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第三話「飛び降り少女(1)」
靴を脱いで揃えて、重しとして石を上に置いた遺書の隣に置いた後、フェンスを攀じ登って、後は飛び降りるだけ。
そんな、思い詰めた様子の美少女の脳裏を過ぎるのは、今までの地獄のような日々だ。
大きな茶色い瞳と桜色の唇が印象的な、美しい顔立ちをした彼女の名前は、西枇杷島 紗優。
紗優は、生まれつき、バニラのような甘い体臭がした。
小さい頃は、別に気にしていなかった。
だが、中学生になると。
周りの生徒たちから、
「あの子は、香水を付けて来る」
と、言われ出した。
香水をつけるのは、校則違反だった。
紗優は、生徒指導室に呼ばれて、生徒指導担当の教師から注意を受けた。
が、生来の体臭を消せと言われても、彼女自身、どうしようもない事だ。
理由を何度も繰り返し話すと、半信半疑だった教師は、漸く分かってくれた。
だが、生徒たちは、そうは行かなかった。
「そんな事あるわけないでしょ!」
「つくなら、もっとまともな嘘つきなさいよ!」
そして、陰口を言われるようになった。
「あの子だけ、香水をつけても、咎められない」
「男の先生に媚を売ってる。そのせいで、特別扱いされて、叱られないんだ」
「毎日つけてくる。男を誘ってるんだ」
心無い言葉に、紗優は傷ついた。
しかし。
それはまだ序の口だった。
ある日。
紗優は、クラス内カースト最上位の女子に目を付けられた。
「あんた、調子乗ってるわね」
「わ、私はそんなつもりは……」
「口答えしてんじゃないわよ!」
何とか、一日でも早く、こんな日々が終わるように。
そう祈っていた紗優だったが。
その後。
事態は、一気に悪化した。
カースト最上位の女子の彼氏が、紗優の事を好きになってしまったのだ。
「西枇杷島さんって、すごい可愛いし、めっちゃ良い匂いするよな!」
と、男友達と話しているのを聞いた時から、カースト最上位の女子は、嫌な予感がしていた。
だが、まさか、彼氏が本気で紗優の事を好きになるとは思っていなかった。
そして、彼氏は、カースト最上位の女子と別れて、紗優に告白した。
紗優は、別に好きではなかったため、振った。
もし仮に好きだったとしても、元カノが元カノなので、付き合う事は無かったであろうが。
自分が彼氏に振られた事、その彼が告白したのに紗優が振った事、全て気に食わなかったカースト最上位の女子は――
「あんた、他人の男を誑かして、何様のつもり? このビッチが!」
――紗優を苛めた。
取り巻きを引き連れて行われたその苛めは、酷いものだった。
教科書・ノート・参考書に、大量の落書きをする。
机・椅子に落書きをする。
下駄箱の上履きに、数多の画鋲を貼り付ける。
教室や廊下で、わざとぶつかる。
トイレで、頬を平手打ちし、突き飛ばして床に転がし、バケツやホースで全身に水を掛ける。
SNSのグループメッセージで、寄って集って罵詈雑言を浴びせる。
紗優が、グループメッセージのグループから退出すると、今度は、他のSNSを使い、ネット上で誹謗中傷を行う。
「クソビッチ」
「阿婆擦れ」
「ウザイ」
「消えろ」
「死ね」
日常的に繰り返される苛めに対して、クラスメイトたちも、教師たちも、誰も助けてくれなかった。
クラスメイトたちは、もし庇えば自分たちが標的にされるかもしれないと思い、見て見ぬ振りをしていた。更に、「あんたもそう思うだろ?」などと、カースト最上位の女子に言われると、「……うん。そうだね……」と、同意せざるを得なかった。「あんたもやりなよ」と言われ、一緒になって紗優の教科書に落書きをする子もいれば、トイレで水を掛ける子もいた。
そんな日々が続き。
紗優の心は、もう限界だった。
精神的に不安定になり、夏の間も長袖を着続けたその左腕の服の下には、常に包帯が巻かれていた。筆舌に尽くし難いストレスを抱えて、自傷行為を何度も繰り返していたのだ。
その行為から自殺未遂と見做されがちなリストカットだが、リスカを行う者の多くは、自殺したいからしているのではなく、何とか生き延びる手段として行っている。手首のみならず前腕全体に及ぶこともあるリスカだが、自分を傷付ける事で、ストレスが軽減されるのだ。
だが。
中には、リスカを繰り返した挙句、本当に自殺してしまう者もいる。
リストカットは、生きるための手段であるため、目撃したとしても、何もせずに放っておいて大丈夫だ、等と軽く考えては危険だ。そもそも、自傷行為を行っている時点で、そのような行為を行わなければ生きていけないような、精神的に追い詰められた状態であるのだから(但し、目撃した際に過剰な反応をするのは、それはそれで逆効果ではあるが)。
リスカをして生き延びる者と、本当に自殺してしまう者。
紗優は、後者だった。自殺する事を選んだのだ。
――否、〝いつまで経っても、ストレスの原因である苛めが無くならないために、後者になってしまった〟、と言う方が正確だろう。
ビルの屋上にあるフェンスの外側で、眼下を見下ろし、震えながら紗優は、
「これで……あの子たちも道連れだ……! ……ざまぁみろ……!」
と呟き、暗い笑みを浮かべる。
数年前に法律が変わり、〝苛めによって自殺した者がいた場合、苛めていた者は、間接的に殺した、という事で、殺人罪に問われ、死刑になる〟、とされているのだ。
だが――
「………………」
――新法施行後、苛めによって自殺した者は何人か出たが、裁判が行われても、実際に苛めていた生徒が死刑になった事は、今まで一度もない。
無期懲役――どころか、有期刑、それも、最も長くて数年の懲役のみだ。
短ければ、収監されるのは数か月のみで、また直ぐに出所して来る事もある。
紗優は、心の中で、
分かってる……こんな事したって、あの子たちは、死刑になんてならない……
と思った。
「あたしは、無駄死にだ……」
涙が頬を伝う。
しかし、この地獄から抜け出すためには、自殺するしかないのだ。
ふと、思う。
もし……私が、香水みたいな匂いがする特異体質じゃなかったら……私の人生は、少しは違ったかな……?
と。
だが、直ぐに、
でも……そんな事妄想したって、現実は変わらない……
と、自己完結する。
そして。
もう、疲れた……もう、無理……
早く、楽になりたい……
お父さん、お母さん、ごめんなさい……
と、紗優が、意を決して、虚空へと踏み出そうとした瞬間――
「自殺するのか?」
「!」
――突如、横から声が聞こえて、思わず紗優は、足を引っ込めた。
見ると、先程まで誰もいなかったはずの、フェンスのこちら側――外側の、紗優から数メートル離れた場所に、いつの間にか見知らぬ少年が現れ、佇んでいた。
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