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後編
ロイドの家に来るのは、昨日と合わせてもう三度目になる。つい最近まで全く来ていなかったのに可笑しな話だ。
いざ家の前まで来ると、決意が一瞬揺らぐ。萎んでいく勢いに気づかないふりをして、ドアノッカーを掴んだ。そして、ノックを三回……
——ガチャ!
……する前に、勢いよくドアが開いた。
驚いたエリンは咄嗟に後ろに飛びのく。
「うわっ!」
「きゃっ、びっくりした! あら、どうしたのエリンちゃん」
ロイドの母親が目を丸くして現れた。買い物カゴを持っているので、今まさに買い物に出ようとしていたところのようであった。
少しペースが乱されたが、エリンは落ち着いて口を開く。
「驚かせてごめんなさい。ロイドいますか?」
「ロイド? いるわよ。どうしたの、何かご用?」
エリンは強い瞳で彼女を見た。
「ロイドに、話があるんです」
◇
(……深呼吸、深呼吸)
自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。エリンはロイドの部屋を目指して短い廊下を歩いていた。
ロイドの母親はあのまま買い物に出かけてしまった。エリンのただならぬ様子に何かを察したのだろうか、「頑張ってね」と、ただその一言だけ残して行ってしまったのだ。
部屋の前に着くと、怖いくらいに静かだった。一瞬誰もいないのかと怖気付くが、かぶりを振って仕切り直した。
ノック音が三回、明瞭にあたりに響く。エリンが口を開くよりも先に、返事がきた。
「母さん? 買い物に出かけたんじゃ……」
「……えっと、エリンなんだけど」
「え、エリン⁉︎」
部屋の中の人物は分かりやすく驚いている。裏返ったような声なのに、「本当にいた」と少し安心してしまう。
それから、さっきまでの静寂が嘘のようにガタガタと物音が部屋の中から聞こえはじめた。何かを移動させるような音も聞こえる。何となくだが、あの絵を隠しているのではないだろうかと思った。
「……ロイド? 入るよ?」
「ちょ、ちょっと待って!」
慌てた声と共に目の前の扉が開く。ロイドの身体が邪魔して、部屋の中は見えなかった。
こうして向かい合うと彼の方が頭ひとつ分以上背が高いのを実感する。
ロイドは戸惑ったようにこちらを見ていた。その青色の瞳と目が合うのが恥ずかしくて、逸らしそうになるのを何とかエリンは堪えた。
「ど、どうしたのエリン、こんな急に……」
「ロイドに話があるの」
「後でもいいかな、その、今ちょっと立て込んでて……」
「ダメ。今じゃないとダメ」
今しかない、今言わなければ。あと数秒もすれば、冷静になってしまえば、エリンの決意の心が萎んでしまう。そしたら一生言えなくなる気がした。
こんなに押しの強いエリンは初めてで、その気迫にロイドは少し目を見開いた。
栗色の瞳が、その様子を真っ直ぐ見つめて射抜く。
「……私、ロイドが好きだよ」
「………………え⁉︎ な、な、な」
たっぷり数秒、間を空けて漸く意味を咀嚼したらしいロイドが口を戦慄かせた。どんどん首から上が赤く染まっていく。
エリンも顔から火が出そうなほど恥ずかしかったが、ギロリと下からロイドを睨みつけた。
「黙って聞いて」
「えぇ……は、はい」
好きと言われたのに何故か怒られたロイドはシュンとする。
エリンの心臓はバクバクと大きく音を立てていて、自分と目の前のロイド以外の周囲の景色が少しぼやけて見えた。
「……私は、昔から恋愛に疎くて、恋とかそういうのよく分からなくて、ロイドのことは昔から好きだったけど、友達として好きなんだとずっと思ってた」
「…………」
「でも、ロイドが他の人と恋人同士になるのを想像したとき、すごく、すごく悲しくて苦しくて。ああ、これが好きってことなんだって思ったの」
「……っ、」
二人とも羞恥に悶えてしまって、顔が林檎のようになっていた。
ロイドは片手で口を覆って、耳まで赤くしている。
「ま、待ってエリン、ちょっと待って! 何なの、君は俺を殺す気なの」
「いいから最後まで聞いて。いい? だから、私はロイドのことが好きだからね、ロイドには私を振ってほしいの」
「………………は?」
予想外の言葉にロイドは目が点になる。
エリンはもう言葉を続けるのにいっぱいいっぱいでその様子に気づかない。ロイドを射抜いていたはずの栗色の瞳は、今は気まずげにウロウロと床の木目を彷徨っている。
「他に好きな人がいるのも知ってる。……さ、流石に既婚者とは思わなかったけど、不倫は絶対ダメだけど! でも思うだけなら、……好きな気持ちは自由だと思うから。私はロイドを応援したい。その為にも、私を振ってほしい。吹っ切らせてほしいの」
「……本当に待ってエリン、ちょっと意味がわからない」
ロイドのいつもより低い声に違和感を覚えて、ようやくエリンも頭上の彼の顔を仰ぎ見た。
頰の赤みはまだ引いていないが、彼の纏う雰囲気がガラリと変わったように思えた。
青い瞳が何処かギラギラとして見えるのはエリンの思い過ごしだろうか。
「……どうして俺に他に好きな人がいる前提なの。それに不倫とか、あり得ない言葉も聞こえたんだけど」
予想外の相手の反応に、今度はエリンが戸惑った様子を見せた。
「で、でも、知らない綺麗な女の人の絵を描いてたから……その人のことを想ってあの絵を描いたんじゃないの?」
「……絵?」
「ロイドの部屋にある絵だよ。ほら、黒い布で隠してた……」
「あの絵を見たの⁉︎」
今までにないくらいのロイドの大声に、エリンは飛び上がりそうになった。こんなに大きな彼の声は、初めて聞いたかもしれない。
思わず閉じてしまった瞼を恐る恐る開ける。ロイドは顔を両手で覆って、ずるずると床にしゃがみ込んでいくところであった。金髪の隙間から見える彼の頬や耳は先程の比じゃないくらいに赤かった。
「……ああ、もう終わりだ……」
尋常ではないその様子と、悲壮感を滲ませたロイドの声に、エリンは「もしかして自分はとんでもないことをしてしまったのでは」と不安に駆られる。
慌ててロイドと同じようにしゃがみ込んで、目線を合わせようとするが、彼は頑なに顔を見せようとしなかった。
「ご、ごめん。そんなに見ちゃいけないものだったの? で、でも、とても素敵な絵だったし、そんなに落ち込まないで」
「…………」
「すごく丁寧に描かれてるんだなって、絵の中の人を想ってるんだなって、私は思ったよ……苦しくなるくらいに」
「…………」
あの時のことを思い出してエリンはギュッと自分の心臓のあたりの服を掴んだ。この思いに嘘はない。
数秒の沈黙の後、蚊の鳴くような声でロイドが言った。
「……こうなったら、もうヤケだ」
「え? なに?」
エリンが聞き返した瞬間、ロイドが両手を下ろした。
現れた碧眼は鋭くて、若干据わっている。
「……エリン、言っておくけど、君がとどめを刺したんだからね」
「ど、どういうこと?」
「……もう俺たちは、今まで通りでいられないってこと」
随分と不穏な言葉だ。不安になったエリンは眉尻を下げた。
それに対してロイドは、にこりと唇の端をあげる。それはどこか妖艶で、あの時の寝ぼけた彼が見せた笑みに似ていた。
「来て」
「え、あっ、ちょ……」
立ち上がったロイドはそのままエリンの手を引いた。
さっきまであんなに部屋に入るのを拒んでいたはずなのに、いとも容易く彼の部屋に案内されてエリンは戸惑う。
「あ……」
そのまま部屋に入ると、真っ先にそれが目に入った。
画架に乗せられたそのキャンバスは、エリンが見た時とあまり変わっていない。追加でロイドが手直しを加えていたのだろうか、窓の光を照り返す表面はまだ少し湿っているように見えた。
相変わらず絵の中の彼女はこちらを優しく見つめている。
「……この人は、君だよ」
「…え?」
努めて平坦な声で、ロイドはそう言った。
驚いたエリンは勢いよく真横の人物を見る。だが、その青い瞳はキャンバスの方を見つめたまま動かない。
身長差のせいで、彼の瞳の感情までは分からなかった。
「……少し前、夢を見たんだ」
「夢?」
「そう、夢。その夢の中のエリンはすっかり大人になっていて、すごく綺麗だった」
「…………」
あくまで夢の中の自分を褒められたはずなのに、エリンは少し頰を赤くした。
「夢の中でエリンと俺は一言二言話して……それでその夢は終わり。けど、その夢に出て来たエリンが忘れられなくて、ずっと見ていたくて、でも同じ夢はなかなか見られなくて……気がついたら筆を持ってた」
「…………」
「会えないなら、創ればいいって思ったんだろうね。……我ながら、気持ち悪い考えだと思う」
そう言って、ロイドは自嘲気味に笑った。
エリンはしばらく黙って彼の話を聞いていたが、意を決して思っていたことを口にする。
「……あのねロイド」
「……なに?」
「この絵、未来の私だとしたら、ちょっと美化しすぎだと思う」
「…………」
「私、こんな綺麗じゃないよ。成長するにも限度があるっていうか、その、高すぎる期待には応えられないというか……あの、ロイド、聞いてる?」
「……えっ、あ、ああ……」
思わぬダメ出しに、気が削がれたロイドは戸惑ったようにエリンを見下ろした。さっきまでの鋭い眼光は何処へやら、おずおずといった様子で口を開く。
「……気持ち悪くないの?」
「ううん、全然。むしろこの人が私だって聞いて安心した。なぜか結婚済みなのは気になるけど」
「……自分の未来の姿を想像して勝手に絵を描かれてたんだよ?」
「別にいいんじゃない? 私、ロイドの絵が好きだし、未来の姿とはいえ初めての人物画のモデルにしてもらえて嬉しいよ」
にっこりとエリンはロイドに笑いかける。その瞳には一点の陰りもない。優しいその笑みはキャンバスに描かれた未来の彼女よりも何倍も輝いて見えた。
どうやらロイドは随分と幼馴染を見くびっていたようである。
てっきりこの絵のことがバレたら、気持ち悪がられてもう二度と普通に接することができないと思っていたのだ。それがどうだろう、エリンは絵のことを受け入れるだけでなく、「嬉しい」と言ってこうして自分に可愛らしく笑いかけてくれているではないか。
これが現実ならば明日死んでもいいと、そう思いながらロイドは半分泣き笑いのようにしてエリンに笑みを返した。
そんな彼の思いを知るよしもないエリンは、嬉しそうにロイドに抱きつく。
ロイドはしばらく硬直したのち、おずおずと彼女の背中に手を回した。
そうしてしばらくお互いに抱き合った2人だが、突然エリンがハッとしたように声をあげた。
「そうだ! ロイド!」
「…………」
勢いでパッとエリンが離れる。ロイドは空いた手の中を少し残念そうに見ていた。
そんな様子を気にせずエリンは言葉を続けた。
「私、ロイドの気持ちを聞いてないよ!」
「……気持ち?」
「ほら、私はロイドのこと、す、す、好きって言ったでしょ? ロイドはどうなんだろうなって…」
“好き”の部分から異常に声が小さくなって、最後の方はもう蚊の鳴くような声だった。
一方のロイドは困惑したような顔をした。
「一応、あの絵で伝わったと思ったんだけど……」
「いや、そりゃあ十分すぎるくらいに伝わってるけど……も、もっとこう、言葉でも欲しいっていうか……」
「ダメかな?」とこちらを不安げに見つめるエリンに、ロイドの胸の奥がこれでもかと締め付けられる。とはいえ、その締め付けは苦痛とは反対の、甘美なものだ。
「……そっか、それもそうだね」
期待したように栗色の瞳がこちらを見上げる。そこに移るロイドの顔は、エリン以外の人物は絶対に見ることができないものだ。
「好きだよエリン、誰よりも」
あの時と同じ、とろけるような甘い笑みでロイドはそう言った。
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