10人が本棚に入れています
本棚に追加
第三章
長雨の続く六月の半ば。
その日は久しぶりに日が顔を出した絶好の洗濯日和。
そんな日に偶然店の定休日が重なった。
こんな好都合なことがあっていいものか、少しばかりは悩んだ。が、どうあれそのような日ができてしまったのだ。これは計画を実行に移すほかあるまい。
俺は書きかけの原稿用紙を風で飛ばないよう重石を乗せて、一階に降りた。
今日は営業しないというのに、朝から八雲さんが店を掃除している。彼女曰く、「他にすることがないから」だそうだ。
「八雲さん、ちょっといいですか」
「はい」
箒を持ったまま、不思議そうな顔でとことこと俺の前まで歩いてくる。
「どうかなさいましたか?」
「あー、実は、執筆が行き詰ってしまいまして……」
前々から考えていた言い訳を披露する。
「あらまあ……私も何かお手伝いできることがあれば良いのですが」
そう言ってくれると踏んでいた。優しい八雲さんのことだから。
「今日って、八雲さんがどうしてもやらなきゃいけないことってありますか?」
「え?」
彼女はきょとんと俺を見た。
「どうしても、今日、やっておかないといけないことって、ありますか?」
俺は、今度は語気を強めてもう一度問うた。
「……いえ、特には……。何かご用事ですか?」
「それならよかった。もし、俺の執筆活動にご協力いただけるなら―――」
俺は大きく息を吸って、吐いた。ええい、ままよ!
「俺と一緒に出掛けていただけませんか?」
一息にそう言った。
「……え?!」
今度は動揺したのか、びくりと肩をはねさせて、驚いたように目を見開いてこちらを見つめた。
「ああ、ごめん。説明してなかったっけ」
二階から修二さんが降りてきたので、そちらを見る。
「八雲はね、その鏡から一定の距離にしか動けないんだよ。だから遠出は無理なんだ」
「……そうだったんですか」
八雲さんは俯いているので、表情はわかりかねるが、おそらく申し訳なさそうにしているのだろう。
ふむ、と考える。鏡と言っても大きさはそれほどない。それならば。
「なら、鏡ごと外へ行くって言うのはどうですか? もちろん、割れないように布で包んでおきますよ」
「「ええ?!」」
二人同時に、驚愕の表情になる。
「だって、近くに鏡があれば、どこにでも行けるんですよね? それなら問題ないじゃないですか」
「確かにそれなら可能かもしれないけれど……。そんなに八雲を連れていきたい用事って何なんだい?」
「それは秘密です。でも遠出と言ってもそんなにかかりませんよ。近場をまわるだけですから」
「近場、ですか」
ますますわからない、という顔の二人に、さっさと話しを進めてしまうことにした。
「とにかく、行って損はありませんから! 支度、待ってますね」
それだけ言って、荷物を取りに俺は階段を駆け上がった。
そうして今、俺と八雲さんは街を歩いているのである。
八雲さんはいつもの服から前掛けを外した姿になっただけだった。思った通り、あまり服を持っていないようだった。
あまり建物から出ないせいで、外の景色が珍しいのか、しきりにきょろきょろとあたりを見回している。
「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ」
「いえあの、警戒しているわけではないのですが……」
「でもそんなに周りを見ていたら、転んでしまいますよ。もっと気楽に行きましょう」
「は、はい……」
それでも緊張するのか、八雲さんは幾分固い表情で俺についてくる。
「きっと気に入ってくれる店だと思うのですが……」
「私の気にいるお店、ですか……」
一体どんなところなのか、好奇心には勝てない様子である。
「もうちょっとで着きますよ」
そう言ったきり、二人とも黙ってしまった。
けれど、気まずいわけじゃない。お互いに期待に胸を膨らます、そんな時間だったのだ。
「着きましたよ」
大通りに面したその店は、西洋式のガラス張りのショーケースに見本の服を並べている。
「ここって……」
「そう。洋服屋ですよ」
そう言って、俺はためらわず中に入っていく。
「ま、待ってください……!」
戸惑いながらも、八雲さんが後に続く。
リンリンと高い音のベルが鳴った。
店員が奥からやってきた。
「いらっしゃいませ」
「この子に表の見本の生地で『アッパッパ』を一着仕立てていただきたいのですが」
「え……えええ?!」
八雲さんがついてこれないという顔で俺をすがるように見つめてくる。
「ああ、『アッパッパ』というのは洋服の一種で、ワンピースという服に似ていて、夏に着やすい服なんだそうです。もうすぐ暑くなりますし、これを機に一着着てほしいな、と思いまして」
「で、でも、洋服なんてお高いんじゃ……」
「和服よりは安いですよ。それに、この日のために貯金してきましたし」
「え……?」
「店先であの服を見た時に、絶対に八雲さんに似合うと思ったんです。―――正直、一目ぼれだったのかもしれません。どうしてもあなたに着てほしくて」
「それって、どういう……」
八雲さんがそこまで言った時だった。
「ご歓談中申し訳ございません。準備ができましたので、採寸の方を始めさせていただきますね」
店員がメジャーを持って立っていた。
「ああ、お願いします」
そう言って、俺は強引に八雲さんを店員の方へ押しやった。
「え、あの、その」
戸惑いながらもされるがままに採寸を受ける八雲さん。戸惑う姿も愛らしいとは、これいかに。
やがてすべての採寸を終えて、八雲さんがこちらに戻ってきた。
「はい、お疲れさまでした」
にっこりと店員が挨拶すると、よほど恥ずかしかったのかササッと俺の後ろに隠れてしまった。
「仕上がりは一週間ほどが目安になりますので、そのころにまたお立ち寄りください」
「ありがとうございます」
代金を支払おうとしたところで、八雲さんが窓の方を見ていることに気が付いた。
「何を見ているんですか?」
「ひゃい?!」
びくりと肩をはねさせて、八雲さんが振り返った。
「いえ、あの、あれを私が着るなんて、想像もつかないな、と」
しどろもどろに言う八雲さん。
「よく似合うと思いますよ」
俺は言った。
「実のところ、あのショーケースであの服を初めて見た時から、八雲さんにどうしても着てほしくなってしまって。まさしく一目惚れってやつでした」
「ひ、一目惚れって……」
「常日頃から、もったいないと思っていたんですよ。せっかく外国の人のようなきれいな青い瞳を持っていて、帝都なんておしゃれな所に住んでいるのに、洋服の一着も持っていないなんて。絶対に似合うとふんでいたんです」
八雲さんはぼんやりと聞いていたようだが、ふいに我に返ったのか、真っ赤になってうつむいてしまった。
「あの、よろしければ」
店員が話しかけてきた。
「そこに飾ってあるものでよろしければ、ご試着なさってはいかがでしょうか?」
あれやこれやという間に八雲さんは店員に連れられて、店の奥に姿を消してしまった。
俺は手持ち無沙汰に、表の通りを眺めていた。
馬車が誰かを乗せて颯爽と走っていく。スーツを着た男が、急ぎ足て店の前を通り過ぎていく。
ショーケース越しの外は今日もにぎやかだ。さすがは帝都・東京である。
もういつもの風景と化してしまったそんな様子を眺めながら、俺は今書いている原稿のことを考えていた。
あらすじは大体できた。あとは細部を形にしていく段階なのだが、これがなかなかうまくいかない。
書いても書いても気に入らず、原稿用紙を丸めている。一日がそれだけで過ぎていくこともあった。
洋墨の残りも少ない。今度買い足しに行かなくては。
そんなことをつらつらと考えている時だった。
「あの、淳之介様……」
控えめに俺を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、八雲……さ、ん」
返事をしようとして、息をのんだ。
―――可憐だ。まさにその一言に尽きる。
大胆に服全体にあしらわれた花柄も流行に全く遅れていない。
普段は和服で見られない腕や足が覗くのも麗しい。
夏の軽装らしい服の軽さと、本人の愛らしい顔が絶妙に合っている。
合わせてかぶせてもらったのだろう、クローシェ帽もシンプルなデザインで服の良さを邪
魔しない。
靴は噂に聞いた「パンプス」という奴だろうか。足の形が美しく見える。
「い、いかがでしょう……?」
不安そうにそわそわと落ち着かない様子の八雲さんに、俺はしばし言葉が出なかった。
「……やっぱり、こういう服は、似合いませんよね。申し訳ございません。着替えてきますね」
くるりと踵を返しかけた八雲さんの手を、とっさに捕まえる。
「……え?」
驚いた表情の八雲さんと目が合う。
「あの、その、うまく言えないのですが、綺麗です! とてもよく似合っています!」
ぶわりと八雲さんの顔が真っ赤に染まる。
「あ、その……」
八雲さんが何か言おうとして、口を開いては閉じるを繰り返している。
ここは物書きらしく、美辞麗句を尽くして褒め称えるべきなのだろう。しかし俺の頭には何の言葉も浮かんでこない。
いや、浮かんでは来るのだが、可愛いだの似合っているだの、陳腐な言葉しか浮かんでこないのだ。そんな言葉ばかりでは、口にするのもはばかられる。
「ええ、とてもお似合いだと思います。丈もぴったりで」
そう。不思議なことに、誰を想定して作られたわけでもないこの服は、彼女にぴったりと合っているのだ。
「よろしければ、こちらを買わせていただけませんか?帽子と靴も含めて」
とっさに口をついて出た。この姿をしばらくお預けにされてしまうなんて、我慢ができなかったのだ。
「ありがとうございます。見本用のものでしたので、少しお値引きさせていただいて……このお値段でいかがでしょう?」
提示された値段は予算より少し足が出てしまうが、八雲さんのため、引いては俺のためには仕方がない。
財布からお金を出して支払いを済ませる。
「あの、私、着替えたいのですが……」
おそらく、周りの目を気にして言っているのだろう。
「いいじゃないですか、そのまま歩きましょうよ」
俺はそう提案した。
「で、でも……」
「慣れも大事ですよ。それにモダンな女性と外を歩くの、夢だったんです」
追い打ちに「創作の役に立つかもしれないなあ」と呟く。
そこまで言われては断る理由もなくなってしまったのか、
「……淳之介様がそうまでおっしゃるなら」
と、渋々了承してくれたのだった。
それだけで俺は飛び回りたい気分になった。
「じゃあ、行きましょうか」
しかし、努めて平静に言いつつ、店を出る。
店から出た途端、好奇の視線が方々から飛んでくる。
銀座などの街よりも洋装の女性が少ないせいか、彼女はまるでトップスターのように衆目を集めていた。
俺は誇らしい気持ちになった。こんなにも美しい女性と歩いているんだぞ、と叫んでまわりたい心地だった。
そんな俺の袖が遠慮がちに引っ張られた。言うまでもなく八雲さんである。
「ん? どうしました?」
「あの、えっと」
少し言いにくそうにしながら、八雲さんは口を開く。
「他にご用事はありませんか? なければ家に帰りたいのですが……」
「あっ、すみません。何かご用事でも思い出されたんですか?」
「ええ、そんなところです……」
肩を縮こまらせながら、八雲さんが言った。
「じゃあ、急いで帰りましょう。俺はもう用事もないので」
そう言って、俺たちは足早に帰宅の途についたのだった。
「ただいま戻りました」
入り口から声をかけると、厨房にいたらしい修二さんがこちらにやってきた。
「おかえり。……おや、ずいぶんおめかししているじゃないか」
感慨深そうに修二さんが言う。
「た、ただいま……」
今にも消え入りそうな声で八雲さんが答えた。
「うん? どうしたんだい八雲」
「いえ、ちょっと疲れてしまいまして……。ごめんなさい、また後で」
八雲さんはそう言うと、荷物から鏡を取り出してカウンターの上に置くと、とぷんと消えてしまった。
俺と修二さんはそろって顔を見合わせる。
「八雲が疲れたって言いだすなんて、相当だね。いったい何しに行ってきたんだい?」
「えっ、服を買いに行っただけなのですが」
「それだけで普通疲れたなんて言わないと思うけど……普段出かけないから緊張で疲れちゃったかな」
「……俺が、無茶なお願いしたから」
「うん?」
修二さんが不思議そうな顔をした。
「俺が、洋服のまま街を歩こうなんて言い出したから、皆にじろじろ見られて、余計に気疲れさせてしまったのかもしれません」
俺が思い当たる疲れの原因はそれくらいだ。
「そうか……」
修二さんは眼鏡の位置を直すと、近くの席に腰かけた。
「まあ、何にせよあの子を休ませてやらないとね。そんなに時間はかからないと思うよ」
「……はい」
俺は鏡に向かって口を開いた。
「すみませんでした。俺のことばっかり優先して、八雲さんを気遣ってあげられなくて」
届いているかどうかはわからない。鏡には当たり前のように俺の情けない顔が映るばかりだ。
「淳之介君も、ちょっと休んだほうがいいよ。あんまり思いつめないで」
「はい、ありがとうございます」
鏡の中の八雲さんが気になって後ろ髪を引かれる思いだったが、素直にその場を後にすることにした。
その日の晩。
俺が原稿用紙とにらめっこしていると、ふと「淳之介様」という声が聞こえた。
俺をそんな風に呼ぶ人なんて一人しかいない。「どうぞ」と答えた。
「失礼します」
湯飲みを並べたお盆を持って入ってきたのは、やはり八雲さんだった。
いつもの着物と前掛けに身を包んでいる。
俺と自分の前に湯飲みを置くと、ちょこんと座りこんだ。
「あの、きちんとお話を、と思いまして……」
お盆を抱えて、何かを言いかけては、口を閉じるを繰り返している。
「昼間は、すみませんでした」
なので、俺の方から口を開く。
「俺の都合ばっかり押し付けて、八雲さんの心労を推し量れなかった。男としてお恥ずかしい限りです」
深く頭を下げた。
「そんな……顔を上げてください! 私の方こそ謝罪するべきなんです」
「え?」
俺は顔を上げた。
「……淳之介様のお気遣い、本当にうれしかったんです。普段外出しない私に外の世界を見せていただいて、贈り物までいただいてしまって。あのお洋服は宝物です。着てしまうのがもったいないほど。……なのに私ときたら、ろくにお礼も言わず、疲れたなどと言い訳をして鏡に引きこもるなんて……お恥ずかしい」
「いやでも、疲れたのは本当でしょう? 着なれない服を着せられて、好奇の視線を浴びて。体はともかく、心が疲れないわけがない」
「それは……。いえ、でも私は淳之介様に感謝しているんです! それだけはわかっていただかないと」
「……わかりました。八雲さんは俺に嫌悪を抱いているわけではない、ということですね?」
「嫌悪なんて、そんな……! 誓ってありません」
八雲さんは頭と手をぶんぶんと振って否定する。
「よかった……」
安堵で力が抜ける。
「本当に、申し訳ございませんでした……。以後、このようなことがないように精進いたします」
青菜に塩とはまさにこのことである。しゅんとしてしまった八雲さんに、俺は声をかけた。
「……またあの服、着ていただけますか? 本当によくお似合いでした。あなたの負担にならない時にまた見てみたいです」
「それは……」
顔を真っ赤にしてもじもじとためらった後、はい、と小さな声で確かに言った。
「じゃあ、約束しましょう」
小指を一本立てて差し出す。
八雲さんも恥ずかしがりながらそろそろと指を差し出してきた。
細い指と自分のそれとが絡み合った時の高揚感と言ったら!
結びあった手を上下に軽く振って、歌は省略した。
「うん。満足しました」
「……それは、良かったです」
俺は指を離すのがもったいなくて、絡めたまま動けなかった。
それは、八雲さんも同じだったのだろうか。彼女も絡めた指を離そうとはしなかった。
次第に気恥ずかしくなってくる。しかし、ほどけない。
と、その時。
「おーい、八雲。いるかい?」
廊下から修二さんが呼ぶ声で、二人同時に飛びのいた。
「はーい、ここに!」
慌てた調子で八雲さんが返事をする。
「よかった、実は相談があって……来てくれるかい?」
「はい、ただいま!」
先ほどまでのこともあってか、少し声が上ずっている。
彼女は手早く湯飲みをお盆に乗せると、失礼しました、とそそくさと出て行ってしまった。
俺はというと、呆然としたまま固まっていた。
心臓がバクバクと鳴っている。いけないことをしてしまった後のようだ。
と同時に、高鳴る鼓動に不思議な快感を覚えてもいた。
―――あのまま手を結んでいたらどうなっていただろうか。
考えるだけで、頭が爆発してしまいそうだった。
心を落ち着けようと、再度原稿用紙に向かってみたが、全く手が動かないばかりか、ただただ震えている。
もう今日は寝てしまおう。そう心に決めて布団を敷いたのだった。
最初のコメントを投稿しよう!