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第二章
「ふあ……あ」
俺はあくびをして起き上がった。
外はまだ早朝と言っていい時間のようだ。日差しも弱く、通りに人も少ない。
着替えて布団を片付け、一階へ降りると修二さんが厨房で朝の仕込みをしている最中だった。
「おはようございます」
俺が声をかけると、やっと気が付いたのか、驚いた表情をして修二さんがこちらを向いた。
「おはよう。早いね、まだ開店前だよ」
「お手伝いできることがあったらと思って。何かすること、あります?」
「うーん、そうだなあ」
修二さんはしばし考えた後、申し訳なさそうにこちらを見た。
「じゃあ、店内の掃除を手伝ってくれないかい? 八雲がやり方を知っているから、彼女と一緒に」
「お安い御用ですよ」
軽く返事をすると、俺はたすきで袖をまとめて店内に足を踏み入れた。
「おはようございます」
テーブルを拭いていた八雲さんに声をかけると、やはり驚いた顔をされてしまった。
「お、おはようございます。お早いんですね」
「ええ。早くに目が覚めたものだから、お手伝いできないかと。掃除、手伝いますよ」
八雲さんはひどく戸惑ったようだ。男が女給と同じ仕事をするなんて、考えられないのだろう。
迷った末に、布巾を渡してきた。
「でしたら、テーブルを拭いていただけますか? 私、その間に掃き掃除を済ませますので」
「わかりました」
俺は布巾を受け取ろうと、手を伸ばす。
同じく、布巾を渡そうと手を伸ばす八雲さん。
目測を誤って、お互いの手が触れてしまった。俺はその瞬間、時が止まったような心地になった。
「あっ……」
先に手を引っ込めたのは八雲さんだった。
「す、すみません! よろしくお願いいたします! 私、箒を取って来ますので、失礼します!」
それだけ言って、八雲さんは裏へ行ってしまった。
俺はというと、受け取った姿勢のまま、数秒動けなかった。
真っ赤になった彼女の顔が脳裏に焼き付いて、手を動かすのをもったいなく思ってしまったのだ。
そののち、はっと我に返り、慌てて掃除を開始した。
自分の顔も、八雲さんに負けず劣らず真っ赤であることを自覚しながら。
「スイレン」は盛況のようだ。
朝から席がいっぱいに埋まってしまっている。
「おーい、お嬢ちゃん。コーヒーおかわりね」
「私にも紅茶とサンドウィッチを頂戴な」
「はい、ただいま!」
ひっきりなしに飛び交う注文を、八雲さんは慣れた様子でさばいていく。
その様子を尻目に、俺はどんどん持ち込まれる洗い物と格闘していた。
「いやあ悪いね、助かるよ。この時間帯は食器をどんどん使うから」
申し訳なさそうに眉尻を下げて、修二さんが話しかけてきた。
「俺なんかでよければ、このくらいの手伝いはどうってことないですよ」
俺もまだまだいけますよ、というつもりで言った。
「頼もしいね。こういう仕事を任せるのは、正直どうかと思っていたのだけれど」
意外にそつなくこなしている俺がよっぽど不思議なのだろう。俺は苦笑して言った。
「うちは男兄弟ばかりで、小さいころから正月とか店の繁忙期は母と二人で家事をまわしていたものですから」
「へえ、ご実家も商いをされているんだね。ちなみに何屋さん?」
「酒屋ですよ。大きさはそこそこですけれど」
「酒屋さんか。ご家族は?」
「祖父母と、父母と、兄が二人。俺は末弟です」
「いいねえ。うちは父母が早逝したものだから、一家団欒は憧れるものがあるね」
俺は思わず手を止めていた。修二さんの方に振り向くと、彼は少し寂しげな表情で、珈琲豆にお湯を注いでいた。
「……それで、お店の切り盛りを?」
「そう。父母が喫茶店を開店するのが夢だったらしいから」
「兄から聞いた話なんだけどね」と、修二さんは付け加えた。
「まあ、兄は突然『自分は文字で稼ぐ』とか言い出して、出て行ってしまったんだけど」
苦笑しながら「しょうがない人だよね」と言う修二さん。
「しょうがなくなんかないと思います」
俺はこの時、ひどく反発心を覚えていた。気が付けばそう言い放っていた。
「小説で身を立てるのも、ご両親の夢を受け継いでいるのも、立派なことだと思います。誰がそれに後ろ指さすことができるでしょうか」
その言葉に、修二さんがぽかんとする。ややあって、くすぐったそうに笑った。
「君は、いい子だね。そう言われない?」
その笑顔が、あの時の森嶋さんと重なるような気がした。
「言われませんよ。突然文士になるなんて言い出して、勘当同然で家から出てきた俺が、いい子なわけないでしょう」
むしろ、親不孝者、と指さされるのは俺の方だ。
しかも肝心の師も今は会うことすらかなわない。
修二さんは言葉に詰まってしまったらしい。あー、だの、うー、だの言いながら言葉を探している。
「……僕も、君の決心が間違っていたとは思わないよ」
ようやく言いたいことが見つかったのか、修二さんが口を開いた。
「……ありがとうございます」
その言葉に見合うよう、文士として腕を磨かねば。
そのためには道具が要るし、金も要る。
俺は持ち込まれる食器を洗うことに集中した。
「ふう、やっと落ち着いたね。お疲れ様」
やっと最後の皿を拭き終えたとき、ぽんと修二さんに肩を叩かれた。
店内を見渡すと、もう客は数人にまで減っていた。
「とりあえず、今日の修羅場は乗り切れたかな。あとは僕と八雲でやっておくよ」
俺は悟った。あとは小説を書く時間に当てろと、修二さんは言外に言っているのだ。
「……でも俺、ほとんど身一つで出てきてしまったから、書くにも道具すらない状態で……」
もごもごと詰まる俺に、修二さんがぽんと手を合わせた。
「それなら、兄が残していった原稿用紙と洋墨を使っていいよ。あるだけしかないし、だいぶ使ってないから、質は落ちてるかもしれないけれど、書くのに支障はない……と思うから」
「ええ?!」
憧れの人が使っていた道具を使っていいと。そんな夢のようなことがあっていいのだろうか?
「使わないと悪くなってゴミになっちゃうだけだから。必要ならあの人は自分で買うだろうし、遠慮せず使ってよ」
「ね?」とにっこりと後押しされてしまった。そこまで言われてしまったら、下手に遠慮するほうが失礼だ。
「……すみません、何から何まで」
「いいんだよ。君は森嶋一仁の弟子なんだから、師匠に頼らなきゃ」
修二さんは笑いながら、バシバシと背中を叩いてくる。
「すみません。じゃあ、お言葉に甘えて……」
と言い置いて、二階に上がろうとした時だった。
カランカランとドアベルが鳴って、来客を知らせる。
入ってきたのは、洋装の女性だった。
淑やかな雰囲気で、優雅にコツコツとヒールを鳴らしながら、歩いてくる。
「まあ、たま子様、いらっしゃいませ!」
八雲さんが、見たこともないような満面の笑みで女性を迎える。
「ご無沙汰しておりますわ、八雲さん。修二さんも」
「どうも、お久しぶりです。たま子さん」
二人の知り合いのようだ。
「あら、新しい人が入ったのですね……。お名前は?」
「えっ」
急にたま子という女性の視線が俺を射抜いた。
一瞬詰まったが、「……瀧上淳之介です」とだけ、何とか絞り出した。
たま子さんはじっと俺を興味深そうに見ていたが、ふいににっこりと笑った。
「そう。私、七崎たま子と申します。どうぞよろしく」
そう言ってたま子さんは優雅にお辞儀した。
「どっ、どうも……」
俺もつられて頭を下げた。
「たま子様、どうぞこちらに」
八雲さんが、たま子さんを案内する。
ゆっくりとたま子さんが椅子に腰かけた。
「いつもの、お願いしますわ」
「かしこまりました」
修二さんは一礼すると、俺を連れて厨房へ向かう。
「そこのアイスクリーム二人分、お盆に乗せて持って行ってくれるかな?」
紅茶の用意をしながら、修二さんが言った。
「二人分……ですか?」
「うん。たま子さんと、八雲の分と」
「……?」
なぜ八雲さんの分まで用意するのか疑問に思いながらも、皿に作り置きのアイスクリームを盛りつける。
「たま子さん、いつも八雲と話すのを楽しみにしていらっしゃるから」
修二さんは「八雲にも話に付き合うように言ってくれるかな」と言いながら、お盆に紅茶の入ったカップを二つ並べた。
「わかりました」
あれは同じお盆にアイスの皿を乗せると、席へ向かう。
「お待たせしました」
俺は二人分の紅茶とアイスクリームをテーブルに並べる。
「あら……?」
二人が不思議そうな顔で俺を見た。
「店主からの言いつけです。あ喋りは座ってするように、と」
俺は恭しく言った。
「あら、まあ、修二さんも粋なことをなさるわね」
「え、えっと」
「いいから」
俺はちょっと強引に八雲さんを座らせる。
「どうぞ、ごゆっくり」
八雲さんがやっていたように、見よう見まねで軽く会釈して、厨房に戻った。
布巾を片手に店内に戻ると、客が立ち去った後の空席の片づけを始める。
食器を運びやすいようにまとめて、テーブルを拭く。
食器を抱えて水道場に戻ると、修二さんがいた。
「どうも、悪いね。もうしばらく君を二階に帰せなくなってしまった」
「いえ、構いませんよ。俺もまだ話を考えているところなので」
「そう言ってもらえると、助かるよ。申し訳ないけれども」
修二さんが心底申し訳なさそうに言うものだから、ちょっと可哀想になった。
「修業の身でもありますけど、居候の身でもありますから。いろいろ良くしていただいていますし、これくらいの仕事はさせてください」
お世話になっている分に足る働きができているかは、定かじゃないけれど。
「……本当にあの人はいい弟子を持ったよ」
「弟子らしいことなんてまだ一つもやってないですけどね」
冗談めかしてそう言う俺を、修二さんは嬉しそうに見ていた。
だいぶ日が傾いてきた。
再び俺は客席の片づけに戻る。残る客はたま子さんだけだ。
「ふう……」
一息つきながら食器をまとめる。
「え?!ご結婚なさるのですか?!」
ふと、二人の会話が漏れ聞こえた。
「ええ。それで、東北の方に引っ越さなければならないから、最後にと思って」
二人は結婚相手の話で盛り上がっている。
結婚話にはしゃぐ八雲さんの姿は、やはり彼女が一介の女性だと思わせる。正体が人ならざるものだと知っていても。
あまりじろじろと観察するものじゃないな、と思い直し、視線を逸らす。
その時、ふと鏡が目に入った。丁度角度的に二人が映っている―――そのはずだ。
―――俺に見えたのは、八雲さんの後ろ姿と、向かい合って座る大きな狐の姿だった。
「……!」
声にならない悲鳴を上げて、足がテーブルにあたった。ガシャンと積まれた食器が大きな音を立てた。幸い、壊れたものはないようだ。
「大丈夫かい?!」
修二さんが近づいてくる。
「あ……」
俺は何も言えないまま、パクパクと口を開閉することしかできない。
「まあ、まあ」
驚いたようにたま子さんが近づいてきた。
「……女の秘密なんて、そう軽々に詮索するものではなくってよ」
「た、他意はないんです! ただ、偶然目に入ってしまっただけなんです……!」
俺は許しを請うように、必死で言い訳をした。
はあ、と大きなため息をこぼし、たま子さんは周りを見渡した後、俺を見据えた。
「御覧の通り、私、化け狐よ。人間が草花に思えるほど長い年月を生きた、ね」
それから一呼吸おいて、どこか遠くを見るように顔を上げた。
「私と八雲さんは、元は同じ家にしばらく一緒にいたのだけれど、家が逼迫して八雲さんは人間に高値で売られてしまったの。行方知れずになっていたのだけど、人間の店で働くこちら側の少女がいるって話を聞いて確かめに来たら、偶然再会できたのよ。それからしばらく、時間が許す限り会いに来たわ。けれど、私の結婚が決まって、その準備にてんやわんやしていたら、結局引っ越し間際にしか来られなかったの」
語り終えた後、たま子さんは少し寂しげな表情になった。
「……化け物の話は、つまらなかったかしら」
「い、いいえ!」
俺は叫んでいた。
「とても興味深いお話でした。七崎さんと八雲さんのご友人としての関係を深く知れたのは、とてもうれしいです。本当に、ちょっと驚いただけなんです。失礼しました!」
言い切った後、ガバッと頭を下げた。しかしいつまでたっても何も言われないので、そろそろと頭を持ち上げた。
視線の先には何とも言い難そうなたま子さんの顔があった。
「……あなた、変わっているのね。普通は逃げ出したり気絶したりしそうなものなのに」
「淳之介君は、柔軟な子なんですよ。昨日会ってすぐに八雲を受け入れましたから」
修二さんがぽんぽんと俺の肩を叩きながら説明してくれた。
「……あらあら、それは驚きだわ。昨日今日のことでもうこちら側を受け入れているなんて」
たま子さんが心底驚いたような顔をした。
「安心してください。彼はこう見えて誠実な子ですから、不誠実な真似はしませんよ」
「はい、誓って失礼な真似は致しません!」
「……ふふ」
しばらくぽかんとしていたたま子さんが、笑った。
「そこまで太鼓判押されては、仕方ないわね。今回のことは水に流してあげる」
たま子さんは俺に向かって会釈した後、はらはらと俺たちを見つめていた八雲さんに振り返った。
「これからは頻繁には会えないけど、またこっちに来た時には立ち寄らせていただくわ」
八雲さんは、キュッと胸に何かを押し込めるような仕草をした後、
「はい、どうか、お元気で」
絞り出すようにそう言った。
「今日はどうもありがとう。お会計させてちょうだい。……もちろん木の葉じゃないわよ?」
たま子さんは冗談めかして片目をつぶると、会計場に歩いていく。
会計を終え、ドアに手をかけた時、ひらひらと手を振った。
彼女の中の名残惜しさがそうさせたのだろう。
手を振り返す八雲さんの目にも涙がたまっている。
俺が一礼すると、今度こそ彼女は店を出て行った。
「……八雲さん」
俺は顔を上げて、八雲さんに振り返った。
「はい、何でしょう」
声こそ普通だが、涙は決壊寸前だ。
「大丈夫。必ずまた会えますよ」
俺は言い切ってあげた。例え体は遠く離れてしまっても、心はつながっているのだから、会えない道理はない。
「……はい。またお元気で、ここにいらっしゃっていただけますよね」
口ではそう言うものの、涙はとうとう零れ落ちた。
大粒の水滴が彼女の丸い輪郭をたどって流れるさまは、言葉にできないほど切なく、しかし美しかった。
肩を抱いてやるとか、頭をなでてやるとか、そんな気障なことはできないけれど、俺は彼女が泣き止むまで一緒にいた。
「そういえば」
八雲さんが落ち着いた頃合いを見て、修二さんが話しかけてきた。
「前回は不可抗力だったけど、今回は何でたま子さんの正体が見れたんだろうね?」
「確かに」
昨日は死ぬ寸前だったから見えたという話だった。……まさか今日も死にかけていたんじゃなかろうか。
「おそらくですが、一度死に近づいたことで私たち側に一歩寄ってしまっているのかもしれません」
「……どういうことですか?」
「ええと、説明が難しいのですが……」
「要するに、普通の人よりあの世に近い存在になってしまった、ということかな?」
「だと、思います。修二さんが生まれつきそうであったように、淳之介様も後天的にそうなってしまわれたのかと」
「ええ?!」
何だかよくわからないが、それはとてもよくないことに思われた。
「まあ、死にそうなわけじゃなくてよかったじゃないか。こちら側へようこそ」
なんとなく釈然としないものを感じながらも、俺はため息をつくしかなかった。
数日後。
「あれ?」
日は照っていてとても明るいのに、雲もまばらな空からぽつりぽつりと雨が落ちてきた。
八雲さんも外のお天気雨に気が付いたらしい。不思議そうな顔をしている。
「……晴れた日の雨は『狐の嫁入り』って言うんですよ。きっと、七崎さんからの幸せのおすそ分けですね」
「……あら、まあ」
二人で窓から空を見上げる。
きっと幸せな結婚でありますように。
八雲さんはそう思っているに違いなかった。
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