と言えるのかもしれない。
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