第一章

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第一章

のどかな春の陽気が強まる未の刻。 「ええ?!大塚さんが?!」 お末の色めき立った声が響いた。 「そうなんよ、アタシも又聞きなんやけどさあ」 お長が耳をそばだてて聞いてみると、どうやらいつもの友人どうしの噂話会らしい。 大塚といえば、桑名宿にある本陣の中で、最も格式が高いと評判の宿である。 「跡継ぎさんもとうとう結納かあ……」 「気が早いで、お末ちゃん。まだお見合いするってだけやで」 でもでもー、とお末たちはきゃっきゃと楽しそうに想像を膨らませている。 (大塚本陣の跡継ぎ息子のお見合いかあ) それが結婚につながれば、きっとそれはそれは豪華絢爛な式が催されるのだろう。女として少し憧れないでもない。 お内儀さんはどんな人だろうか。きっと美人で本陣の女将として申し分ない人なのだろう。何と言ってもあの大塚本陣の取り仕切りをする二人になるのだ。盛大に祝わねばなるまい。 (楽しみやなあ) お長はほうきをサッサと動かす手を速めた。 その日の夕方。 そろそろ店じまいの準備を、と言われ、暖簾に手をかけたところで、見知った顔に出会った。 「あれ?長五郎さん?」 昼間噂になっていた件の大塚本陣の跡継ぎ息子である。 「……あ、お長さん」 一拍おいて、彼もこちらに気づいたらしい。 「久しぶりやねえ。元気にしてた?」 いつもの調子でお長が長五郎に話しかける。 「ええ、元気にしておりますよ、このとおり」 そう言って苦笑する彼は、どこか元気がない。 「……ちょっとうちに寄って行かれません? 顔色、悪いで」 「……じゃあ、少しだけ」 長五郎はお邪魔します、と折り目正しく暖簾をくぐった。 「何かあったんですか?」 お茶を出しながら、お長が問うた。 「ああ……大したことではないんですよ」 そう言いながらも、普段の彼からはとても考えられないほど意気消沈している様子が見て取れる。 「話くらい、聞きますよ」 そのくらいしかできんけど、と笑うお長につられたのか、長五郎に少し笑みが戻った。 「今度、お見合いをすることになりましてね」 長五郎が頭を掻きながら、照れくさそうに言った。 「まあ、それはおめでたい」 お長はさも今聞いたばかりのように答えた。 「いや実はそうでもないんですよ」 と、長五郎はやはり暗い顔に戻ってしまった。 「この縁談、お断りしようと思っていまして」 「ええ?!」 まだ会ってもいないのに、長五郎はこの話を破談にしようと言うのだ。 「それはまた、どうしたん」 「これは、小さいころからよくしてくれたお長さんにだけの話なんですけれど」 そう言い置いて、一拍の後続けた。 「僕には、まだ結婚は早すぎると考えているんです。今は仕事を覚えるので精いっぱい。だけど父母は早く孫の顔が見たい、とそればかり。僕の事情なんてちっとも考えてくれやしない」 そこまで一気に喋ると、茶を口に運んだ。 「……小さいころに兄を、父母にとっては大事な長男を亡くした親の気持ちもわかるんです。だから末っ子の僕が跡継ぎをやることになったんですからね。だけど、僕にはまだその決心がつかない。そんなままで迎え入れた人を幸せにできるとは、到底思えない」 だから、と吐く息に乗せたまま、黙ってしまった。 「……」 お長は何も言えなかった。気休めの言葉一つ出てこない。それほどまでに長五郎の独白は悲痛であった。 「長々と愚痴に付き合わせてしまって申し訳ない。小さいころから見知った仲だと、甘えてしまうのかな」 長五郎は苦笑しながら、懐から金を出すと少し多めにお長に握らせた。 「ちょっと、こんなにもいただけませんよ」 慌ててお長が釣銭を返そうとすると、長五郎は首を振ってその手を押しやった。 そうしてにっこりと笑ったまま、長五郎は店を後にした。 お長は気まずそうに手の中の小銭を見つめていた。 「お末ちゃーん、来たよー」 翌日の昼過ぎ。どこか間の抜けたお末を呼ぶ声がみつる屋の店内に響き渡った。 「あらー、大塚の女将さん、どうもー」 やってきたのは大塚本陣の女将らしかった。お末の話友達でもある。 いつものように座敷の一角に母と腰を下ろすと、何やら話を始めた。 ちょうど手が空いていたこともあり、お長もその席にそっと近づいた。 (おせっかいやろうか) しかし、幼馴染が困っているのだ。親切心とちょっとの好奇心を抑えられずに、お長は二人に近寄った。 「あの、大塚の女将さん」 お長が話しかけると、女将はあらまあ、と顔をほころばせる。 「お長ちゃんやないの。なんや、ちょっと見いへんうちにええ娘さんになって」 にこやかに女将がお長を褒める。 「どうもありがとうございます。あの、長五郎さんのことなんですけど」 お長が切り出すと、女将はああ、と言った。 「うちの息子のこと、気にかけてくれとるんやね。小さいころからの仲やもんねえ」 「ええ、まあ」 そこは曖昧にして、女将に確認したいことを尋ねる。 「あの、長五郎さんは元気でやってらっしゃいます?仕事のこととかで悩んでたりとかしてません?」 「まあ、あの子が?そんなことはないと思うけど……。仕事も真面目にやっとるし、田舎くさいのはいかんちゅうて言葉も丁寧に直したし」 「じゃあ別に仕事に心配を持っとるわけやないんやね」 「どうしたん急に。なんかあの子が言うとった?」 いぶかしげな女将に、お長は慌てて手を振る。 「ううん。そんなんやないよ。ただ、昨日元気なさそうにしとったから、仕事でなんかあったんかと思うて」 声は平静を保てていただろうか。ふうん、と女将は一応納得したようだが。 「まあ、あの子も思うところの一つや二つあるってもんさね」 それを言うてくれたらなおええんやけど、と女将は笑顔で店を出て行った。 「ちょっとちょっと、長子」 お末がぽんぽんと肩を叩いてきた。 「あんた昨日、そこで長五郎さんと喋っとったよな。何聞いたん?」 口角の上がった口元が好奇心を如実に伝えてくる。 「別に何も。今日は暑いですねとか、仕事大変やねとか、そんな話」 「ええー?ほんまに?」 「ほんまに。もう、話ばっかりしとらんと、洗い物!」 はいはい、とその場は引っ込んだお末だったが、事あるごとに長五郎との会話の内容を聞かれる。 (噂好きのお母ちゃんに知れたら、なんて言って広まるかわからん) その一心で、お長は決して口を割らなかった。 「アジー、アージー」 店の前を掃除していると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「佐助さん」 「ああ、えっと、お長さん」 天秤棒を担いだまま、佐助が近寄ってきた。 「あ……急に呼び止めて、えらいすみません」 「構いませんよ、自分ももう少しで仕事が終わるので」 佐助は天秤棒を少し上げて見せる。両方の皿に山と積まれていたであろうアジはもう十匹も残っていなかった。 (お父ちゃんが言ったこと、本当やった) 少し前に「アジが飛ぶように売れるようになる」との父の予言が当たっていたことに驚く。 「どうかしたんですか」 佐助が不思議そうにお長の顔を覗き込んだ。 「いえ、あの……実は、その……」 こんなことを知ったばかりの人に言いふらすのはどうなのだ、と思ったが、ほかに良さそうな相談先もないので、つい、長五郎との会話を打ち明けてしまった。一応、長五郎はある男と伏せておいたが。 「ふうん……」 佐助は静かに聞いていたが、やがてにっこりと笑っていった。 「お長さん、それはね、その男がまだまだ子供なんですよ」 「え?」 まさか佐助がそのような物言いをするとは思っていなかったので、思わず素っ頓狂な声が出た。 「だって、現実を見て、自分の置かれた立場や周囲の状況を鑑みることなく、自分ができそうもないから、そんな覚悟もないからと逃げ回っているだけではありませんか。そんなの寺子屋を嫌がる子供と何も変わりませんよ」 「……」 ぽかんと呆気にとられたまま、お長は耳を傾けていた。 「大人になるってことは色んな責任を負うことなんです。家族への責任、仕事への責任、命続く限り生きていく責任……。そういうものから目を背けているようじゃあ、立派な大人とは言えませんよ」 だから、と佐助は続ける。 「もしその男に会う機会があるなら、しっかり喝を入れてやることです。大黒柱になるお前がそんなことでどうするってね」 お長は、はっとした。自分が長五郎にやってやれることが分かったような気がしたのだ。 「助言、ありがとうございます! お礼をお持ちしますから、少々お待ちを」 「ああ、いいですよ、そんなの。大したことはしておりませんから」 佐助は慌てて引き留めたが、すでにお長は店に入ってしまった後だった。 「ふう……」 佐助はため息をつく。 「まあ、俺が一番言えた義理じゃないんだけどな」 その日の仕事が終わるや否や、お長は店を飛び出し、七里の渡しの船着き場の方角目指して小走りに向かう。 目指すは大塚本陣である。鉄は熱いうちに打て。父の教訓のままに飛び出してきた。 着いたころにはとっぷりと日も暮れた時刻だったが、構わず門をたたいた。 「ごめんください」 「へい、いらっしゃいませ」 下男らしき男が門を開けた。 「長五郎さんに話があるのですが、通してもらえますやろか」 「へえ、少々お待ちを」 それだけ言って下男が引っ込んだ。しばらくすると戻ってきて、上がって良しとの伝言を聞いたので、下男に案内されるままに本陣の中へ足を踏み入れた。 中はさすが桑名一の本陣である。位の高いお人を招くにふさわしい、格調高い内装だ。 その奥のほうにある部屋に通された。中では長五郎が待っていた。 「急にお訪ねして申し訳ありませんでした」 お長は深々と礼をした。 「いえいえ、大事な友人の訪問ですから」 長五郎はにこやかに応対してくれた。下男を呼び、茶と菓子を持ってくるように言いつける。 「それで、どうしたんです。何か急用が?」 「あんな、長五郎さん。私あんたに伝えようと思って」 長五郎は眼をしばたたかせた。 「長五郎さん。あんたはもう、大人になる時期が来たんや」 「……というと?」 「お嫁さんをお迎えして、子供も生まれて、それで家族を築いて、その責任を背負う。そういう日が来たんや」 「……」 長五郎は黙って聞いていた。だんだんうつむいて、声に涙が混じる。 「だって、そんな、急に言われても、僕は……」 言葉が昔の泣き虫だったころに戻ったかのようだ。 「……急な話で、戸惑うのはわかる」 自分だって、明日突然結婚相手を連れてきたと言われたら、動揺するに違いない。 「けど、まだ会うだけやないの。ご縁あって、結婚することになるかもしれんけど、今はお互いに会うだけやで。そう気負わんと会うてみたらええやない」 「うん……うん……」 ゆっくりと長五郎が顔を上げた。不安が完全に消えたわけじゃない。しかし、今までにはなかった力強い意志を感じ取れた。 「そうやね、僕ももう、そういうことから逃げられる年やないんやね」 年下の女の子に諭されるとは思ってなかった、と長五郎は頭を掻いた。 「まだ覚悟は決まったわけやないけど、もうちょっと考えてみることにする。お見合いも行くだけ行ってみようかな」 「そうしなそうしな。なんや、私が言うまでもなかったやん」 「そんなことはないよ。お長さんにここまで言われてようやく考えるところまでしかこられない、子供ですよ」 そのとき、丁度茶が運ばれてきた。同じお盆にきれいな桜餅が乗っている。 「よかったら食べていってください。その間に送らせる準備をしますので」 「そう? じゃあお言葉に甘えて」 道明寺粉で作られたもちもちの桜餅を一口ほおばる。甘い桜の味がたまらない。桜の葉の塩気も絶妙だ。そんじょそこらの和菓子屋で食べられる味ではない。 「んー、美味しい!」 「それはよかった」 ようやく、長五郎に笑顔が戻った。 お菓子を食べ終わり、お茶を飲み終えるまでたわいもない世間話をする。せめてこの時間だけでも彼が心軽くいられるように。 外に出ると、下男が提灯を持って待っていた。 「それじゃあ、また。店にも来てね」 「うん。またお邪魔させてもらいますよ」 門前まで見送ってくれた長五郎に一礼して、見送りの下男とともに暗い夜道を歩きだす。 ―――いつか、自分も同じ日が来る。 それまでに立派な大人としての心構えを身に着けておこう、とお長はひそかに心に留めたのだった。
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