第三章

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第三章

蒸し蒸しと熱い空気が体中にまとわりつく。 ちりんちりんと軒先の風鈴がかすかな声で鳴く。 本格的な夏の到来だ。どこの店も夏の商品の売り出しに余念がない。 「いらっしゃーい。冷やし茶はいかがー?」 みつる屋も冷やし茶なるものを売り出した。浅い桶に井戸から汲んだ水を張って、その中に茶の入った湯飲みを入れて冷やすのだ。これが飛ぶように売れた。 「ふう……」 今日は昨日よりも暑いせいか、客足が全く落ちない。 お休み処みつる屋は大盛況だ。 「お長ちゃん、大福とお茶、2人前ねー」 「おーいお姉さん、こっちに団子追加ねー」 「はーい、おおきにー!」 お盆を片手に店内を駆け回り、時に外の腰掛まで注文を取りに行く。 鶯を思わせる彼女の声と様子に、来る人々はみな一様に頬を緩ませる。 「せっかく寄ってもろたのに、お構いもできずすみません」 お長が座敷の一角に向かって謝る。そこには淳平と佐助が座っていた。 「ええてええて。わしらも長居はせんで」 ついこの間相談に乗ってもらったお礼に大福を二つ渡したところ、「大したこともしてないので」とわざわざ客として足を運んでくれたのだ。 それなのにこの盛況ぶりで、ろくに二人のところに行けない。平吉もお末も手いっぱいだ。 「看板娘さんってのも、大変やなあ」 淳平がしみじみと言った。 小さい体でくるくるとよく働くその姿は、見ているだけでも小気味良い。 「お前も女房もらうときはああいう女子にせえよ」 佐助はぶはっと盛大にお茶を吹いた。 「おいおい何しとるんや」 「だって……けほっ……変なこと言うから」 袖で口元をぬぐいながら、佐助が言い返す。 「何が変な事か。お前ももういい年やろう。嫁さんもらうことも考えにゃ」 「それはそうですけど、何もお長さんを引き合いに出さなくても……」 「何を言うとるかね。器量良し、仕事良し、言うことなしの娘さんやないか。ああいう女子がええんよ」 それはあなたの場合でしょ、という言葉を佐助はすんでのところで飲み込んだ。 「そもそも、そんな高嶺の花に俺みたいなその日暮らしの振り売りなんかに嫁いでもらえるわけないでしょ」 「それもそうか」 はっはっはと気楽に笑う叔父に、はあ、と佐助の口からため息がこぼれる。 改めてお長を見やる。 客に満面の笑顔を送りながら、菓子の乗った皿を渡している。 確かに良い娘には違いない。色んな男から引く手数多だろう。うまくすれば大店からもお呼びがかかるかもしれない。 そんな高嶺の花に夢を見ることなど、佐助には到底無理だった。 さて、そろそろ席を立つか、と座敷をおりようとした時だった。 「てえへんだ!てえへんだ!」 一人の男が店に転がり込むように入ってきた。 「どうしました、お客さん」 平吉が問う。 「桑名に、ここに、異人さんが来る!」 店内は一時騒然となった。 「そりゃ本当かね」 「どこで知った」 など、入ってきた男は矢継ぎ早に質問攻めにされる。 「知ったのはさっき、城のお触書が出た時なんだよ。たまたまお触書を立ててるところを歩いてたんやけど、立ち寄り予定の店の一覧にここの名前が書いてあって」 男は汗を手拭いで拭きながら、何とか答える。 「ここに異人さんが来るってだけでも飛び上がったが、知った名前があってさらに驚いたってもんさ。それで、お長ちゃんたちに早く知らせないとと思って」 「あたしちょっと見てくる!」 お末がいてもたってもいられなかったらしく、店を飛び出してお触書のほうへ走っていった。 「やったなあ、大将!」 「おめでとうさん!」 あたりからはやし立てる声が聞こえる。 お長はといえば、いまだにぼんやりとしていた。 ペルリの来航以降、江戸に異人が増えたという話は風の噂で知っていた。だがまさか、地元に現れるとは誰が思おうか。 思わず尻もちをつく。と、誰かに支えられた。 「大丈夫ですか」 声のするほうに顔を向けると、佐助がいた。整った顔が思ったより近くにあって、とくんと心臓が鳴る。 「あ、その……大丈夫です」 慌てて体勢を立て直すと、よかった、と佐助の声が降ってきた。 「お長ちゃん、よかったねえ。この店がええ店やってお上に認められたっちゅうことや!」 常連客の一人が話しかけてくる。 「ええ……まだ実感もありませんけれど」 「その視察に来るっちゅう異人さんのお眼鏡にもかなうと良いねえ」 「本当に」 お長はうわの空で答える。この店に異国からの来訪者がある。その事実を未だにうまく呑み込めない。 「み、見てきたよ!」 お末が戻った。息も切れ切れに興奮しているようだ。 「確かにうちの店の名前もあった!異人さんと、幕府のお役人さんが来るんだって。こりゃあ忙しくなるよ」 「じゃあ、何かね。この一帯をぐるっと見て回るつもりなのかね?」 「そうみたい。桑名宿中のあっちこっちの店の名前が書いてあったもの」 興奮冷めやらぬ様子でお末が語る。 「そりゃもうね、たくさんの人が集まってたよ。芝居見物かってぐらいにね。あたしゃ、その群衆をかき分けて一番前で確認したんだよ」 「へえ、そんなかな」 「ああ、もう、どないしよう、どないしよう!」 お末はお末で混乱しているようであった。 「まあ、俺らがやれるのは商人様だろうがお大尽様だろうが、注文されたもんをお出しするだけや。おちつき」 平吉がなだめるようにお末の背を優しく叩く。 「うん、うん、そうやね……」 少し落ち着いたのか、お末がはー、はー、と深く息をつく。 「いや、それにしてもめでたい!お長ちゃん、お茶と饅頭追加ね!」 その声を皮切りに、みつる屋はいつもの活気を取り戻す。 そうして、はっと、今まで佐助に肩を支えられていたのをお長は思い出した。 「あっ……あの、すみません」 そこで佐助の方も肩の手を思い出したらしい。ばっと勢いよく手を離した。 「こ、これは、どうもすみません」 「い、いえ」 なんとなく気恥ずかしい。お長は急いで注文をした客の方に駆け寄っていく。 佐助もまた、ひどく戸惑っていた。先ほどまで自然に彼女の肩を支えていた手が震えている。 「おい、おい、佐助!」 淳平が呼ぶ声が聞こえて、やっと我に返る。 「どうした、体調でも悪いのか」 「いや、何でもないです。大丈夫ですので」 はは、と笑いながら、佐助は天秤棒を担ぎ上げた。 さて、ついにその日がやってきた。 早朝から皆落ち着かない様子で、そわりそわりとしている。 暇のある者は一目異人の姿を見ようと、七里の渡しの船着き場に集まっている。 巳の刻を鐘が知らせたころ、ひときわ仰々しい船団がやってきた。 その船には確かに見慣れない服装をした男が数人と、幕府の役人と思しき武士たちがいくつかの船に乗って近づいてくる。 そして、とうとう桑名の地に上陸した。役人が先導するように異人たちを連れて歩き始める。 人々の心の高鳴りは最高潮に達した。 お長は身を固くして一行の到着を待っていた。 異人を乗せた船が来たとの知らせが入ってから、すでに一刻半が過ぎようとしている。 (まだやろうか、本当に来るんやろうか) ぐるぐると渦巻く心を落ち着かせるために、時折深く息を吐く。 「お長さん」 顔を上げると、佐助がいた。 「佐助さん、どうして……」 「いや、異人がここに来るとなって、お長さんはどうしているか、気になって」 佐助はほかの人間と比べて平静を保っているようだ。余裕があるようにも思える。 「佐助さんは異人さんに会うたことがあるんですか?」 「会ったことはありませんけれど、江戸で何度か見かけることはありましたよ」 「そうですか」 ならば、あまり動揺していないのも頷ける。 「異人だって、俺らと同じ人間です。図体はでかいですが、取って食われたりはしませんから、大丈夫ですよ」 だから、と佐助は続けた。 「そんなに怖い顔してないで。笑顔が売りのお店でしょう? なら、最高の笑顔でお迎えしなきゃ」 にっこりと佐助がほほ笑んだ。それだけで体の力が抜けて笑みが浮かぶ。 「そうそう。その顔。それで良いんですよ」 それじゃあ、とそのまま佐助は行ってしまった。「アジー、アージー」の声が遠ざかっていく。 小さくなる背中を見送りながら、自分の両頬をぺちぺちと叩く。 (いつも通り、笑顔でいかな) いつ、どんなお客様が来てもいいように。早速入ってきた旅人姿の二人を座敷に案内した。 時刻は丁度未の刻。 件の一行がみつる屋に到着した。 「御用である!」 仰々しく役人が声を張り上げる。 平吉が出てきて、お末とお長が後ろに続く。 「いらっしゃいませ」 皆が注目する中、平吉が丁寧にお辞儀した。お末とお長も続いて「いらっしゃいませ」と腰を折った。 「この度は英吉利国公使殿のご案内である」 そこで役人は何やら紙を広げ、何かを確認する。 「ここの評判物は大福餅であるとのことで間違いはないか」 「はい、間違いございません」 平吉が答える。その声は平静を装っているが、幾分固い。 「では、それを人数分。茶とともに」 「承知いたしました」 もう一度深く礼をして、平吉とお末が奥に下がった。平吉が手早く皿に菓子を盛りつけ、お末が緊張した面持ちで茶を注ぐ。 その間、お長は英吉利から来たという異人たちに注意深く観察される。 (笑顔、笑顔……!) 自分に念じながら、ほほえみを絶やさず、両親の準備を待つ。 やがて大きなお盆に菓子の盛りつけられた皿が所狭しと並べられたものと、同じく大きなお盆に茶の入った湯飲みが並べられたものがやってきた。 お長はまず菓子のお盆を取ると、落とさぬようゆっくりと歩いて異人たちの前に立った。「どうぞ」と声をかけながら、一皿ずつ渡していく。 菓子が行き渡ったら、今度は茶のお盆を取る。こちらも溢さないよう、慎重に歩いてそっと全員の前に置く。 すると役人が何やら異人たちに話しかけ始める。どうやら何かを説明しているらしいが、異国の言葉は誰にもわからない。 しかし、うんうんと頷きながら興味深そうに話を聞いていた異人たちが急に怒声を上げ始めた。役人たちが慌てて何か釈明している。 「うん?」 どうしたんだろう、とお長が思っていると役人の一人がこちらに向かって急ぎ足でやってきた。 「娘、今すぐ笑顔をやめなさい」 「え?」 訳が分からず聞き返す。 「公使の方々がそろって娘が我々を馬鹿にしている、とご立腹なのだ」 その間も数人の役人が説明を続けるが、異人たちの怒りを納められないらしい。 お長もほとほと困り果てた。言葉もわからないので、謝りようもない。 するとその時、「ごめんください」と一人の男が入ってきた。見間違えようがない、佐助だった。 佐助は突然の珍客にしんと静まり返った店内を見渡すと、とことこと異人の一人に近づいた。 「わっといずまたー?」 お長にはそう聞こえたが意味は分からなかった。 すると異人が何やら佐助に向かって話し出す。ふんふんと何度も頷きながら聞いていた佐助が、また何かよくわからない言葉を話し始める。すると異人は納得がいった、という顔で笑顔を見せ、菓子に手を付けた。 とりあえず、何とかなったらしい。お長はほっと息をついた。 やがて歓談も終わり、異人たちと役人たちがそろって店を出る。 「此度の茶菓子の供出、誠に大儀であった。代金は藩より追って所定の役人から届けるものとする」 「ははっ」 平吉が頭を下げた。 「では、我々はこれで」 そう言うと役人たちは異人に何か話しかけると別の場所に移動を始めた。 「ありがとうございましたあ!」 平吉が声を張り上げて言う。 「「ありがとうございましたあ!」」 お末とお長も声を張った。 異人たちの姿が見えなくなると、場は拍手喝采の嵐となった。 「ようやった、ようやったなあ!」 「客のあたしでさえどきどきしたよお!」 「いよっ!桑名の立役者!」 客も通りすがりも大喝采である。 平吉は四方八方に頭を下げながら、満面の笑みだ。 「ようやく、ひと段落だねえ」 お末が肩のコリをほぐすように腕を回した。 お長も自然と笑みがこぼれる。自分も無事、お役目を果たせたのだ。 「お長さん」 もう聞きなれた声がした。 「佐助さん」 そこには佐助がいつものように天秤棒を肩に担いで立っていた。 「頑張ったね。偉かったね」 気が付いたら、ほろほろと涙を流していた。ああ、自分は気を張っていたんやな、と改めて気づく。 佐助が黙って天秤棒を担いでいるのとは反対の手で涙をぬぐってくれる。 それがどうしようもなく嬉しくて、余計に涙は止まらなかった。 ようやく涙が止まった頃、お長は佐助に問うた。 「佐助さん、異国の言葉をご存じなんですね」 すると佐助は照れ臭そうにポリポリと頬を掻いた。 「いや、実は江戸で店勤めをしていた時に、英語の通訳士の友人ができまして、仕事の合間の手慰みに教えてもらった程度です。そんなに難しい話はできませんよ」 「へえ……」 異国の言葉がわからねばならないとなると、相当の大店に勤めていたということだろうか。 「さっきは役人の喋り方がまずかったみたいですね。どうも異人たちはお長さんが笑顔で接客するものだから、役人が昼間から女が、その、そういうことをする店に連れてきたとばかり思ってしまったみたいですが、それが日本流のもてなし方だと説明してしまった。俺はただ、この店はそういう場所ではないし、日本では笑顔で接客することは普通のことなんだと説明しただけですから」 なるほど、それであんなに怒っていたのか。 「お長さんがそういう女じゃないと説明できてよかった」 にっこりとほほ笑む佐助に、お長の胸の中の何かがポンと毬のように弾んだ。 「ありがとうございます」 お長は顔が熱くて、まともに佐助の顔を見返すことはできなかったが、何とかそれだけ絞り出した。 佐助はそれをまぶしそうに眺めていた。
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