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第六章
朝がやってきた。
お長は布団を片付け、朝餉の支度をする。
「ふあ……おはようさん」
少し遅れて平吉が降りてきた。
「おはよう、お父ちゃん。もうちょっとで朝ごはんやで」
顔を洗いに井戸へと歩いていく平吉を見送りながら、味噌汁に刻んだネギを入れる。
「お、イワシの一夜干しか。ええなあ」
運ばれてきた膳を見ながら、平吉が言った。
「ようけあるから、たくさん食べてね」
早速イワシにかじりつこうとした平吉が、ふいに顔を上げた。
「そういやお前よう、何やら色男なお武家様と仲良うなったらしいやないか」
「え?」
そういわれてこの頃仲良くなったお武家様と言えば、琥太郎のことかと思い当たる。
「仲がええて……街案内してちょっと喋っただけやないの」
事実、琥太郎との間に色事は何もない。店と客。その一線を越えた覚えはなかった。
「昨日隣の蛤屋が二人で仲良う蛤を分け合ったり甘酒屋で楽しそうに喋っとったって言うとったらしいんよ」
「お父ちゃん、最近頭おかしなったん? お武家様に雑に接する女町民がどこにおるねん」
平吉の言葉に突っ込みながら、自分も膳の前に座り、箸をとる。
「佐助さんのことと言い、何でもかんでも色事や言うのは、お父ちゃんの悪い癖やで」
「俺やないで。お末が言うとった」
「お父ちゃんでもお母ちゃんでも変わらへんわ」
「まったくもう」とお長は唇を尖らせる。
「すまんすまん。将来お前が一緒になる相手のことを思うお年頃なんやと思うて耐えてくれ」
「毎回そんなんばっかりじゃあ、耐えられません」
ツンと横を向いてすねると、「すまんて」と手を合わせてくる。
「でもあのお武家さん、いっつもすました顔しとって、ちょっと苦手やわ」
お長がそう言うと、お末が口をはさんできた。
「でもお武家の人らしくて、格好ええやないの。お母ちゃんは好きやで、ああいう男」
「それはお母ちゃんの好みやんか。一緒にせんといて」
そう言いつつ、平吉と琥太郎は全然似ていないような、と思うお長であった。
数日後の昼過ぎ、琥太郎はみつる屋にやってきた。
落ち着いた表情はいつも通りだが、お長には今日は少し浮足立っているように思えた。
長年培ってきた観察眼は伊達ではない。
「何かええことでもありました?」
お長が問うた。
「いや、そういうわけではないが」
いつも冷静沈着な琥太郎が、少し照れている。そんなところが何だか可愛らしい。
「今日の夜、石取祭でしょう」
それを聞いて、ああ、と今更ながら思い出す。
石取祭とは桑名宗社の夏の祭りである。
謂れは石占説、社地修理説、流鏑馬の馬場修理説といろいろあるが、要するに町屋川で拾われる石を桑名宗社に奉納する行事だ。たくさんの祭車が町中を練り歩く様は豪華絢爛で、見る人を楽しませる。
そういえば昨日今日と太鼓の音が響いていたので、今日が本番、本楽の日だ。
そろそろ祭車が練り歩きを始める頃だろう。
「その、良ければ見に行けないだろうか。一緒に」
まっすぐにお長を見て、琥太郎が提案した。
「えっ……」
お長は動揺した。生まれてこの方、両親以外と祭りに行ったことなんてないのだ。ましてや、少しとはいえ苦手意識のある琥太郎と一緒など。
「お気持ちはありがたいですけど……うち、仕事がありますんで」
まともに琥太郎の顔を見れず、少し顔を背けて言った。
ちらりと両親を見やる。お長を援護してくれることを期待して。
「せっかくだし、行っておいでよ。店のことはええからさ」
お末は送り出す気満々だ。
頼みの綱の平吉を見る。
「まあ、こんな日は屋台に人が流れちまうだろうし、どうせ暇になるだろうから行ってこい」
駄目だった。平吉も祭りに行くことに賛成の立場のようだ。
「……私と共に行くのは、やはり駄目だろうか」
琥太郎は少し首を傾げ、切なそうにうっすらと笑みを浮かべている。
う、と言葉に詰まる。そんな顔をされたら、無碍にしたほうが悪者ではないか。
「……わかりました。うちなんかでよければ、行きます」
とうとうお長は承諾した。
途端、琥太郎が今まで見たこともないほど笑顔になった。うっすらとした笑みだったが、先ほどとは打って変わって、喜色が浮かんでいる。
「では、出発するとしよう。もう始まってしまう」
無邪気に琥太郎がお長の手を取る。
「あっ……」
反射的に手を引っ込めそうになったが、力強い琥太郎はそれを逃がさなかった。
早く早く、と子供のように手を引く琥太郎が、なんだか愛らしかった。
祭車が通る街道へ進む。
到着すると同時に、先頭を行く花車が目の前を横切っていった。
観客たちが沸き上がっている。
華やかな祭車が次から次へと通り過ぎていく。
「きれいやな……」
誰にともなくつぶやくと、
「そうだな」
と返事があった。夕焼けに照らされる琥太郎の横顔がどこか浮かれていて、お長には子供のように思われた。
(何や、可愛らしいところもあるんやな)
流れていく祭車たちを見ているのは、存外楽しかった。琥太郎の意外な一面も見ることができた。
(こういうご縁の日もあるんやな)
そう思って、視線を前へ戻した時だった。
グイっと腕をつかまれて群衆の中に連れ込まれた。
(え?)
突然のことに、とっさに声が出ない。
「……嫌っ、離して!」
やっと声が出た時には、群衆から連れ出された時だった。
見知らぬ男がお長の腕をつかんでいる。男は振り返ることもなく、ずんずんと突き進んでいく。
お長の必死の抵抗もむなしく、薄暗い路地に連れ込まれてしまった。
乱暴に奥に放り込まれて、体を強かに垣根にぶつけた。
「痛っ……」
体中が痛い。特に腕を強くぶつけたらしい。ジンジンとしびれる感覚がする。
お長が顔を上げると、やはり見慣れない男たちがお長を取り囲んでいた。皆一様に下卑た笑いを浮かべている。
「な、何なん、あんたたち」
後ずさりしながら、問うた。
「俺たちが誰かなんて、どうでもいいだろ」
「おうおう、なかなかの上玉を捕まえてきたじゃねえか」
「だろう?ここらじゃちょっと名の通った女だぜ」
ひひっと気味の悪い笑いが誰かの口から洩れた。
(あかん、逃げやな)
そう思って周りを見渡すが三方を壁に囲まれていて、唯一の道は男たちにふさがれている。
どう逃げようか思案していると、ゆっくりと男の一人が汚らしい布切れを持って近づいてきた。
「嫌―!誰かっ……むぐ」
助けを呼ぼうと叫んだとき、布を口に当てられ、そのまま噛まされて縛られてしまった。
「んん、んー!」
なおも必死で叫ぶが、全く声が出ない。
「安心しな。みんな祭りに夢中だ。誰も助けなんて来ねえよ」
一人がそう言った。絶望で涙がこぼれた。
何本もの腕が、お長に向かって伸びてくる。
逃げられないよう足を押さえつけられ、着物の袷を寛げられる寸前。
ドガッと鈍い音がして、男の一人が倒れこんだ。
「な、何だてめえ……ぐあっ」
続けざまにもう一人、一撃で沈んだ。
涙でにじんだ視界には、ぼんやりとだが、確かに琥太郎の姿が浮かび上がっていた。急いで走ったのか、若干息が乱れている。
「その娘に指一本でも触れてみろ。この松平家近習見習い桐野琥太郎、容赦はせぬぞ」
「松平の近習だと? なめやがって!」
琥太郎は刀を霞に構える。男たちも各々刀を抜くと、臨戦態勢に入った。
両者見合う。次の瞬間琥太郎が動いた。
刀を、お長の襟をつかんでいた男に向けて突く。すんでのところで防がれたが、はじかれた刀をそのままの角度から振り下ろす。男の首にあたる寸前で刃を返し、男を昏倒させるに留める。
途端、それまで悠然と刀を構えていた男たちが急にへっぴり腰になる。ゆらりとお長を庇うように立ちふさがる琥太郎の怒気に完全に戦意を失っていた。
「引け、引けえ!」
誰ともなく叫び、残った男たちは去っていった。
後にはお長と琥太郎が残された。
「お長!」
未だ腰を抜かして立てずに震えているお長に、琥太郎は自分の羽織をそっと着せる。
「少し、休まねば」
琥太郎はお長を軽々と抱き上げると、急ぎ足でその場を去った。
桑名宗社に着いたのはすでに夕刻だった。
方々を回っていた祭車が集結し、いよいよ本番の渡祭が始まる。
華やかな表にいる人の目につかぬよう、大きく回り道をして神社の裏に出る。人がいないことを確認してお長を下ろすと、琥太郎は少し離れたところで明後日の方向を向いた。
お長は琥太郎と反対方向を向き、急いで着物を整える。
「もう大丈夫です」
お長が声をかけると、恐る恐る琥太郎が振り向いた。
「立てそうか」と琥太郎が問うので、「ええ」と何とか答えた。
おぼつかないながらも、お長はゆっくりと立ち上がる。歩ける程度には回復したようだ。
「あの」
支えてくれる琥太郎を見上げて、お長は言う。
「さっき、松平家近習見習いって……」
近習と言えば、城主のそば仕えをする重鎮である。下級武士の格好をしたこの男が、まさかそんな。
「ああ、覚えていらっしゃったか」
琥太郎はため息をついて言った。
「ええ、私は身分を偽ってみつる屋に出入りしていた。『市井視察のため』などと言い訳までして」
困ったような顔をして、琥太郎はお長を見た。
「本当の身分はさっき言ったとおり。まだ父の跡を継ぐ前なので見習い扱いだが」
「そんな、どうしてそんなお方が、みつる屋なんかに」
お長は混乱していた。やんごとなき身分の男がどうして下町の茶店などに足しげく通っているのか。
琥太郎は少しの間逡巡した後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「最初は、面白い女だと思った。喧嘩に割り込まれたことも、あなた自身も、悪くないと思う自分が不思議でならなかった。それを確かめようと、街案内を頼んだ」
そこで、一呼吸置く。
「街案内は、楽しかった。初めての買い食いも、今まで気にも留めなかった小さなことを知ることも、新しい店を案内するあなたの笑顔も。……それで、あなたをもっと知りたいと思った。独り占めしてしまいたいと、強く願った。あなたとの時間が欲しくて、今まで気にもしなかった祭りにも誘って」
お長はだんだん自分の顔が赤くなっていくことを自覚している。こんなにもまっすぐに、一点の曇りもなく好意を伝えられたのは初めてだった。
「でも、その矢先にあんなことが起こって、あなたを守り切れなかった自分が腹立たしくて仕方がなかった」
だんだんと速くなっていく琥太郎の口調に比例するように、心拍数も跳ね上がっていく。この先にどんな言葉が待っているのか。なんとなくわかってしまうほどには、自分は子供ではなかった。
「お長……いや、お長殿」
琥太郎に、抱きしめられた。
すがるように、離したくないと言外に伝えんとするように、力強く。
「私は、あなたに、惚れてしまった」
お長はかあっと体中に火が付いたように、全身が熱くなった。
お長の心臓が陸に揚げられた魚のようにバタバタと飛び跳ねているようだ。
「こんな短い期間で何を、と思うのかもしれないが、確かに私はあなたを想っている」
琥太郎のいつも落ち着いた声が、少し震えている。
「一緒になってくれないか」
遠くの松明の明かりが、琥太郎の顔を少し照らしている。
真剣な眼差しだった。黒くて力強い瞳がお長をしかと見据えている。
「あの男にだけは渡したくない。明日をも知れぬ身などに、あなたをやってしまいたくない」
あの男とは誰だろう。聞こうとしても、声が出てこなかった。
と、琥太郎が名残惜しそうにお長を離した。
「あのような忌まわしいことがあった後でこのようなことを言われて、困っているのだろう。……返事は急がない。また、いずれ」
琥太郎はお長の手を引いて、境内の方に回る。華やかに太鼓の音が響く。
お長も手を引かれるままに続いた。
見送る視線に気づかないまま。
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