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第四章
その日は朝からしとしとと雨が降り続いて、分厚い雲が日光を遮り昼間でも薄暗かった。
「ここのところ、雨が続くねえ」
「洗濯物が乾かなくって難儀だよ」
戸を開けて降りしきる雨を見やるお長に、お末が唇を尖らせて言った。
そうはいっても降る雨を止めることはできない。
ふと、佐助が頭をよぎった。
その日暮らしの振り売りは、雨の中でも商売をする。
(風邪でも引かなきゃいいんやけど)
お長はこの長雨に何だか不吉な予感を感じるのであった。
翌日は打って変わって見事な晴天であった。雲一つない秋空だ。
「雨の日の次の日はやっぱりジトっとするねえ」
お末はまだ文句を言っている。
「もう、お母ちゃんは文句言っとらんと、仕事仕事」
お末の背を押して井戸のほうへ歩かせる。そうしていつものように箒を取り出し、開店前の準備を始める。手始めは掃除からだ。
シャッシャと落ち葉を掃いていると、「アジー、アージー」の声が聞こえた。しかしいつもの佐助の声ではない。気になって伸びをしてみてみると、通りを歩いてくるのは淳平であった。
「淳平さん、どうもおはようございます」
「ああ、お長ちゃん。おはようさん」
一緒に来ているのかと思ったが、どうやら今日は淳平だけが売りにきているようだ。
「あの……佐助さんはどうしたんです? 別のところに売りにいっているとか?」
「いやね……」
淳平は声を潜めた。
「あいつ、昨日までの長雨で風邪拗らせちまって。ろくすっぽ声も出ないってんで、俺が一人で回ってんのさ」
「ええ?!」
やはり雨の中の行商で無理をしたのだ。
「あの、お見舞いに行かせてもらってもええですか? 何かできることがあったらお手伝いさせてください」
「ええのかい? いやあ、助かるねえ。うちは男所帯なもんだから、碌に看病もできんくて」
淳平は早くに妻を亡くしていることはお長も承知済みだ。女手が要るこんな時こそ、日頃のお礼もできるというものだ。幸いにも料理の腕には自信がある。何か精の付くものを作ってあげようと決心し、献立を考えながら掃除を再開したのだった。
その日の昼頃。
「ごめんください」
みつる屋の暖簾を若い娘がくぐった。
「いらっしゃ……あれー!? お時ちゃん?!」
お長が喜色満面になる。
「久しぶりー。元気にしとった?」
お時は三軒隣の甘酒屋で働く少女だ。お長と同い年で数年前までは頻繁に会っていた仲だ。
栗色の髪を流行りの形に結わえて、きれいな赤いべっこうの簪をつけている。
「どうしたん、突然やね」
「ううん、急にお暇をもらえたもんで、久しぶりに顔を見ようかと」
「ホントにー。よかったね」
言いながら座敷に案内する。
優雅に座るお時の姿に、周りの視線が集まる。可憐な少女二人が和気あいあいと話をする様は目の保養だ。
「仕事はどう? 忙しい?」
とお長。
「最近肌寒かったから、忙しかったよ」
とお時。
たわいもない話でこんなにも話し込んだのはいつぶりだろう。ともすると数年ぶりかもしれない。
「そういえば、最近アジ売りの人が代わったなあ」
「えっ」
佐助のことだろうか。
「そ、そうやね。若い人がよう売りに来るね」
「せやろ? お長ちゃんはもう会うた? えらいええ男やで」
いつも助けてもらっています、とは言えないまま、「そうなん?」とだけ返す。
「もう、笑顔が素敵やし、物腰も江戸から出てきたっていうわりに柔らかくて、とにかくええ男なん!」
きゃあきゃあとはしゃぐお時に内心穏やかではなかった。
ともすると、お時と佐助が一緒になるような心地さえしている。美男美女の二人はどう見ても自分より釣り合いが取れているように思われるのだ。
(……それの何があかんのやろ?)
二人が目出度く一緒になることに危機感を感じている自分がわからない。
「お長ちゃんどうしたん? 顔色悪いで?」
「え? ああ、何でもあらへんよ」
まだ決まったわけでもないことでうじうじ悩んでいても仕方ない。
「今日もあの人が来やんか、店の前で待っとったんやけど来おへんかったから、ちょっと心配しとるんよ」
ということは、お時は佐助が風邪で寝込んだことを知らないのだ。そのことにほっとしている自分がいる。
「ええよなあ……ああいう人に娶ってもらえたら、うち、その日暮らしの生活でもええわ」
とろり、ととろけそうなほど、お時の目はうるんでいた。きっとその先には佐助が見えているのだろう。
そう思うと、胸がずきずきと痛む。
自分より似合いの二人が一緒にいることがなぜこんなにも気に食わないのだ。
佐助が寝込んだことも言えないままだ。
「私、そろそろ行くわ。じゃあまた」
飲み終えた湯呑をことりと置いて、席を立った。
「もう行くん?」
「うん。他の友達のところにも顔出したいから」
「そっか」
「ほな、また」
去り際、こっそりとお時はお長に耳打ちした。
「今度あの人に会うたら、一緒になりませんかって言うんや」
内緒やで、と付け加えて、お時は店を出て行った。
心臓がまな板の上の魚のように飛び跳ねている。冷汗が止まらない。落ち着けようと深く息をする。
「お長ちゃん、注文―」
「はーい、ただいま!」
お客からの声で我に返ったお長は、佐助のことを頭から無理矢理追い出して仕事に戻った。
その日の夕方、料理の材料を抱えて、順平に教えられた長屋に「ごめんください」と入った。
中は至って質素なもので、土間に二人分の履物が脱ぎ捨てられ、壁には乱雑に仕事着が吊るされている。
「おお、お長ちゃん、来てくれたんか」
喜色満面で淳平が出迎えてくれる。
「えっ、お長さん?」
その声に佐助が飛びあがるように跳ね起きた。
「お邪魔します」
そのまま勝手場に近づくと、「お借りしますね」と一言断って作業に入る。米をといで鍋で煮る。お椀に買ってきた卵を一つ割り入れ、箸で解きほぐすとぐつぐつと煮え立つ鍋にさっとひと回ししてとじる。その間に自家製のアジの干物を焼き、家で作ってきた蛤の吸い物と付け合わせのひじきと大豆の煮物も皿に盛る。
「はい、お待ちどうさま」
膳に並べて二人の前に並べる。
「おお、こりゃまたご馳走やな。ほれ佐助、よばれよに」
嬉しそうにいそいそと箸を取る淳平。
「すみません、気を使ってもらって」
申し訳なさそうに佐助も膳の前に座って居住まいを正す。
「ええのええの。困ったときはお互い様ですし」
「卵なんて高価なものまで……。本当に申し訳ない」
「じゃあ、早う精を付けて元気になってもらわんとね。皆佐助さんの事、心配してますから」
「はは……。ありがたいことだ」
「じゃあそろそろ」
「「「いただきます」」」
三人そろって料理に箸をつけた。
その夜は和気あいあいと話し込んだ。主に仕事の話であったが、佐助の話は何でもキラキラと輝いているように思えた。
一番魚が売れた時の思い出、逆に売れなかったときの思い出、売り歩き中に転びそうになった話……どれもたわいもない話であったが、それが楽しかった。
ひとしきり話が終わったところで、順平が送ると言い出したので、その言葉に甘えてその場を辞することになった。草履をつっかけたところで、お長さん、と後ろから声がかかった。
「今日はありがとうございました。また明日から頑張れます」
その佐助の様子があまりに可愛らしかったので、お長はくすっと笑って言った。
「またお待ちしてますんで」
その言葉を最後に、順平と佐助の家を後にした。
夜道を提灯を持った淳平と歩く。晴れていたとはいえ、そろそろ夜は肌寒い時期だ。
「今日は無理言うてすまんかったのう」
「いえ、こちらが言い出したことですから」
それきり、言葉は続かない。
「なあ」
ふいに淳平が口を開いた。
「あんたは佐助に入れ込んじゃいけないよ」
「え?」
「あいつは顔が良いし、人も良いから、そりゃ女子からよく文をもらうもんさ」
背中を冷汗が伝う。昼間の胸の痛みがまた戻ってきたようだ。
「だけどな、あいつに嫁ぐってことは、明日も見えねえその日暮らしになるってことだ。お長ちゃんみてえないい女がそんな生活を強いられちゃあ、わしはお長ちゃんのご両親に顔向けできんよ」
それきり二人とも黙ってしまった。
お長も何か言わねばと思ったが、結局何も言えなかった。
家に帰りつくと、じゃあな、と淳平が踵を返した。
その背中を見送っていると、入り口から平吉が顔を出した。
「おう、お帰り」
「ただいま、お父ちゃん」
「はよ入り。外は寒いやろう」
それだけ言うと入り口を開けっぱなしにして引っ込んだ。
入って来いということだろう。お長は暗い店内に足を踏み入れた。
二階に上がり着替えて寝室に入ると、行燈で照らされた部屋にお末が待っていた。
敷かれた布団の上に平吉が腰かける。お長も自分の布団に座り込んだ。
「どうやった、順平さんちは」
「楽しかったよ」
嘘をついてもしょうがない。どんなことを話したか、どんなことをしたか、話して聞かせた。
「そうか……」
それきり黙ってしまった平吉は、何かを考えているようだった。
「お父ちゃん」
沈黙に耐えられず、お長が呼び掛ける。
「わかっとる。お前はアホやない、しっかりした子やってわかっとる。せやけどな、親として心配なんよ。振り売りなんかに嫁ぎたいなんて言い出して、その日暮らしでもいいなんて昼間の娘さんみたいなことを言い出さんかってな」
「お父ちゃん、うち、そんなんじゃ」
今日だっていつものお礼のつもりで行っただけなのだ。決してやましい気持ちで行ったわけではない。
「わかっとる……今日はもう寝よか」
行燈が消され、真っ暗になった部屋で布団にもぐりこんだが、なかなか寝付けなかった。
思い出すのは佐助との会話ばかりだ。
(こんなにも、うちは佐助さんのことを……)
顔が熱い。明日どんな顔をして会えばいいのだろう。
出会った時から感じていた、胸の高鳴り。佐助の顔が良いからだと信じてきたが、どうもそれだけではないらしい。
その夜は全く寝付けず、気が付いたら朝になっていた。
「ふわ……あ」
大きなあくびをしながら日課の掃き掃除を始めた。
今日は今にも雨が降りそうな分厚い曇り空だ。まだ午の刻だというのにもう薄暗い。
と思っている傍から、雨がぽつぽつと降りだした。
「あらま……」
また母の機嫌が悪くなる、とぼんやり思っていると、からころと下駄の音がした。
顔を上げると、お時がたっていた。
「あれ、お時ちゃん」
お長は近づこうとして、できなかった。
お時は今にも泣きそうなのをぐっとこらえて、拳を握りしめながらそこに立っていたからだ。
「お長ちゃん……あの人の事、知っとったんやね」
「え……?」
「昨日の晩、料理なんか持ってあの人の家に行って、何しとったん」
お長は動揺した。何故それをお時が知っているのか。
「何で知ってるのかって顔やね。今日の朝、お客さんが話しとるのを聞いたんよ。『みつる屋のお長ちゃんがアジ売りの佐助の家に入っていったのを見た』って」
まさか誰かに見られていたとは、思いもよらなかった。しかし思い返してみると、確かに人通りは少ないながらもあったし、近くに住む他の誰かに見られていてもおかしくなかった。
「昨日は佐助さん、風邪で寝込んどったそうやね。お長ちゃん、知っててお見舞いに行ったんやね?」
「……」
何も言葉が出てこなかった。追い詰められたネズミの気持ちだ。
「私が、あの人に、佐助さんに、どんな気持ちでいたか知ってたくせに、何も言わんと自分だけお見舞いなんか行って! 私だって知ってたらお見舞いにくらい行ってたわ! 自分だけええ思いして!」
がっと胸元を掴まれた。雨がだんだんひどくなる。もう周囲の好奇の視線は見えなくなった。世界にはお長とお時だけがいる。
「ねえ、嘘やて言うてよ……。私と佐助さんの事、応援してるって言うて……」
「……」
涙まじりのお時の懇願にも、やはり何も出てこなかった。嘘でも応援していると言ってやれば良いのに、と心の内はささやくが、体は動かなかった。
「この……裏切り者! 泥棒猫!」
お時が空いていた腕を振り上げた。叩かれる、そう感じてギュッと目をつぶった時。
パシッと軽い音がした。いつまでも衝撃が来ないことを不思議に思ってそろそろと目を開ける。
すると、男のものとわかる筋肉質な腕がお時の腕を掴んでいた。
「手を離してください」
少し視線を上げると、真剣な顔をした佐助の顔が見えた。二人の世界に乱入者が現れた。
「あ……私……」
お時も驚いた顔をしている。
「手を離してください。俺の大事な恩人なんです」
努めて平静に、お時に言う。
その毅然とした態度に、お時の手が胸元からゆっくりと離れていった。佐助もお時の腕を離す。
別に怒鳴られたわけでも手をあげられたわけでもないのに、お時は何かを恐れるようにじりじりと後ろに下がり、わっと泣きながらその場を後にした。
「あ、あの」
ありがとうございました、と言おうとして、佐助に遮られた。
「すみません、こんなことに巻き込んで」
何故か謝られてしまった。お長が首を傾げる。
とその時、ガラガラと入り口が空き、お末が顔を出した。
「あんたたち、何をしてるのかと思えば……ずぶぬれやないの」
はよ入り、と手招きするお末に導かれて二人でみつる屋の暖簾をくぐった。
「はーん、なるほどねえ。そんなことやっとったんや」
事の顛末を聞いた平吉がポンと膝を打った。
「すみませんでした。まさか俺なんかに惚れた女子がお長さんに危害を与えるなんて……」
「いや、こっちこそ娘の一大事を救ってもらってありがとよ」
でもな、と平吉はつづけた。
「今後、うちの娘に近づくのは、遠慮してくれねえか」
「お父ちゃん!」
思わず叫んでいた。もう佐助に会えないなんて、そんなこと認められるはずがなかった。
「またいつお前に嫉妬した女に絡まれるかわからねえ。そんな危険にむざむざお前をさらすわけにはいかねえし、そんなことがしょっちゅうあるとなると、うちの商売もあがったりだ。わかってくれるな、お長」
そう言われて、ぐっと言葉に詰まった。自分一人の被害ならまだしも、家にまで累を及ぼすわけにはいかなかった。
「……わかりました」
佐助も承知したようだ。
「すまねえな、二人とも。わかってくれ……」
平吉はそれだけ言うと奥へ戻ってしまった。
後にはお長と佐助だけが残された。
「この度は大変ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
「いえ、あれは……」
言い淀んだが、何とか絞り出す。
「あれはうちが悪いんです。うちが佐助さんの事、きちんとお時ちゃんに話してさえいれば、あんなことには……」
二人で仲良くお見舞いに行けていれば、こんなことにはならなかった。後悔だけが頭をよぎっていく。
「いや、今回のことは、お長さんは悪くないですよ」
そう言って佐助は立ち上がると、「お邪魔しました」と天秤棒を担ぎ上げた。
「あ……」
何か言おうとして、結局言葉は何も出てこなかった。ただ店を出て行く佐助の後姿を見送ることしかできなかった。
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