馬になった人魚姫

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 海には海馬(ヒッポカムポス)という、魚と馬が混ざった生き物がいる。  川には川棲馬(ケルピー)、湖には湖棲馬(エッヘ・ウーシュカ)なんてのもいるらしいが、私は海生まれの海育ちなので実物は見たことがない。  何にせよ小さい頃の私は、その海馬というやつが苦手だった。  噛まれたとか、追い掛けられたとか、何かトラウマになるような事件があった訳ではない。単に見た目が苦手だったのだろう。  海馬は苦手だが、普通の魚には嫌悪感もない。  だから私は、馬という見たこともない地上の生き物が、この不気味な生物を不気味たらしめる元凶なのだと思っていた。 「お姫さま。これ、地上のご本だそうですよ。一緒に読みましょう」  そう言って、ハリセンボン子が一冊の絵本を持ってきたあの日までは。 「何これ。かわいいね」 「地上のお馬さんですって」 「えっ、これが馬?」  つぶらな瞳。艶やかで滑らかな毛並み。ふさふさの尾。  衝撃であった。  馬とは、こんなに愛らしいものなのか。海馬とは全然違うではないか。地上はずるい。どうして海には海馬しかいないのか。  そう思った。  絵本の中の馬は、大変賢く、人によく懐き、飼い主の人と深い信頼によって結ばれていた。  種族の異なる人と馬とが、互いに思い合い、助け合う姿に憧れた。  もちろん、絵本なので愛らしくデフォルメされた絵ではあった。  しかし、後日にボン子が持ってきた地上生物図鑑の、リアルな細密画の馬も、優美で、凛々しく、力強く、私の心を虜にした。 「そう。元はといえばボン子が原因なんだよ、私の馬への憧れは」 「その絵本、確かにうちの本棚にはあったんですけど、あまり覚えてないんですよねぇ……」 「私が長いこと借りっぱなしだったからね。図鑑も。その節はありがとう」 「どういたしまして」  半端に頬を膨らませた何とも言えない顔で、ボン子は気のない礼を言う。  どうやら、私の決意を翻す努力は放棄したらしい。先程までなら、ここで幼少期の自分が私に絵本を貸したことを後悔するパフォーマンスくらいは見せただろうが、最早完全に諦めている。良いことだ。 「さて……そういう訳で、今から薬局に馬化薬を受け取りに行ってくる」 「はいはい、行ってらっしゃい。私も出掛けますので、ここで失礼いたします」 「そうなの? 忙しいとこ悪かったね。ボン子も行ってらっしゃい」  すいすいと去っていくボン子を見送り、私も王宮最寄りの薬局を目指して泳ぎ出した。  馬化薬も最寄りの薬局に頼んでいるのだから、私が急にいなくなってもすぐに誰かに報告が入るだろう。ボン子が心配していた誘拐騒ぎなんて起きるはずもなく、「ああ、あいつは馬になったんだな」としか思われないだろうに。  いや、薬剤師にも注文した馬化薬を何に使うかなんて話はしていないので、ひょっとしたら私が自分で飲むとは思われていない可能性も無くはないが……こんな劇薬を、用途の確認もなく売っていいのか?  王族に立法権はないけれど、知人の議員へ薬事法の改正を提案しておけば良かった。今更だが。 「すいません。お願いしていた薬の受け取りに来ました。えーっと……あった、これ注文書です」 「イーッヒッヒッヒッ……確認いたします。はい、馬化薬ですね。代金は前払いでいただいておりますので、注文書と引き換えのお渡しとなります」 「ありがとうございますー」  清潔感のある黒ローブを着た薬剤師と短いやり取りを交わし、私は念願の馬化薬を手に入れた。  家族へのお別れは置き手紙で済ませたし、ボン子には直接伝えもした。  馬になるのに荷物も着替えも不要なので、このまま地上に向かうとしよう。  水圧の変化により浮き袋が破裂しない程度のペースで、のんびりと海面に近付いていく。水深十メートルほどの深さで平行移動に切り替えて、一番近い大陸の方角へ。  それらしい砂地が見えたので、傾斜に沿って海面に近付き、打ち上げられるように浜辺へ上がった。  大気中に顔を出す前に鰓呼吸から肺呼吸に切り替え、プヒューと水を吹き出す。 「うぅ、首が重い……声が変な風に聞こえる……。早く薬飲まないと」  ゴロンと仰向けに転がり、薬局の袋から手探りで馬化薬の錠剤を取り出す。  封を切ってから、数秒か、数分か躊躇って。  口に放り込み、水無しで無理やり飲み下した。  そこから先は、気を失ったので覚えていない。
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