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序章
「へい、らっしゃいらっしゃい!」
「チョイとお兄さん、寄っとくれ」
威勢のいい掛け声が四方八方から聞こえる。
ここは伊勢国の入り口、東海道の二番目の規模をほこる宿場町・桑名宿。
時刻はつい先ほど鐘が午の刻を知らせたばかり。太陽は中天に上り燦燦と輝いている。
通りには新鮮な魚をザルいっぱいに積んだ振り売りやお伊勢参りの旅人、呼び込みや小役人の武士たちがやいやいとごった返している。
その中でひときわ通りの良い、鈴を転がすような愛らしい声が群衆の中から聞こえる。
「商人様も、旅人様も。一息お茶でもいかがですか?」
それは一軒の茶屋であった。看板には「みつる屋」の文字。「お休み処」ののぼりもあがっている。
声の主は、年若い娘であった。春らしい薄桃の着物に身を包み、帯に手ぬぐいを下げ、前掛けを付けた姿は、まさに可憐な花であった。
「おう、お長ちゃん。精が出るなあ」
お長、と呼ばれたその娘が振り返る。立っていたのは精悍な顔つきの男だった。天秤棒に醤油瓶をぶら下げて陽気に手を振っている。
「勘吉さん、どうも。今日はどこまで?」
「お城の周りをぐるっと回ってくるつもりやね」
城、とは桑名藩を統治する松平の城だ。
「それは大変やねえ。きいつけてな」
お長が袖を抑えて可愛らしく笑顔で手を振ると、勘吉の顔もほころび、うれしそうに手をあげて天秤を担ぎ上げて行ってしまった。
「お長さん、注文良いかね」
「はーい、お待たせしました」
彼女に注文を取られる客たちは皆、彼女の伊勢訛りの小鳥のような声に聞きほれる。そうしてついつい、何度も注文してしまうのであった。
今は丁度稼ぎ時の時間だ。参拝客から下級武士たちまで、ひっきりなしにこのみつる屋の暖簾をくぐり、座れる場所にぎゅうぎゅう詰めに座って、お長を呼びつける。
お長は客たちの間を行ったり来たりしながら仕事をこなす。その姿目当てに続々と人が集まるものだから、みつる屋は大変な盛況なのであった。
時刻は申の刻を少し過ぎた頃。
ようやく客足が落ち着き、お長もふう、と息をつく。
「おう、お長」
店の奥から店主を務める父平吉が顔を出した。
「ちょっとひとっ走り、菓子の仕入れに行ってきてくれんか。ちょうど二人とも手がふさがっちまってよう」
お長が母お末を見やると、常連客たちと話し込み中であった。
「ええよ、うち今手え開いとるし」
「すまねえなあ」
平吉は紙切れを一枚渡して来た。
この店では近所の和菓子屋の「招福堂」から菓子類を仕入れている。みつる屋用に独自開発した特注の菓子だ。評判の大福は店の看板商品でもある。
その大福が先程売り切れてしまったらしい。急いで調達しなければ。
お長が店の暖簾を出た途端、見知った顔がこちらに近づいて来るのに気が付いた。
「よっ、やってるねえ」
「淳平さん、ご無沙汰しとります」
やってきたのはよくみつる屋にアジを売りに来る振り売りの淳平だ。いつも一人で休みに来るのだが、今日は見慣れない男を一人連れている。まだ若い男だ。お長と似たような年かもしれない。きっちりと結った頭に、少し細面な顔立ちをした商人のようだ。
「あの、そちらの方は……?」
不思議に思ってお長が問うと、淳平が「おい」と男の肩を叩いて前に進みださせた。
「こいつは佐助言いまして、わしの甥っ子です」
「どうも」と佐助と呼ばれた男がほんわりと笑った。つられてお長も会釈する。
「いろいろあって江戸からここまで移ってきたんですわ。今後わしと暮らすことになりまして、またここでお世話になるかと思って連れてきたんですわ」
「まあ、遠路はるばる。えらかったですねえ」
「偉かった?」
佐助が首を傾げた。
「ここらへんじゃあ、『大変だった・疲れた』ことをえらいっていうんや。覚えとき」
「は、はい」
佐助はまだいろいろと不慣れな様子だ。無理もない。ここはお伊勢参りの玄関口。東と西の境目。宮宿から七里の渡しを越えれば、言葉も別世界のように違う。
「とりあえず、お茶と団子を二人分頼むわ」
「はい、ありがとうございます」
お長が代金を受け取ると、二人はそろって外の腰掛に腰を下ろした。
―――なんやろう、今の。
お長はぎゅっと胸元を握った。
佐助に微笑まれた瞬間、どきりと心臓が大きく鳴った様な気がしたのだ。
頭を振って無理矢理思考を頭から追い出すと、お盆に茶と団子の皿を載せて二人のもとに駆け寄った。
「そういえば、今日来た客のよう、佐助いうたか?」
その日の夜。
夕餉の大根の田楽を口に運びながら平吉が思い出したように言った。
突然名前を出されて、お長は菜の花の和え物をのどに詰まらせてしまった。
「大丈夫かい長子」
お末がお茶を差し出してきた。
「大丈夫……。それで、佐助さんがなんて?」
「ありゃあ、たいそうな美丈夫だよ。淳平さん所のアジも飛ぶように売れるに違いねえ」
そこでお長の方に少し体を傾けて、続けた。
「江戸から出てきたって話だが、お長、あんな色男だからって引っかかるんやないぞ」
「な、何言うとるのお父ちゃん。そんなことあらへんわ」
答えながら昼間の胸の高鳴りを思い出す。あれはきっと佐助の顔の良さに惹かれたものだ、そうに違いない、と頭の中から無理矢理追い出す。
「まあ、お長ぐらいの器量良しなら、あんな男、へでもねえな」
悪かった悪かったと、平吉が引き下がった。
「もう、お父ちゃんたらすぐそんなこと言う……」
お長が呆れたように言うと、平吉もウーンと唸った。
「そうはいってもなあ、今年でお前も十九やろう?そういう年頃になったんやから、嫌でも親は考えてまうもんやで」
それはそうかもしれない。だが、それと口に出すことは別問題だ。
「とにかく、うちが佐助さんとどうこうなるなんてあらへんし、お父ちゃんはちゃんと仕事に集中して」
こりゃ一杯食わされた、と平吉は笑った。
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