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幽燈
深い霧の中、闇に閉じ込められた青年は、独り何千年と彷徨っていた。そうなった理由は、誰かに呪われたからでは無い。
――ただ、生前の彼が自ら、呪われた身になっただけだった。
陽の落ちかけた時刻、彼は満足に言うことを聞かない身体をざらりと揺らした。そうして、あの季節が来たことを何となく感じ取る。頭上の木立を仰ぎ、少しの高揚感に浮足立った。
やがて黄昏時が近付いた空気に香気が漂い、彼は衣服をまさぐった。
腐った腕が何処からともなくグラスを取り出し、掲げたそこへ虚空から酒が注がれていく。静まり返った墓場にとくとくと音が響き、艷やかな輝きが満ちた。
手に入れた甘い緑色のカクテルを、舐めるように一口飲んだ。爛れた喉に冷たい液体が染み渡る。
1年振りの酒を彼はじっくりと味わった。ややグロテスクな色味とは裏腹に、爽やかな香りが鼻腔を擽る。幾度となく飲んだ酒だが、やはり変わらず美味いものだった。
彼が感傷に浸る間に、禍々しく雲を染める夕陽は、徐々に街並みを燈と赤紫に変えていった。
――日没と共に、彼の姿は完全なものへと変化する。
まさに幽鬼という削げた頬には生気が戻り、破れた皮膚も瑞々しく蘇る。燈色に照らされる襤褸切れのような服は、仕立ての良いマントに形を変えた。背中からは大きな翼がばさりと拡がる。
年に一度、この日だけは彼は自由だった。霧のように軽い身体で、人里へ降りていくのだ。
肩にこびりついた影が耳障りに嗤う。
「お前と契約してから、何年経ったろうな」「さあな、そんなの覚えちゃいねえ」
せせら笑う足元で、いつしか紅蓮と黄金に色を変えたテランセラが夕闇の中輝いていた。これも、彼が幾度となく踏みつけにしてきた花だ。
あらゆる魂が喜び尊ぶ一夜だが、罪人の彼に還る場所は無い。人としての生はとうの昔に捨てている。
灯りの揺らめく家々の隙間、粛々と雑踏に紛れる彼に、影は無遠慮に囁いた。
「最近は大人しくなったな」
「はっ、俺でも多少は反省してるんだよ」
「お前がか?」
「飽きるほど退屈を貪りゃ魂も変わるさ」
手には燈色に揺らめくランタン。
背には漆黒の翼。
行くあての無い彼は独り夜闇を練り歩く。霞む人影や奇抜な怪物に紛れ、誰も彼には気付かない。
悪行の限りを尽くした彼でも、孤独さに選択を悔いたこともある。それほど、悠久の時は残酷だった。
契約相手の悪魔も、まともに姿を見せ会話ができるのは空気が魔力を孕む今夜だけだ。
かつては悪魔さえも欺いて、気の向くままに生きていた。そんな彼には家族も友人も居た記憶が無い。
彼はそれで良いと思っていた。だからこそ呪いも意気揚々と受け入れたのだ。
だが、永遠を往く魂は退屈だった。最早彼に、この夜以外の気晴らしは無くなっていた。
時間は飛ぶように過ぎていった。
足早に森へ戻る彼の背後、時計塔が零時を知らせ、一夜限りの魔法が解ける。
与えられた束の間の自由は呆気なく終わりを告げた。彼は朽ちかけた身体に戻り、燈色のランタンを抱えて不自由なまま世界を彷徨い続ける。
――1年後、グラスに次の酒が注がれるその日まで。
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