第一章

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第一章

「ええっと、ここらあたりのはず……」 千九百二十五年、ここは大日本帝国・東京。 多くの人が道行く町中を俺は一人歩いていた。 年は十七。今年中学校を卒業したばかりである。 大きな風呂敷包みと竹刀を背負い、手には地図と小さな紙を持っている。 俺は地図と紙きれを交互に見ながら、故郷のあぜ道とは違う、きちんと舗装された道をてくてくとさ迷い歩く。 時折、笑いあう女学生や走る馬車とすれ違いながら、目的地を探す。 「うーん……」 俺は立ち止まって、紙切れを見つめる。 だいぶ文字がかすれてしまって読みにくいが、何とか住所は読むことができる。が、他の部分はほとんど読めない。 「場所は間違ってないはずなんだけれどな……」 生まれ故郷と違って見慣れない洋風の家々が立ち並ぶ東京の街は、俺には少々歩きにくく感じる。 「えっと、今ここの角を曲がったから、少しまっすぐ行って―――」 場所を確認し、地図から顔を上げた時だった。 「なぁ兄ちゃん。ちょっと、ちょっとでいいんだよ」 「いえ、これは店で使う大事な材料でして……」 視線の先で何やら言い争う声が聞こえた。 見ると、一人の男を複数人の浮浪者が囲んで、何かを要求しているようだ。 「こないだの大地震でその日暮らしもままならない俺らをかわいそうだと思わないのか、え?」 「何も食糧全部おいてけっつってねえんだ。ちょっと分けてくれるだけでいいんだよ」 複数人に詰め寄られ、囲まれた男はアワアワとするばかりである。手に何か大きな荷物を持っているので、買い物帰りだろうか。大事そうに、守るように両腕でしっかりと抱え込んでいる。 ―――しょうがないなあ 持ち前の正義感がうずいて、気が付けば背負っていた竹刀を手に取っていた。 「で、ですから、これはお分けすることができないと……」 「ああん? こんだけ丁寧にお願いしてもダメってか?」 とうとうしびれを切らしたのか、一人が荷物に向かって手を伸ばした。その時。 「ちょっとそこの人たち」 声がしたと同時に、伸ばされた腕が叩き落された。 「この人、嫌がってるみたいだけど何してるの?」 「あ? 何だガキかよ。今お話し中で忙しいんだ。すっこんでな」 割り込んだのが子供だと知って、露骨に嫌そうな顔でシッシッと手で追い払う仕草をされる。 「ふーん、お話、なんて生易しいものじゃなさそうだけど。その人の荷物に何か用があるなら、先に俺が話聞くけど?」 「ああ? お前こいつの知り合いか?」 「そんなもんかな。どうしてもこの荷物が欲しいなら、この北辰一刀流免許皆伝の瀧上淳之介と『お話』してからでもいいかな?」 「ほ、北辰一刀流?!」 「お、おい、やべえぞ……」 「ちっ……」 竹刀をまっすぐに構える俺に怯んだのか、恨みがましそうに男たちはどこへともなく去っていった。 「ふう……」 手の甲で額の汗をぬぐう。 「あ、あの、ありがとうございました。助けていただいて」 振り返ると、荷物を抱えた男がへにゃりと笑って言った。 「お怪我、ありませんか?」 「ええ、おかげ様で」 ひょろりと背の高い男だ。ロイド眼鏡をかけて、ぼさぼさの髪をしている。 ―――何だか、頼りないなあ。 俺は素直にそう思った。先ほどのおどおどとした態度もその印象に拍車をかけている。 「そうだ、何かお礼をさせてください。僕、この先で店をやっているので、何か御馳走しますよ」 「え、いやそんな、いいですよ」 俺は手を振って遠慮した。 「俺、行かなきゃいけないところがあって……」 「急ぎなんですか?」 男が俺を覗き込むようにして言った。 「あ、その、急ぎっていうわけではないんですけど」 俺は言い淀んでしまった。 「もう昼もいい時間ですよ。お昼ご飯、もう食べられました?」 「いやあの、えっと……」 俺がどうにか言い訳を考えようとしていたところ、ぐう、と腹の音が鳴った。 俺は顔を赤くして自分の腹を押さえる。 「丁度良かった。お昼、ご馳走しますよ」 「……どうも」 恥ずかしさのあまり素っ気なくなりながらも、男についていくことになった。 「ところで、ちょっとお聞きしたいんですけど」 道すがら、この男に聞いてみることにした。 「はい、何でしょう?」 「ここの住所を探しているのですが、お心当たりありませんか」 そう言って小さな紙きれを渡す。 「どれどれ……」 紙切れを確認した男が、その場に立ち止まった。 「? どうかしましたか?」 ぴしりと、まるで石のようになってしまった男をいぶかしげに見やる。 「……あの、これをどこで入手したんですか?」 突然の問いかけに、俺の頭に疑問符が浮かぶ。 「故郷の書店の前で。成長したら訪ねて来いと」 「……まったく、あの人は何を考えてるんだ……」 ぼそりとつぶやいた声はほとんど聞こえなかったが、何やら不穏な気配である。 「あの、お心当たりが?」 思わず声をかけてしまった。 「……まあ、すぐにわかりますよ」 男は何とも言えない笑みを浮かべて、再び歩き始めた。 「?」 訳が分からなかったが、とにかくついていくしかないと、俺は男の後を追った。 「さ、ここですよ」 男は一軒のカフェーのドアに手をかけた。金属製の看板には「スイレン」の文字と睡蓮の花の絵が彫られている。 ドアが開くと同時に、カランカランと来客を告げるベルが鳴る。それと同時に。 「いらっしゃいませ」 風鈴の音のような、可憐な声が俺たちを迎えた。 「やあ、ただいま、八雲」 男がにっこりと笑いかける先には―――。 「あ、お帰りなさい修二さん」 鈴を転がすような声に似つかわしい、愛らしい少女がいた。 さらりと揺れるおかっぱの髪に、春によく合う若葉色の着物に西洋の前掛け姿、青空を映したような真ん丸な瞳に淡い桜色の小さな唇。 「……」 しばし見惚れる。都会にはこんな愛らしい女性がいるものなのか。 「あら、そちらの方は?」 八雲、と呼ばれた少女が修二と呼ばれた男の後ろを覗き込むように、俺を見た。 「ああ、訳あって連れてきたんだ。絡まれてたところを助けてもらってね、お礼がしたくて。名前は、ええと……」 「瀧上淳之介、です。ちょっと、人探しをしていまして」 「あらまあ。私、大外八雲です。ここで住み込みの女給として働いています」 ぺこりと頭を下げる大外さんに、慌てて俺も頭を下げる。 「僕も自己紹介していませんでしたね。森嶋修二です」 「森嶋?」 聞き覚えのある名字に反応する。 「うん。瀧上さんが探してた住所、ここです」 「え、あ、ええ?!」 俺は飛び上がらんばかりに驚いた。 「いやあ、数奇な偶然ってのはあるもんだねえ」 まあ立ち話もなんだから、と修二さんが俺を店の中に招き入れる。 中に入ると、カランとドアが閉まった。 いたって普通のカフェーだ。それなりの広さのホールに机と椅子が並び、蓄音機からははやりのジャズが流れている。会計場には年代物の楕円の手鏡が飾られている。 昼のピークを過ぎているからだろうか、室内には二、三人の客がいるだけだ。新聞を広げている人もいれば、静かに通りの景色を眺めている人もいる。 「……」 「はい、お待ちどうさま」 それまで恐縮して座っていた俺は、料理を見た途端ぱあ、と目を輝かせた。 「これが、おむらいす、というやつなのですね!」 目の前には楕円形の黄色い卵に包まれた料理が、ホカホカと湯気を立てている。 「瀧上さんは洋食は初めて?」 一心不乱に金属製の匙でオムライスをかき込む淳之介が、うんうんと首を大きく立てに振って肯定する。 「お味はどうですか?」 「……っおいしいです!初めての味で、何と言っていいのかわかりませんが……酸味があるご飯を卵の甘みが押さえてくれてて……」 「そうですか、それはよかった。僕も作った甲斐があったというものです」 満足そうに修二さんが頷いた。 「それで、ここには何の用事でいらっしゃったんですか?」 大外さんが不思議そうに話しかけながら、アイスクリーム(というらしい)を俺と、その向かいに座って珈琲を飲んでいる修二さんの前に置いた。 「俺、森嶋一仁さんの弟子になりに来たんです!」 威勢よくそう言った俺に、二人は一瞬驚いた表情を浮かべた後、気まずそうに視線を合わせた。 「あー、一仁……は僕の兄、なんですけど……」 「その、一仁さんはどちらに? お出かけ中ですか?」 「お出かけ中というか、何と言いますか……」 妙に歯切れの悪い修二さんに、俺は不思議そうな顔をした。 「いや、実を言いますと、兄は二年前から行方が分からないんですよ」 「えっ?!」 椅子がガタリと音を立てた。 「兄は、何というか、放浪癖といえばいいのですかね? ある日ふらっといなくなったかと思えば、思い出したように帰ってくる人なんですよ。それで今、帰ってきていない状況でして……」 「ええ……?」 俺はただただ脱力するばかりだ。 「はるばる来ていただいたところ申し訳ない。ですが兄は、いつ戻ってくるかわからない状況でして……」 「そうですか……」 がっくりと落胆する俺に、大外さんが話しかけてきた。 「瀧上様はどういった経緯で、一仁様とお知り合いに?」 「あ、ええと、もう何年も昔の話になるんですけれど」 そう言って、俺はとつとつと話し始めた。 その日は木枯らしがきつく吹き付ける日だった。 学校終わりに近くの書店に立ち寄るのが俺の日課。 俺に高額な本が買えるような金はない。だから、決まって長い時間立ち読みするのだった。 本を読んでいると、何やら喧騒が聞こえてきた。どうやら、店の前で誰かが絡まれているらしい。 本を棚に戻して、淳之介は店の表に出る。すると見知った顔ぶれが、見知らぬ男に何やら話しかけているようだ。 「よう、本食い虫の淳之介」 話しかけてきたのは同じ小学校に通ういじめっ子の一人だ。名は何と言ったか、もう忘れてしまったけど。 「こいつ、お前と同じ。本食い虫のジジイなんだぜ。ずっと本屋のおんちゃんと話こんじょったからにゃあ」 「……それが、どういた。本を読むらあて、珍しいことでもないろう」 「本なんて学校以外で読むやつらあて、皆お前と同じ、根暗の芋虫やき」 「そうそう。小説らあて、馬鹿しか読まんもんやきにゃあ!」 思わず、かっとなった。自分はどう言われようとも良い。だが、自分が夢見た本を、ましてやそれを愛好する同志を馬鹿にするとは、今度ばかりは捨て置けない。 気が付けば同級生に掴みかかっていた。相手の拳を正面から顔面に食らった。世界がぐらぐらとまわる中で自分も殴り返したような気がする。 気が付けば、いじめっ子たちの姿はなかった。あとに残されたのは、絡まれていた男とぼろぼろの自分だけだ。 「大丈夫かい?」 初めて男が声をかけてきた。 「何とか……」 口の中が鉄臭い。鼻からも何か出ている感覚がする。 「君は、勇気ある子だね」 男が言った。 ヒュウヒュウと木枯らしが自分たちにぶつかって、彼方に去っていく。 「そんなことないです。でも、大事な本を馬鹿にされて、俺、腹が立って……」 俺は頬を赤らめながら、うつむきがちに呟く。 「本を馬鹿にされたことであんなに激高するなんて、君は本に興味があるのかね」 男が驚いたように言った。 「はい。大きくなったら俺、文士になりたいんです。今は本を買うお金はないんですけれど……」 「そうか、そうか」 男はしばし考えた後、懐から一冊の本を取り出し、小さな紙きれをはさんで俺に差し出した。 「君がもっと大きくなって、独り立ちできるようになってもまだその夢を持ち続けているなら、ここへいらっしゃい。きっと力になれる」 俺は呆然とそれを受け取る。男はにっこりと笑って、踵を返した。 「あの、お名前は」 俺は追いかけるように問うた。 「私かい?私は―――」 男は本の表紙をトントンと人差し指の先で叩いた。表紙には「緋色の愛」という題名が書かれており、その隅のほうに「森嶋一仁」と書かれていた。 「これ、あなたの……」 「そうだよ、私が書いた本さ」 男―――森嶋さんが胸を張る。 「すごい……本当の文士さんに会えるなんて!」 「ははは、そんなに有名ではないのだけどね」 森嶋さんは今度は恥ずかし気に帽子を手でいじる。 「今日はいいものを見せてもらった。君がその夢を忘れない限り、私も力になれることだろう。だから、また、いずれ」 そういうと、今度こそ男はその場を去った。 俺はというと、まだ胸の高鳴りは静まっていなかった。 足早に書店を後にし、家に帰り着くと、転がり込むように自室に入り、すぐさま机に向かって本をひろげる。 物語は俗世に疲れた主人公が一人旅を決意するところから始まる。そして出会いと別れを繰り返し、とある旅館で働く仲居と熱烈な恋に落ちる。 今までに読んだことのない類の話であったが、不思議と引き込まれる。特に、主人公が仲居を連れて駆け落ちする場面は、紙がよれるまで何度も読み返すほど気に入りの場面だ。 こうして、もらった本は愛読書となり、いつかこれを書いた本人に弟子入りを果たそうと心に決めた。 そして中学校を卒業すると同時に故郷・高知を飛び出し、東京まで上ってきたわけである。 話を聞きながら、ほう、と感嘆のため息をつく修二と八雲。 「そんな遠いところからはるばる東京にまで……」 「はい。ぜひとも森嶋先生にご教授願いたいんです」 俺の瞳がじっと二人を見据えている。 「……とは言っても、本人が不在だしねえ……」 うーん、と唸っていた修二さんが突然何かを思いついたように手を打った。 「そうだ、兄本人はいないけど、ここで書いていった資料とか作品はあると思うから、それを見て行ってもらう、というのはどうでしょう? 何か参考になるのもがあるかもしれない」 「え、いいんですか?」 「もちろん。兄がご迷惑をおかけして、はるばる来てもらってただで帰すわけにはいきませんからね」 「ありがとうございます! 本当に感謝の念に堪えません」 俺は机に頭をこすりつける勢いで頭を下げた。 「そんな、大したおもてなしもできずこちらこそ申し訳ない」 頭を上げてください、と修二さんがアワアワと取り乱す。 「お昼までいただいて、その上森嶋先生の資料まで見せていただけるなんて……これを僥倖といわずして何と言いましょう」 感激のあまりガタンと音を立てて立ち上がってしまった。 そんな俺を見て、大外さんが袖で口元を隠しながらふふ、と笑った。 途端、俺は恥ずかしさでいっぱいになってしまった。子供っぽいところを見られてしまった、と後悔したが、時すでに遅し。 「あ、いやその……」 何とか胡麻化そうと、ううん、と咳払いして、深呼吸して、ようやく少し落ち着いた。 「早速案内しますよ。待ちきれないでしょう」 「……はい。よろしくお願いします」 もう誤魔化しようがないと悟って、素直に修二さんについていくことにした。 カフェーの奥の階段を上がると、修二さんは右手奥の部屋のふすまを開けた。 「ここが兄の部屋です」 「うわぁ……!」 俺は思わず目を輝かせた。 壁際に隙間なく置かれた背の高い書棚には、所狭しと本が並んでいる。森嶋さんの著書もいくつか入っているようだが、他の文士の作品のほうが圧倒的に多い。 奥には作品を書くときに使うのであろう文机と座布団が一式、その上に白紙の原稿用紙と洋墨、ペンが脇に置かれている。 本物の文士の部屋だ。否が応にも胸が高鳴る。 「自由に見てもらって構いませんよ。どうせ兄はしばらく帰ってこないでしょうし」 その言葉を皮切りに、俺は室内へ足を踏み入れた。 まるで夢の中を歩いているようだ。畳の感触が遠い。 引き寄せられるように書棚に近寄る。手近な本を一冊手に取った。 その時、パタパタと階段を上ってくる足音が聞こえた。振り向くと大外さんと修二さんが何か話し合っていた。 「すみません、お客様がいらっしゃったので……。ゆっくりしていってくださいね」 「はい、重ね重ね、ありがとうございます」 俺の返事を聞くと二人はにっこりと会釈して、階下へ去っていった。 俺はお言葉に甘えて、森嶋さんの書棚をじっくりと見せてもらったのだった。 どれぐらいたったのだろう。 ふと窓の外を見ると、とっぷりと日が暮れていた。 「失礼します」 愛らしい声と同時にふすまが空いて、大外さんが顔を出した。 「お邪魔して申し訳ございません。お茶をお持ちしましたので……」 「ああ、お気遣いなく」 俺は恐縮して、お盆から湯飲みを受け取る。よく冷えたお茶が火照った体に心地良い。 「お時間、大丈夫ですか?」 「そうですね、そろそろお暇します」 よいしょ、と立ち上がる。長いこと同じ姿勢でいたせいか、体のあちこちが痛い。 「正直、まだまだ見足りないですよ。どの作品もすごく良くて、見ていると欲しくなってしまうほどです」 「あら、一仁様がお聞きになったら、それはそれは喜ぶでしょうね」 そう言葉を交わしつつ、大外さんと階段を下りる。 「今日はどちらにお泊りに?」 何気なく大外さんが言った。 「大風荘というところに下宿する予定です」 「まあ、では、隣町じゃないですか。ここからそんなに離れていませんね」 「ええ。また時々、ここにも立ち寄ろうかなと思います。いい店を知れてよかった」 もう客もいなくなった店を出ようと、扉の前に立つ。 「いやあ、今日はお世話になりました」 修二さんも出てきて、見送ってくれる。 「いえ、そんな……こちらこそお世話になりました」 お互いにぺこぺこと頭を下げあう。 そのとき、ふと大外さんが会計場の横の鏡を見た。そしてその顔からさっと血の気が引く。 慌てて鏡に駆け寄って、懸命にのぞく大外さんが気になって、俺も鏡を覗き込む。 ―――そこに、大外さんは映っていなかった。代わりに、何か建物が焼けている光景が映し出されている。 「ひ……?!」 思わず、小さな悲鳴を漏らしてしまった。 「……瀧上様?」 大外さんがこちらを振り返る。 おそらく青ざめているであろう俺を見て、何かを察したようだ。 「……見えたのですね、今の光景が」 首を縦に振るか横に振るか、悩む。どちらに振ってももう遅い。 「見えた? 彼に?」 修二さんが驚愕の表情を浮かべる。 「―――瀧上様!」 突然、大外さんが俺の手を取った。 「!?」 あまりに唐突だったため、はしたないと手を振りほどくこともできず固まってしまう。 「今日は大風荘に行かないで!他の宿をとってください!」 大外さんは真摯な瞳で、そう告げた。 「そっ……そんなことを言われても」 見知らぬ土地で、そこしか行く当てもないというのに、何を言うのか。 「誰か、近くにご親戚がいるとか、ないですか?」 修二さんまでもが、真剣な眼差しで問うてくる。 「親戚なんていませんよ……。いてもわからないし」 一体何だというのか。さっきの火事と俺というのが全く結びつかない。 「あの、とにかく、ありがとうございました!」 「あ、ちょっと……」 修二さんの制止を振り切って、俺は表に飛び出た。 はっ、はっ、と息を切らせながら下宿への道を急ぐ。 外はだいぶ暗くなっていて、ガス灯を頼りに走っていく。 時々地図で現在地を確認しながら、一目散に大風荘を目指す。 ―――嫌な予感がしてならなかった。 さっきの不可思議な鏡に映った光景が、やけに頭にちらつく。 ―――あんなものが、現実にあるはずはない。 早く安心したくて、無心で駆ける。 そのうちに建物の近くまで来た。 ―――唖然とした。 大風荘があるはずの場所から大きく火の手が上がっている。 近くの住人はもう避難したのか、周りにいるのは消防団たちだけのようだ。 その光景を呆然と眺める。 「瀧上さん、足、速いね……」 後ろから声がした。ぜえ、はあ、と荒い息をついて立っていたのは修二さんだった。 「……」 俺は声も出せなかった。 「戻りましょう。聞きたいことは山ほどあるでしょう?」 そう言って修二さんは俺の腕をつかんで歩き出す。 俺はされるがまま、元来た道を戻っていくのだった。 カランカランとベルが鳴って扉が開いた。 「! お帰りなさい!」 大外さんが駆け寄ってくる。ほっと胸をなでおろしたような笑みだった。 「ただいま。今回は巻き込まれずに済んだよ……」 修二さんは俺の腕をつかんだまま、二階へと誘う。 「修二さん、腕、痛いです……」 ぼそりとつぶやくと、そこで初めて俺の腕をつかんだままの手を思い出したらしい修二さんが慌てて手を離した。 「すみません! 慌てていたものですから」 「いえ……」 なんとも、言葉が出てこなかった。 「どうぞ、中に入って座ってください」 そう言って通されたのは、茶の間だった。 ちゃぶ台とラジオだけの質素な部屋で、修二さんと向かい合って座る。 「お茶、お持ちしました」 大外さんがことり、と湯飲みを置いた。二人分置き終えると、自分は部屋の隅にちょこんと座りこむ。 「さて、何から話したものか……」 修二さんが頭を掻く。 「あの鏡は何なのですか? 映るはずのないものを映す鏡なんて……聞いたことがありません」 震える声で問う。 「いいや、あれは映るべくして映ったものだよ」 修二さんが首を振る。 「瀧上さん、あなたはこの世の者ならざるものを信じていますか?」 「え?」 突然の質問に困惑する。 「例えば、幽霊や妖怪、西洋風に言うなら悪魔かな。そういったものは現実に存在すると思いますか?」 「……それが今回の件に、何か関係があるんですか?」 「ええ、大ありです」 最初は茶化しているのかと思っていたけれど、いたって真面目な表情の修二さんを見ていると、そんな気はすぐに失せてしまった。 「……いない、と思っていましたけど。今回の不可思議な鏡を見ているとどうにもいるように思われます」 「そうですか。そう思っていただけるなら、話は早い」 修二さんは一口お茶を飲むと、こう続けた。 「もう実のところを言ってしまいますが、あの鏡は普通の鏡ではありません。雲外鏡という妖怪の一種なのです」 「えっ……」 にわかには信じられなかった。今大外さんが抱えている手鏡がそんな奇怪なものだとは。現に、今は覗き込む俺をそのまま映しているだけだったのだ。 「おそらく、舶来品として江戸時代中期頃のいつかに日本に渡ってきたものと思われます。意匠が西洋風ですからね。そして百年あまりの時を経て生まれたのが、この雲外鏡なのです」 「雲外鏡……」 正直、俺に恐怖がなかったかと言われれば、少しばかりはあった。しかし、物書きの卵として興味をひかれたのも事実であった。 まじまじと鏡を覗き込む。至って普通の鏡にしか見えないのに、これが物の怪のたぐいであるとは。 しかし先ほどの一件を鑑みるに、どうも嘘八百を並べ立てられたわけではないらしい。 ……なぜか、大外さんが落ち着かないようにそわそわとしている。 「ああ、すみません! あなたを覗いていたわけではなくてですね……!」 はっと気が付き、慌てて謝った。 妙に焦ってしまう。ここ何年も母以外の女性とあまり接しなかったためか、他の女性への接し方に困ってしまうのだ。 「同じようなものですよ。その鏡を覗き込むのも、八雲を見つめるものも」 「……え?」 またわけのわからないことを言われた。鏡と女性では見つめることに大きな違いが出るだろうに。 「ええと、その……ですね」 大外さんが何かを言おうとしては口を閉じるを繰り返している。 ちらりと、大外さんが修二さんを見た。修二さんが首を縦に振ると、意を決したように大外さんが俺に向かい合った。 「あの、ご挨拶が遅れました。私、雲外鏡と申します」 ……なんと? あまりの言葉に呆気にとられる俺。修二さんが苦笑して補足してくれる。 「本体はその鏡なんですけどね。僕らと意思疎通しやすいように生まれた分身みたいなものらしいです。本人が言うことには」 「……」 頭が付いていかない。どう見たって人間にしか見えないこの愛らしい少女が、物の怪の分身だなんて。 「……証拠をお見せしますね」 そう言って大外さんが鏡を俺と自分の間に置くと、おもむろに鏡面に触れた。 細く小さい手が触った途端、とぷんと、まるで物が水に沈んだような音がして、大外さんの姿が一瞬にして消えた。 「えっ、お、大外さん?!」 慌てて周囲を見渡しても彼女の姿が見えない。 その時、修二さんが鏡を指して、「ここ、ここ」と言った。 つられて鏡を覗き込むと、そこに俺の姿はなく、代わりに大外さんがひらひらと手を振っていたのだった。 「う、うわあああ!?!?」 今度こそ俺の腰が抜けた。 どさりと尻もちをついた俺の前に、またとぷんという音とともに大外さんが姿を現した。 「納得いただけましたか……?」 恐る恐る大外さんが尋ねてくる。 「な、な……」 何とか返事をしようと口を開くけれど、きちんとした言葉にならない。 「まあ、普通の反応でしょうね……」 修二さんが言った。 「いやでも、北辰一刀流免許皆伝の瀧上さんなら、そんなに臆することもないんじゃないですか?」 そういわれて、昼間そんなことを言ったようなことを思い出す。 「あ、あれは、ハッタリというか、その場を収める方便と言いますか……。俺が習ってたのは田舎道場の芋剣法ですから……」 「ええ?! そうなんですか。瀧上さん、役者にもなれますよ!」 「僕本当に信じちゃいましたもん」と、修二さんは楽しそうにしている。 そんなことよりも、俺は大外さんが気になって仕方なかった。 「大外さん……」 俺が話しかけると、大外さんはびくりと肩をすくめた。 「……あの、ごめんなさい。急に化け物が目の前に出てきて、気持ち悪いですよね……」 俯いて鏡をぎゅっと胸に抱く大外さん。その小さな体をさらに縮めるように恐縮する姿に、胸が痛む。 「……いえ、その、驚きはしましたけれど、気持ち悪いとか、そんなことは思っていませんので」 「え?」 ばっと顔を上げて、瞳を目いっぱい開いて俺を見た。 彼女の透き通った青色の瞳に自分が映っている。それがたまらなく心地良く思えた。 「ええと、いきなりその、人間離れしたところを見せられましたけど、よく考えてみたら大道芸みたいなものだと思えば、それほど飲み込めないことでもないように思えてきたんです」 ちょっと変わったところはあるかもしれないが、彼女は人間とそう大差ないように思えるのだ。 特に誰かに危害を加えるでもないし、それほど怖がるべき要素は見当たらない。 「瀧上様……」 大外さんはほっと胸をなでおろしたように、たおやかな笑みを浮かべた。 その笑顔の何とまぶしかったことか。俺の胸がどきどきと高鳴る。 「……ゴホン。いいかな、二人とも」 修二さんの言葉に二人でさっと距離を取った。気恥ずかしさで彼女から目をそらしてしまう。 「それじゃあ、ここからが本題なんだけれど……あの火事の現場が映りこんだのは、瀧上さん、あなたが鏡に映りこんだからです」 「……どういうことですか」 俺は身を乗り出して修二さんに問うた。 「雲外鏡は、映ったものの真実の姿を映し出す鏡です。あの時、八雲があなたを僅かでも引き留めていなかったら、あなたは火に巻かれて、最悪命を落としていました」 ごくり、と俺ののどが鳴った。 「その死の運命は僕と八雲と、余命わずかであった瀧上さんにしか見えません」 「修二さんはなぜ見えるんですか?」 「僕の場合は、まあ、体質ですね。昔からいろいろなものを見てきましたから。それと、鏡の持ち主である、ということも一因だと八雲は言いますね」 にっこりと笑った修二さんだが、人に見えないものが見えるということは苦労も多かったのではないか。 「余命がわずかになると見える、というのは?」 「それは、命が少なくなるにつれて、私たちの側に近づいてくる……わかりやすく言えばあの世に近くなるから、ですね」 今度は大外さんが説明してくれる。 「あの世とこの世の境に近づけば、それだけあちら側も見えやすくなる、ということです」 なるほど、わからない。 うんうんと唸りながらなんとか消化を試みていると、修二さんが苦笑しながら切り出した。 「今日は一日、色々あってお疲れでしょう。今日のところはうちにでも泊っていってください」 宿を取る金も少ない俺には、この上ない申し出だった。 「……何から何まで、本当にありがとうございます。申し訳ありませんが、お世話になります」 俺は深く礼をした。 そして、言っておきたいことがある。 「それと、俺のことは淳之介でいいですよ。瀧上様、というのは、どうにもすわりが悪いので……。もっと気軽に話しかけていただけると幸いです」 「そうかい? じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらおうかな。こっちのほうが喋りやすいし」 年上の人に敬語で話しかけられるのがどうにも落ち着かなかったので、これでこちらも気楽だ。 「でも、あの、女の私が急にお名前をお呼びするのも……失礼ではないでしょうか?」 大外さんが少し困ったような顔をしていた。 「え? 修二さんは名前で呼んでいるじゃありませんか」 「修二さんとはその……ですから……」 もごもごと話しにくそうに視線をそらして大外さんが呟く。 まさか、懇ろな仲だとか?! ばっと修二さんを見ると、彼は両手を振ってぶんぶんと何かを否定するようなしぐさをした。 「あー、いやいや、そんな変な関係じゃないから! ただほら、森嶋は二人いるし、そっちで呼ばれるとややこしいことになるからさ。名前で呼ぶようにってお願いしてあるの。それだけだから!」 ―――なんだ、よかった。 心底ほっとした。 あれ? 何で安心したんだ? 「八雲も、誤解を招くような言い方はよしてくれよ……」 修二さんはがっくりと脱力している。 「もっ、申し訳ございません……!」 ぺこぺこと何度も頭を下げる大外さん。 そんな姿も可愛らしいと思うのだから、不思議なものだ。ついさっき彼女が人ならざるものだと聞いたばかりだというのに。 「すっかり遅くなっちゃいましたけれど、何か食べる? ありあわせのものになるけれど」 「なんでも大丈夫です。好き嫌いないので」 「じゃあ、何か作ってくるから、ここで待ってて」 そう言って、修二さんが席を立った。 「あ、俺も何か……」 「いいよいいよ。お客様なんだから、ゆっくりしてて」 「手伝います」という声は修二さんにさえぎられてしまった。 彼が部屋を出て、トントンと階段を下りていく音がかすかに聞こえる。 部屋には大外さんと俺の二人が残された。 少し、気まずい。こんな時、何と話しかけたらいいものか。 「「あの」」 二人の声が重なる。 「す、すみません淳之介様。お先にどうぞ」 「いや、大外さんの方からお先にどうぞ」 お互いに「どうぞどうぞ」と押し付けあう。 「では……」と口を開いたのは、大外さんだった。 「私も、大外ではなく、八雲、と呼んでいただけないでしょうか?」 「え?」 「ほら、皆さん方がお名前で呼びあわれているのに、一人だけ仲間はずれ、というのも寂しいと言いますか、羨ましいと言いますか……」 顔をうっすらと赤く染めて、大外さんが言う。 「じゃあ、あの……八雲、さん」 改めて呼ぶと、なんだか気恥ずかしい。結婚前の女の子を名前で呼ぶなんて、やっぱり失礼じゃなかろうか、と思う。 八雲さん、八雲さん。 しかし、本人たっての希望なのだ。きちんと呼べるように、心の中で反芻する。 八雲さんは心底嬉しそうだ。花のように顔をほころばせている。 「はい、何でしょう」 うきうきとこちらの返答を待っている。 「八雲さんは普段どこで寝起きしているんですか?」 考えた末、こんな質問しか思いつかなかった。 八雲さんはきょとんとした後、 「鏡の中で休んでいますが……」 と答えた。 「そ、そうなんですか」 便利だなあ、あの鏡。 そして、また沈黙が降りた。 今どきの都会の女性に何と話しかけてよいものやら、とんとわからない。 その時。 「おまたせ。ありあわせのものだけど」 修二さんがお盆に皿を三つ乗せてやってきた。 皿に盛られたご飯に、具だくさんの茶色い汁がなみなみと注がれている。これは―――。 「かれーらいす、ですか?」 「そうそう。今日の売れ残りでまだ鍋に残ってたから」 温めて持ってきてくれたのだろう。ホカホカと湯気が上り、香辛料のつんとした匂いが食欲を誘う。 それを一人一皿ずつ配って、自分も腰を下ろした。 「「「いただきます」」」 三人そろって挨拶すると同時に、匙を手に取った。 「僕ね、考えたんだけど」 早くに食べ終わった修二さんが突然言った。 「淳之介くん、ここに下宿しないかい?」 「……え?」 今日は驚いてばかりだ。俺は匙を動かす手を止めた。 「どうせ兄さんを待つ間、どこかに泊まらないといけないでしょう? だったらうちにいるのが手っ取り早いと思って」 「それはそうかもしれませんけれど……。お邪魔じゃないですか?」 「もちろん。ただ、ここに住んでもらうからには店の手伝いもしてもらうけれどね」 「執筆活動に支障が出ない程度でね」と修二さんは付け加えた。 「手伝いなら任せてください。俺の家、昔から女手が少なかったんで、よく家事を手伝わされましたので」 「そりゃ頼もしい。交渉成立だね」 「よろしく」と修二さんが手を伸ばしてくる。その手を取って固く握手した。 八雲さんがその様子をにこにことほほえましそうに見ていた。
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