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第二章
風がだいぶ夏のにおいになってきた。
「やあ、お長さん。日に日に暑くなってくね」
振り返ると、初老の男が立っていた。お長もよく知る店の常連だ。
「権太さん。どうもこんにちは」
権太は「いやあ、まいったまいった」と手拭いで汗を拭いている。
「ここに来るまでに蒸し焼きにされるかと思うたわ」
「それはえらかったですやろう。どうぞ座ってください」
お長は日陰の座敷に権太を案内する。
「いやすまんね……どっこいしょ」
権太が崩れるように座敷に腰を下ろした。
「とりあえずお茶。それとお菓子は……」
「今日から夏菓子として葛餅を売り出してますけど、いかがです?一皿八文」
いたずらっぽい笑顔で指を両手合わせて八本立てて見せる。
「じゃあ、それをもらおうかな。……いやあ、お長ちゃんは商売上手やなあ」
にこにこと権太の笑みは絶えない。
「そんなことは……でもありがとうございます」
謙遜するお長を見つめながら、ふう、と権太が息をつく。
「うちの倅はからっきしでねえ。愛想は悪いし、見てくれも良くねえ」
手拭いを首に引っ掛けたまま、権太がぽつぽつと語る。
「仕事は真面目で料理の腕も悪かあねえんやけど、こと商売方面はあかんなあ」
「権太さんの所は蛤屋さんですものね。蛤屋はここらは多くて大変でしょう?」
桑名と言えば蛤、と言うほどここは蛤屋が多い。特に時雨蛤は名物と言っても過言ではない。他に焼き蛤などを出している店もある。
「そうなんよ、聞いてくれお長ちゃん。最近新しい蛤屋がまた出来ちまってなあ。そこがこれまたでかい店構えで大量に安く売るもんだから、昔ながらの蛤屋が皆まいっちまってなあ」
新しい蛤屋、というのはお長も風の噂で聞いたことがある。つい最近開業したばかりながら、豊富な品ぞろえと手ごろな値段で人気を博しているとのことだ。確か名前は須賀屋貝新だったはずだ。
「須賀屋さんはまだいっぺんも行ったことあらへんけれど、大変な人気なんですってね」
「はあ、俺らはもう、商売あがったりよ」
ため息をついて権太がうなだれた。
「そんに落ち込まんと、元気出して」
お長は葛餅と茶を差し出した。
「ありがとさん。まあ、うちは常連さんが買いに来てくれるだけまだましなほうかもしれんしなあ」
権太はごくごくと茶をのどに流し込んでふう、と一息つく。
「そういえばその倅なんだけどよ、今日はこっちには来てないかね」
「え?」
権太の倅、というと凛太郎か。お長は何度か話したことのある仲だ。
「あいにく、今日は見とりませんねえ」
「そうか……」
権太は何か考え事をしているようだった。あまり客のことに首を突っ込んではいけないと思いながらも、好奇心に勝てずお長は問うた。
「凛太郎さんに何かあったんですか?」
「いや、何かってわけじゃねえが……」
少し言い淀んだ後、権太が口を開いた。
「最近、ちょっと仕事にのめりこみすぎとる節があってな。仕事熱心なのはええけど、夜遅くまで行灯つこて蛤を何べんも煮たり、近所のあっちこっちの蛤屋から時雨蛤を買うてきて味比べしたり」
「まあ、熱心でええことやないですか」
「それ自体はええんやけどな……最近は鬼のような形相で鍋の蛤を睨んどることも多くて、親としては心配やで」
確かに熱心、の一言で片づけるには目に余るものがあるようだ。
「でも、息子さんにも何か考えがあってのことですやろう。もうちょっと見守ってみてはいかがです?」
「せやねえ……」
どこか納得のいかない顔で、権太はそう言った。
「へえ、そんなことが」
その日の店をたたむ直前。佐助が慌てて駆け込んできた。片づけをだらだらやっていて良かったと今日ほど思ったことはない。
それで、世間話の一環として、権太と凛太郎の話を聞かせてみたのだ。
「ずいぶん熱心な方なんですねえ。俺も見習わないと」
「そこまで無理される必要もないと思いますけど」
二人して茶を飲みながら、しばし歓談する。
ああ、至福の時だ、とお長は思う。佐助と話していると、その日の疲れも吹き飛んでしまう。
と、その時。ガラガラと勢いよく扉が開いて、文字通り人が飛び込んできた。
「あの、今日はもう閉店で……」
言いかけて、お長は口をつぐんだ。飛び込んできたのは、たった今話していた蛤屋の凛太郎その人だったからだ。
「り、凛太郎さん、あんた、どうしたん」
ぜえ、はあ、と息を切らせて、これでもかというほど顔をしかめて、立ち尽くしている凛太郎にお長が恐る恐る声をかける。
するとゆがめた顔をさらにくしゃくしゃにして、ぼろぼろと大粒の涙を流してひっくひっくとしゃくりあげ始めた。
佐助も心配そうにその様子をうかがっている。
「お長さん、うちはもう、ダメなんだあ……!」
堰を切ったように凛太郎は泣き出し、その場に崩れ落ちた。
「いったいどうしたってんです」
お長は手拭いを凛太郎に差し出しながら事情を問うた。
凛太郎は溢れる涙をぬぐい、ずびびと鼻をすすりながら、切れ切れに吐露し始めた。
「新しい蛤屋の須賀屋ができたのは知っとるでしょう? あそこに取られた客を取り戻さんといかんと思うて、毎日必死に手探りしました。煮つけの味を変えたり、あっちこっちの蛤を食べ比べたり、時には須賀屋の味をまねてみたりしました」
そこまで言って、一拍の後続けた。
「だけど、ダメだった。どんなに味を改良しても、同じ味を出してみても、客足は増えない。それどころか常連客まで減り始めちまった。もうどうすりゃ良いかわかんねえよお……」
消え入るような情けない声を最後に、またぽろぽろと泣き出してしまった。
お長にはかける言葉が見つからない。これだけ一生懸命になっても客足を取り戻せないと嘆く凛太郎にもっと頑張れ、などと誰が言えようか。
「ふむ……」
ふと、後ろで興味深そうな声が聞こえた。言わずもがな、佐助の声だ。
「お長さん、この後お時間良いですか?」
「え?」
そういわれて今の時刻を振り返る。夕餉の支度までにはまだ時間はある。
「凛太郎さんのお店に行ってみませんか?」
凛太郎の店に着くと、権太が店先に座っていた。
「あれ、皆してどないしたん?」
「いえね、凛太郎さんがみつる屋に駆け込んできて、店がもう駄目だと言うものですから、一度拝見させていただこうかと」
「そうでしたか、愚息が大変申し訳ないことしましたなあ」
ぺこりと頭を下げる権太に、いえいえ、とお長が手を振る。
「よかったら時雨蛤を味見させていただけませんか?」
「へえ」
佐助が二文金を渡すと、権太が二つの小皿に貝を少しずつ盛って出てきた。
片方の皿をお長に渡すと、佐助は指で貝をつまんで口の中に放り込んだ。
お長も真似をして、貝を口に入れる。醤油の味も生姜の辛さも絶妙だ。これはぜひ家でも食べたい。値段も確認したが、とびぬけて高いわけでもなかった。
「うん、美味い」
隣で佐助も舌鼓を打っている。
「こんなに美味しくて値段もそんなに変わらないはずなのに、何がいけないんでしょうか……?」
「じゃあ、それを確かめに、今度は須賀屋さんに行ってみましょう」
ごちそうさまでした、と佐助が空になった皿を返した。お長も慌てて佐助に倣った。
須賀屋に着いた。相変わらず繁盛しているようで、買い物客でごった返している。
「えらいつんでますねえ」
凛太郎が不機嫌そうに言った。
「つ、つむ、とは混んでいる、ということでいいんですか?」
佐助が確認してくる。
「そうですよ」
お長が笑いながら肯定してやると、佐助がほっと息をついた。
「それより、ここにきて何がわかるってんです? 味見ならもうしましたよ」
「味じゃありませんよ。あれだけの種類を全部味見となると、金が足りませんからね。他を観察するんです」
三人でじっと店の様子を窺う。
数人の若い男が店の外で呼び込みをしている。「いらっしゃいいらっしゃい!」と声を張り上げ、近づく客には店の外に展示された商品を説明している。「あっさりならこっち!こってりならそっち!」と威勢よく明るい声が、少し離れたここまで聞こえてくる。醤油と生姜のいい匂いが外にいる三人の食欲を誘う。
「うん、これですね」
「何かわかったんです?」
首をかしげる二人に、佐助が説明する。
「まず、店員の愛想が良い。声も明るくて、客が近づきやすい」
確かに、近寄りがたい雰囲気はない。ちょっと声をかけようという気にすらなる。
「次にしぐれ煮、焼き蛤を店外で供している。醤油のいい匂いが腹をすかせにくる品並べをしている」
それも的を射ている。離れたところにいる三人も腹が減っているような気にさせられているのだ。
「結論として、須賀屋は味以外でも『売る』というところに注力している、ということですね」
「そ、そんな……」
凛太郎ががっくりと膝をついた。
「だから今まで通りの売り方をしている従来の蛤屋が苦境に立たせられた……ということなんですか?」
お長が言った。
「そういうことでしょうね」
にべもなく佐助が返す。
「どれだけいい味のしぐれ煮を作っても単に呼び込みをかけるだけとか、そんな売り方じゃ通用しなくなってしまっているのですね」
「そうですね。これからはいかに商品をよりよく見せるかの勝負になるでしょうね」
「と言いますか、今までそうならなかったのが不思議なくらいなのですが」と佐助は首をひねっている。
それは良くも悪くも田舎商法だったということだろう。それが大店の参入で変わろうとしている。
「凛太郎さん、諦めるのはまだ早いですよ」
佐助がポンと凛太郎の肩を叩く。
「今からでも遅くありません。お店の売り方を工夫してみませんか」
「けど……おいらにはあんな、真似できねえよ……」
「できるできないじゃなくて、やるしかないんです」
佐助はきっぱりと言い放った。
「こんなところで自分のことを言うのもなんですが、俺も最初は全然売れなかった。叔父が売っているアジと物は変わらないはずなのに、どうしてあの人は売れるんだろうって、一生懸命考えました。それで江戸訛りを直したり、愛想をよくしてみたり、いろいろ試行錯誤したもんです」
佐助は凛太郎を力強く揺さぶった。
「あなたは老舗の後継ぎさんじゃないですか。振り売りの俺にできることがあなたにできない道理はない」
「……」
凛太郎はひどく戸惑った表情をしていたが、やがて意を決したように何度も頷く。
「うん……おいら、やってみるよ。できるかわからないけど、やってみる」
その答えを聞いて、佐助もうれしそうに微笑んだ。
数日後、みつる屋に権太がやってきた。
「お店のほうはどうですか」
茶を出しながらお長が問う。
「それが、聞いてくださいよ。凛太郎のやつ、この間帰ってくるなりこれからは自分が店頭に立つって聞かなくって、試しに立たせてみたら笑顔こそぎこちないものの、声が明るくなったし味の説明まで始めやがって、いったい何があったんや」
驚きを隠せない様子で、権太が言う。
「きっと、何か良いことでもあったんでしょう」
しれっと佐助が素知らぬふうに言う。
「この度は本当にご迷惑をおかけして、えらいすんませんでした。これ……」
権太が佐助とお長に小さいざるを一皿ずつ差し出す。口を開けた蛤からは、ほんのりと味噌の香りが漂ってくる。
「凛太郎が作った、蛤の味噌焼きやそうです。食べたって下さい」
「これはどうもご丁寧に……ありがたくよばれます」
お長のその言葉を聞くや否や、それじゃあ、と権太はその場を辞した。
佐助とお長は手にした蛤を見て、顔を見合わせて苦笑した。
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