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第五章
佐助の顔を見なくなって一月が経とうとしていた。
空になった湯飲みと皿を回収しながら思うのは、最後に見た佐助の後ろ姿だ。
いつもより少し猫背になったあの佐助が忘れられない。
(佐助さん、どうしとるんやろ)
また風邪をひいていないだろうか、怪我でもしていないだろうか。
佐助の姿が頭をよぎるたびに、胸に何かが詰まるような感覚がする。
(あかんあかん、仕事仕事!)
両頬をパンパンと叩いて、お盆を持ち上げた。
「お母ちゃんこれ、洗いもん」
「え? ああ、洗いもんな。そこのざるに置いといて」
あの一件以来、お長が話しかけると、いつもこれだ。平吉もお末も、どこかぎこちない。
お時も街ですれ違っても、声もかけてくれなくなった。
色々なことが一気に変わりすぎて、お長にはついていけなかった。
「はあ……これからどうなるんやろ」
誰にともなくぽつりとつぶやいたとき、店の外から何やら喧騒が聞こえてきた。
「……?」
不思議に思って店の外へ出ると、二人の侍が言い争っているようであった。
めったにない光景に、興味深そうに観客が集まっている。
「やいやい、ぶつかってきたのはそっちの方だろ」
一人の侍が言う。旅姿から察するにおそらく伊勢詣に来た参拝客なのだろう。しかし顔が真っ赤だ。昼間からしこたま飲んでいるらしい。
対する侍は表情を崩さず、冷静だ。
「いいや、ぶつかってきたのはそちらだ」
至極落ち着いた声で、淡々と言った。
「なんだとお?」
やにわに男が刀に手をかけた。
「てめえ、誰に物言っとるかわかっとんのかい!」
かちりと鯉口を切る音がした。ひいっと誰かの悲鳴が聞こえた。観客たちが抜刀の気配にそろって後ずさりする。
あわや大惨事!酔っ払いがさやに手をかけた、その時。
「待って!」
そのただなかにお長が割って入った。
にわかに場がざわつく。
お長は落ち着いている侍に背を向けて、庇うように立つと酔っ払った侍に向き直った。
「こんな昼間からお刀なんて抜いたら、お家の恥ですよ」
「な、何だと」
酔った侍が困惑して鼻白んだ。
「飲み足りないんやったら、この辺の美味しい居酒屋さん紹介しますよ。さあさ、行きましょ、な?」
男の腕を取って強引に近くの居酒屋に向かう。
すれ違いざま、もう一人の侍と目が合った。
いきなり女が割り込んだためか、こちらも驚いた顔をしている。
お長はにこりと会釈だけして、その場を去った。
ざわついていた周りも次第におさまり、各々の生活に戻っていく。
先ほど自分と酔っ払いの間に割り込んできた娘は、「お松ちゃーん、お客さんやでー」と居酒屋の店内に向かって叫んでいる。
「あいすまぬ」
侍は通行人の一人を呼び止め、問うた。
「先ほどの娘は、どこの誰だ」
「へ、へえ。みつる屋の看板娘さんのお長ちゃんです。ほら、そこの店の」
商人らしき男が指をさす。自分の真横にその店はあった。
「そうか、かたじけない」
そう言うと、商人はどこへともなく歩き去った。
「……」
侍はしばらく考え込んだ後、お長が行った居酒屋のほうを見つめる。
丁度お長は酔っ払いを引き渡し、こちらに戻ってくるところだった。
ほっと安堵を浮かべた顔で歩いてくる。
よく見ると、そこらの女とは比べ物にならないほど、瑞々しく美しい娘であった。
しばしその姿に見惚れる。すると、またもやお長と目が合った。
お長は少し驚いた顔をして立ち止まった。少しの間見つめあっていたが、やがてお長が口を開いた。
「あの、お侍様。先ほどは……」
「ああ、いや、咎めるつもりはない」
自分が怒っているわけではないと伝えると、すう、とお長の肩から力が抜けた。
「一言、礼を言っておこうと思って、待っていた」
そう言うと、お長は「いえ、そんな」とにこりと笑った。
「どちら様も怪我がなくてよかった」
微笑みながらそう言うお長は、まるで天女のように美しく思われた。
その時、みつる屋の店内から「お長ちゃーん」と呼ぶ声がした。
「申し訳ございません、うち、仕事がありますもんで……」
「いや、こちらこそ、引き留めてしまってかたじけない」
深々と一礼して、お長がその場を辞した。
「はーい」と元気良く返事をしながら戻っていく後姿を、侍はしばし見送っていた。
「もう、この子ったら、急にお侍様の喧嘩に突っ込んでくんやから」
夕餉をつつきながらお末が言った。
「それは謝ったやないの。勝手に体が動いたんやから、しゃあないやん」
いつまでも文句を言うお末にはあ、とお長がため息をつく。
「悪かったらあんた、斬られとったかもしれへんねんで? こればっかりはきつく言わせてもらうでな」
ぷりぷりと未だお末は怒りをあらわにしている。
「お転婆もええけど、自分の命のことも考えな」
平吉にもくぎを刺された。
「わかっとるって。もうせえへんて言うとるやないの」
「でもな、あんたな」
「しつけえぞ、お末。わかってんならいいんだ」
「でも、だって」と繰り返すお末を平吉が諌める。
(自分はいい親に恵まれた)
そう思ってお長は味噌汁に口をつけた。
同時刻。桑名城下の侍屋敷の一軒に、男が入っていった。
昼間、みつる屋の前で喧嘩をした侍だ。崩れることのない静かな面持ちのまま、玄関に入る。
「お帰りなさいませ、琥太郎」
侍―――琥太郎は三つ指をついて迎える母親に「只今戻りました」と一言かけて、奥へ入っていった。
「今日は下級武士に扮して、城下町の視察に行かれたそうね」
「ええ、この目で市井を見ておくことはとても役に立ちますから」
「だからと言って、供の一人もつけないなんて、危ないじゃあありませんか。あなたはお父上を継ぎ、松平様の近習になる身なのですよ」
咎めるような口調で言われたが、琥太郎は涼しい顔だ。
「そうでもありませんでしたよ。面白い女子にも会えましたし」
夕餉の膳の前に座り込むと、箸を取って「いただきます」と手を合わせる。
「はあ、面白い女子、ねえ」
母が首をかしげるので、昼間の一部始終を聞かせる。
「まあ、そんな危ないことを」
「私も面喰いましたが、存外、悪い気はしなかったんですよ」
不思議なことに、お長に体面を汚されたとは感じなかった。むしろ礼を言いたいとさえ思ったのだ。
(少し、探ってみるか)
琥太郎は白米に箸を伸ばした。
昼を過ぎ、客の数も落ち着いた頃。
いつものように呼び込みをかけに外へ出ようとしたところ、一人の男が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
普段通りに軽く会釈をして迎えると、そこには昨日の侍が立っていた。
「まあ、お侍様。いらっしゃいませ」
「邪魔をする」
そう言って侍は茶と菓子を注文し、代金を渡すと、奥の座敷に腰かけた。
平吉から品を受け取り、持っていく。侍は姿勢正しく座っていた。
「お待ちどおさま。お茶と大福になります」
「うむ」
侍は丁寧な所作でそれを受け取ると、お長に向き直った。
「お主、名は何という」
「え?」
突然の質問に戸惑ったが、何とか答える。
「長子と申します」
「長子……お長か」
「はい」
侍は何か考えるようなしぐさをして、言った。
「某は桐野琥太郎と申す。先日は名乗りもしないで、失礼した」
深々と頭を下げる侍―――琥太郎に、お長が慌てて言う。
「やだ、そんな、顔を上げてください」
「お主の勇気ある行動で、あの日、一滴の血も流れず事が済んだ。感謝している」
姿格好から下級武士であろうということはわかるが、いかに下級といえども武士は武士。一介の町民に頭を下げることなど、到底許されるはずがなかった。
「うちは何もしとりません……そんな、お願いですから、顔を上げてください……」
そこでやっと琥太郎が顔を上げた。
佐助とは違うが、こちらも端正な顔の男だった。武士らしく精悍で、しかし水面のように静かで落ち着いた雰囲気の顔立ちだ。
そんな男に真正面から見据えられて、お長の心臓が跳ねる。
(やだ……何よ)
お長は戸惑った。佐助以外にこんな心持にさせられたのは初めてだ。
と、突然琥太郎がふふ、と笑った。
「そんなに固くなるな。某は下級の武士。お主もよく接するだろう?」
「それは、まあ……」
みつる屋には町人や参拝客も多く訪れるが、武士階級の人間の来店も多い。
お長とて慣れていないわけではない。が、琥太郎はどうも勝手がわからないのだ。
「某……いや、私にもいつも通り接してくれれば良い」
「え、ええ……」
曖昧に頷いたが、やはりぎこちなくなってしまう。
琥太郎は優雅な所作で菓子に手を伸ばす。
洗練された動きは、どう見てもそこらの地侍とはわけが違った。
「うむ。美味だ」
琥太郎は大福に舌鼓を打つ。
「ありがとうございます」
店の大福が褒められ、少し肩の力が抜けた。
お長のそんな顔を見て、琥太郎も満足そうに笑った。
「あなたは、そういう顔がよく似合う」
「え?」
今日は驚いてばかりだ。ここまで直球に笑顔を褒められたことは初めてだった。
「やだ、お侍様ったら、お上手なんやで」
赤くなる顔をふいと背ける。
「上手を言ったつもりはなかったのだが」
そういいつつ、琥太郎も少し困惑していた。
(なぜ自分はこんなことを言ってしまったのだろう)
確かにお長は器量の良い娘だ。だが、手放しで他人を褒めてしまったのは、初めての経験だ。
笑顔がよく似合っている、だなどと。
まるで、自分がお長を口説いてでもいるようではないか。
しかし、もっとお長を知りたい、笑顔を見てみたいと思う自分が確かにここにいるのだ。
さらに話しかけようとしたとき、「おーい、お長さーん」という声が聞こえた。
新しい客が入ってきたのだ。お長が「はーい」と返事をする。
「申し訳ございません、うち、行かないと」
「あ、ああ」
「すみません」と一言言い置いて、入ってきた客の方に駆けて行ってしまった。
(……!?)
一瞬、引き留めようと手を伸ばしかけてしまった。
許されるはずがない。自分は一介の客で、しかも下級武士の格好をしている。他の客と同列に扱われることは承知の上だったはずだ。
だというのに、彼女が自分のもとから離れると知った時、とっさに手が伸びかけたのだ。
そして、彼女との会話を途絶えさせた来客に腹を立てている自分がいることも、不思議な事であった。
しかし平静を装いながら菓子を口に運ぶ。自分にできるのは彼女が戻ってくるのを待つことだけだ。
琥太郎はひたすらその時が来るのを待った。
ようやく客がはけて、そろそろ閉店の準備を、と思い店に入ると、琥太郎はまだ座敷に座っていた。
「あの、お侍様」
お長が話しかけると、琥太郎が静かにこちらを向いた。
「もうじき店じまいの時間ですので……」
「む、そうか」
「馳走になった」と湯飲みを置く。
琥太郎は外を見た。まだそこそこ明るい。
「もしよければ、少しこのあたりを案内してもらえないだろうか」
「え、案内、ですか?」
「ええ。実はここから少し離れた所に住んでいるものだから、この近辺には詳しくなくて」
真っ赤な大嘘である。この辺りはすでに昨日今日とまわっているので、大体のことは知っている。それでも、お長との時間が欲しかった。彼女の笑顔を見る時間が。
「ええと……」
お長は両親を振り返る。
「行ってきな。まだ時間はあるやろう」
平吉が言った。
「そうそう。道案内も仕事のうちやで」
お末も笑顔で頷いた。
「それじゃあ、拙いかもしれませんけれど……」
「では、行こうか」
お長と琥太郎はそろって店を出た。
二人そろって夕方の街道を歩いていく。
蛤屋では焼き蛤の美味しそうな醤油のにおいが漂ってくる。
琥太郎が一皿蛤を買うと、お長にも分けてよこした。
「買い食い、というものを始めてやったが、なかなか楽しいものだな」
琥太郎が楽しそうに言う。
「お侍様はなさったことないのですか?」
「武士の買い食いは卑しいこととされている。だが、中には手拭いで顔を隠して屋台を利用する者もいるとは聞いたことがあるな」
それと、と琥太郎が付け加える。
「私のことは、琥太郎と呼んでくれ。お侍様、と呼ばれるのはどうにも合わない」
「ええ、と……琥太郎様?」
鈴が転がるような、透き通った声が琥太郎を呼ぶ。
たったそれだけで、琥太郎の胸がとくんと音を立てた。
「ああ、そうだ」
満足だ。琥太郎はにっこりと笑った。
蛤屋の後甘酒屋でも買い食いし、二人で顔を見合わせて笑った。
それから、鋳物屋を覗き、和菓子屋、呉服屋を冷やかす。
もうじき七里の渡しのそばの花街だ。桑名の遊郭は他藩でも有名だと聞く。
「そこにお魚屋さんがあって……」
お長が指をさしたまさにその時、一人のほっかむりをかぶった男が店先の魚を一匹わしづかむと、一目散に走りだした。
「ど、泥棒!泥棒―!」
店の主人らしき男が必死に追いかける。
琥太郎も走り出した。お長もそれに続く。
人垣を突っ切って盗人が走る。だが、いくらも行かないうちにドンと誰かにぶつかった。
男が顔を上げると、アジの乗った天秤棒を担いだ男が仁王立ちしていた。
「それ置いて、とっとと失せな。今なら岡っ引きからも逃げられるだろうよ」
お長が聞き間違いようがない。佐助の声だった。
「ひっ……ひぃっ……」
佐助の迫力に脱力して、男が膝をついた。
「その魚だってただじゃねえんだよ。魚屋が身銭切って仕入れたもんだ。それを労せず手に入れようたあ、ずいぶんふてえ野郎だ」
佐助が鋭くにらみつけると、男は魚を佐助に押し付けて、いずこかへ去っていった。
途端、わあっと場が盛り上がる。まるで祭りのようだ。
「ええぞお、兄ちゃん」
「よっ、伊達男!」
ぴゅうぴゅうと口笛が鳴り、拍手喝采の中を悠々と歩いて、佐助は魚屋に魚を返した。
「すまんなあ、兄ちゃん。高い魚やったで、助かったわ」
「いえ、このくらい、大したことじゃあありませんよ」
「これ持ってって! 大したもんやなくて申し訳ないけど」
魚屋の女将らしき人が、奥からざるにイワシを大量に盛って出てきた。
「そんな、申し訳ないです」
佐助が断ろうとするが、女将も引かない。
困って周りを見渡すと、お長と視線が合った。これ幸いと、押し付けられたイワシを持って近づく。
「お長さん、よかったらこれ、もらってくれませんか?」
「え?」
お長は面喰った。自分はただ見ていただけなのに、返礼の品を受け取る意味が分からない。
「ほら、うちは二人だし、こんなに食いきれないんですよ。イワシだから余ったら一夜干しにでもすれば次の日も食べられますし」
ね、とざるを押し付けられる。佐助の笑顔にも押されて思わず受け取ってしまった。
「じゃあ、俺はこれで」
片手をあげてすれ違うと、佐助はまた売り歩きに戻ってしまった。
「知り合いか?」
琥太郎が問うてくる。何だか声が面白くなさそうに聞こえる。
「ええ、まあ」
お長は曖昧に返す。
久しぶりに佐助と声を交わしたのと、渡されたイワシと、なんだかよくわからない嬉しさとで頭がごちゃごちゃだ。
「……今日はもう暗い。送っていこう」
琥太郎が踵を返した。お長も慌ててその後を追う。
(ああ、こんなにも)
今日半日を共にして、琥太郎は気づいた。
(私は、これほどまでに、お長殿に惚れている)
少し後ろをとことことついてくるお長に視線だけ送りながら、琥太郎は思う。
女に馴染みの男がいる、と知っただけで、こんなにも妬いたことはない。
それに、知り合いか、と聞いた時のお長の恥じらうような笑みが、あまりにも羨ましかった。
(必ず、手に入れてみせる)
前を向き、琥太郎はそう固く決心した。
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