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中編
次の日。
その日は朝から快晴で、昨日のどんよりとした天気が嘘のようであった。
エリンはというと、今日も今日とてロイドの家に来ていた。
昨日家に帰ってから、母親にロイドの家で雨宿りさせてもらったことを話すと、お礼を渡すように言われたのである。お礼は母お手製の林檎のケーキだ。「リリーは昔からこれが好きだから」と母が言っていた。ちなみにリリーはロイドの母親の名前だ。
「ごめんねエリンちゃん、気を遣わせちゃって。ありがとうね」
「いえ、お陰で昨日はずぶ濡れにならずに済みましたから! こちらこそありがとうございました!」
「ふふ、どういたしまして! それにしてもこのケーキ、いつ食べても美味しいわぁ」
「このクッキーも美味しいです」
そして現在、ロイド家の居間でエリンは昨日食べ損ねたクッキーを、リリーは林檎のケーキを食べていた。お礼を渡しに来たのにご馳走になっていいのだろうかと思ったが、是非にと言われたのでお言葉に甘えさせてもらったのである。
サクサクと小気味好い音を立ててクッキーを味わいながら、エリンはふと口を開いた。
「そういえば、ロイドの具合はどうですか?」
「ロイドの具合? 何のこと?」
「昨日会った時、具合悪そうにしてたので」
「あらそうなの? 夕飯の時はいつも通りだったけど……」
ロイドの母親が不思議そうに首をひねる。エリンの思い過ごしだったのだろうか。
「夜更かししてまた部屋で何かしてたみたいだけど、今日は休みだし多分まだ寝てるんじゃないかしら」
「そうなんですか?」
エリンは思わず掛け時計を見た。短針は九と十の間を指している。もう早起きとは言い難い時間だ。
ロイドの母親はやれやれといった様子で紅茶を飲んでいる。休日にロイドがこの時間まで寝ているのは日常茶飯事なのだろう。ちなみにエリンの家では休日だろうと何だろうと朝六時には目覚ましに叩き起こされる。
(確かに言われてみるとロイドは朝が弱かったような)
なんて事をエリンはクッキーを齧りながら思う。
紅茶をひと口ふた口飲んだところで、俄かに下腹部にじわじわとした感覚が起こった。
「……あの、お手洗い借りてもいいですか?」
「ええどうぞ」
にこりと感じの良い笑顔に促され、エリンは席を立つ。場所は言われなくても分かる。子供の頃の記憶を舐めてはいけない。
突き当たりを行って右奥、ロイドの部屋の斜め向かいである。
居間を後にしてエリンは手洗い場に向かった。
◇
——パタン
用を済ませて手洗い場を後にする。
廊下に出たエリンは斜め向かいの部屋を何気なく見た。ロイドの部屋である。
……もしかしたら起きているかもしれない。
そんな淡い期待を抱いたエリンは部屋の扉に近づき、三回ノックした。だが、もちろん返事はない。
(…………)
魔が差した、と言えばいいのだろうか。その時エリンは何だか無性にそこに入りたくなってしまった。
ゆっくりとノブを回すと、カチャリと可愛らしい音を立てて扉が開いた。
どうしようもない好奇心に負けてしまって、エリンは中を覗き込む。
(わ……全然変わってない)
ロイドの部屋には何度も来たことはある。
あまり役目を果たしていない本棚も、少しごちゃごちゃした画材が入った棚も、絵の具がついた机も、エリンの記憶通りだ。
それから視線を右に滑らせて、部屋の端に追いやられるように置かれているベッドの上を見る。膨らんだ上掛けの端から、骨ばった片足がひょっこり顔をのぞかせていた。
極力足音を立てないようにしながら、そっとエリンはその膨らみに近づいた。
(おお……まつ毛が長い……)
長い前髪が横に流れ、閉じられた目元があらわになっている。ロイドはまだ夢の中のようで、規則正しく胸が上下していた。
エリンは試しにゆさゆさと軽く肩を揺すってみる。
「……おーいロイドー、朝だよー」
「…………」
「起きてー」
「……ん」
「あ、起きた?」
ロイドの目が薄く開く。それからもう一度、ゆっくりと閉じる。
「いやいやいや、寝ないでロイド」
「んん……」
今度はロイドの眉根が不愉快そうに寄せられる。
どうやら邪険に思われているようだ。鼻でもつまんでやろうかとエリンが思った瞬間、グイッと腕が引っ張られた。
「うわっ!」
特に踏ん張ってもいなかったエリンの上半身がぐらりと傾く。咄嗟にロイドの枕元に手をついたが、エリンの上半身はベッドに倒れこむような形になってしまった。
思わず堅く目を瞑ってしまったエリンは恐る恐る目を開く。存外近い場所にロイドの顔があって驚いた。もう少しで昨日のように額が合わせられそうだ。
急いで退かないと。そう思ったところでロイドの瞳が再び薄く開いた。青色にエリンの顔が写っているのが見える。
(——あ、)
なぜかエリンは声が出ない。
ロイドは数秒にも満たない間、エリンをじっと見た後、花がほころぶように笑った。
「……かわいいね」
「っ、」
エリンは弾かれたように上体を起こした。その拍子に、右腕を掴んでいた手は驚くほど簡単に取れた。
恐々と、もう一度エリンはロイドを見た。瞼は何事もなかったかのように閉じられている。寝ぼけていたのだ。その事実を知った瞬間、エリンの全身から力が抜けた。
「な、何なの……」
よろよろと後退りしてベッドから離れる。あんなロイドは今まで見たことがない。あんな、甘い砂糖菓子のような顔の——
「…………」
心臓の音がやけに耳につく。かぶりを振ったエリンは回れ右した。もう居間に戻ろう、そうしよう。
(……ん?)
その時ふと、あるものがエリンの目に入った。
画架に乗せられたキャンバスがひとつ、ベッドの脇に入り口の死角になるように置かれているのである。キャンバスには黒い布が被せられていて、肝心の絵は見えない。
ロイドが描いた新しい絵だろうか?
もしそうなら見てみたい。そんな思いに駆られたエリンは忍び足でそれに近寄った。
被せられた布の端を指でつまみ上げて、中のキャンバスを覗いた。
そして、エリンの目が大きく見開かれる。
「え……女の、人?」
栗色の髪と瞳をした女性と目が合った。彼女は優しく微笑んで、こちらを見つめている。
エリンより大人びていて上品に見えるその人は髪を結っていた。——髪を結っている女性は、既婚者の証である。
予想だにしなかった絵にエリンは動揺する。心臓が早鐘を打って、握り潰されるような心地がして痛い。
てっきり動物や風景画かと思ったのだ。今までロイドが人物画なんて描いたところを見たことがなかったから。
けれど、繊細なタッチと色使いで描かれたこの絵は紛れもなくロイドが描いたものだ。
「この人、どこかで……」
柔らかい目元をしたこの女性をエリンは知らない。知らないが、目や鼻、口はどこか既視感を覚える。あと一歩のところが思い出せない。もどかしかった。
「ん……」
その時、後方から衣ずれの音と吐息が聞こえて、エリンはハッとした。
ロイドがもうすぐ起きそうだ。これはエリンの直感でしかないのだが、このキャンバスは自分が見てはいけないものの気がする。
慌ててキャンバスに布をかけ直して、音を立てないように扉に向かう。それから、部屋を出る直前、もう一度だけエリンは後ろを振り返った。
(…………)
最初に見たときはちっとも変わっていないように見えたはずなのに。何故か今は、ロイドの部屋が少し変わったように見えた。
◇
ぱらり、と本のページをめくる音が部屋に響く。
エリンは現在、自分の部屋で昨日の本の続きを読んでいた。
ロイドの部屋から出た後、エリンは自宅に帰ってきたのである。彼の母親は昼食も食べていけばいいのにと残念がっていたが、それは丁重にお断りした。
あの絵を見てしまった後で、ロイドと変わらず接することができる自信がなかった。
エリンの栗色の瞳が文字を追っていく。
……だが、追うだけで内容は全く頭に入ってこない。あんなに楽しみにしていた探偵の謎解きがとても陳腐なものに思えてきてしまって、エリンは思わず本を閉じた。
大きな溜息を吐いて、エリンは自室のベッドに横になる。それから膝を抱えて胎児のように丸まった。
これは昔から悩んでいる時にするエリンがする癖である。尤も、本人は気づいていないが。
「……あの女の人、一体何なんだろう」
返す言葉はない。それは百も承知だ。部屋にはエリンひとりきりなのだから。気にせずエリンは独り言を続ける。
「大人っぽくて綺麗だったな……」
エリンは無意識に自分の短い髪を触る。短くしているのは、手入れをするのが面倒だからだ。もともと目が大きく童顔なのと相まって、自分が“大人っぽさ”や“上品さ”からは、かけ離れていることは自覚している。
「……やっぱり、絵に描くぐらいだから特別な人、ってことだよね」
口に出してみると、ずしんと重く心にのしかかってくる。
今まで人物画を描いたことがなかったロイドが初めて描いたそれである。何となく思いつきで人物画を描きたくなったから描いてみたという可能性もなくはないが、そういった単純なものではないと素人のエリンでも分かった。
あれは、ひとつひとつ丹念に描かれたものだと、何か特別な意味があるものだという気がする。
では、あの絵の女性は誰なのか。髪を結わえていたので、既婚者であることは間違いない。そこまで考えてエリンは重苦しいため息をついた。
「何でよりによって、結婚してる人を好きになるのロイド……」
不毛だ、不毛すぎる。他に好きな人がいる人を好きになるなんて。——ロイドもエリンも、不毛なのだ。
今までエリンは自分が色事とは無縁な存在であると思っていたが、そうでもなかったようだ。
ロイドのことは好きだ。だがそれは友人としてだとか、そういうものだと思っていた。
ところが、深層心理は違ったらしい。あの絵を見た途端、エリンの心は今までにないくらい苦しく締め付けられた。ロイドに他に好きな人がいると知った途端、自分のロイドに対する気持ちが異性に対するものだと自覚するなんて恋愛下手もいいところである。
一度自覚してしまうと、もう戻れない。昨日までの自分のように振る舞える気が全くしない。
耐え切れなくなって堅く目をつぶったエリンの脳裏に、今朝見たロイドのとろけるような笑みが浮かぶ。あれも今考えると、だいぶ心臓に悪い。
何度も頭の中であの瞬間が再生されるので、エリンは無心で天井のシミを数えていた。
その時、あることに気づく。
「……かわいいねって、あの人に向けて言ったのかな」
エリンは自分の髪を一房とって目の前に持ってきた。
……似てなくもない、あの絵の女性の髪色と。というか、ほぼ同じではないだろうか。茶髪はこの辺りで最も多い髪色であるので、不思議ではない。この調子だと、確認していないが瞳の色も同じようなものだろう。
自分が寝ぼけて恋敵と間違えられたことに気づいたエリンは、さらに落ち込んだ。それから「あの時のときめきを返せ」と幼馴染に恨み言を吐く。
「ロイドの女たらし……」
恐らく彼とはこの世で最も無縁の言葉であるが、今はこの言葉が一番しっくりくる。
ひどく虚しくなってしまって、エリンは意味もなくベッドの上で何度も寝返りを打った。
「…………」
そして、しばらく目を閉じていたかと思うと、カッ!といきなり栗色の瞳を開いた。
そして両頬を喝を入れるように思い切り叩く。
「よし! 決めた!」
これ以上うじうじ悩んでも仕方がない。行動を起こさない限り、状況は変わらないのである。そう何かを決意したエリンは、すくっと立ち上がった。
「……大丈夫、前に進むだけなんだから」
小さく深呼吸して、エリンは自分に言い聞かせた。そのまま乱れた髪を整えて、勢いよく部屋の外へと飛び出す。
バタバタと大きな足音を立てて二階から降りてきた娘に、母親が驚いて声をかける。
「どうしたのよエリン」
「ロイドのとこ行ってくる!」
「また行くの? 一体何しに」
「失恋!」
「はぁ⁉︎」
素っ頓狂な声を上げる母を尻目に、エリンは家を出た。エリンはわずかに残っている冷静な頭で、自分が半ばヤケになっていることに気がついていた。勢いと感情だけで今のエリンは行動している。
それでも、うじうじ悩むのはもう沢山だった。そういうのは柄ではないのだ。人生には時として勢いが必要だとあの推理小説の探偵も言っていた。
脇目も振らず、エリンはただ一つの場所を目指して走った。
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