選ばれたあなたージオン・カルサベカトルの場合ー

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機会が、ついに訪れた。 それは秋の気配が去り、少し肌寒くなってきた頃のことだった。 放課後、たまたま課題で必要な本を借りに来た図書室でレイチェルを見つけた。彼女は同級生の女といたようだが、ちょうど用事が終わったのか、帰ろうと一人出口に向かっているところだった。俺はその後をこっそりと追いかける。 「おい。」 校門を出て、しばらく歩いたところで呼び掛け、左の手首を掴んだ。俺の手で余裕ですっぽりと掴みきれる細さに、なぜかドキリとした。辺りには人は全く居なかった。 「…何かご用でしょうか?」  彼女は訝しげに首を傾げながら、俺のことを見上げてくる。思ったよりも彼女は小柄だった。俺とは顔一つ分程は明らかに差がありそうだった。うかがうように見上げてくる夕焼けのような瞳は今、俺だけに向けられている。そう思うと、なぜか胸が擽ったいような気持ちになった。 「貴様はレイチェル・スリトリビンだな。」 「仰る通りです。好きに呼んでくださって構いませんよ。…貴方様は、ジオン・カルサベカトル様でいらっしゃいますね。」 彼女は少し困ったように笑いながらそう言った。彼女は、俺を知っていた。当然だ。俺は有名人なのだから。にも関わらず、彼女に確かに認識されていたという事実に胸は高鳴っていて、少し戸惑っていた。 「あぁ。…俺は、貴様にずっと物申したいことがあったのだ。」 「そうなのですか。どういったご用件でしょうか?」 彼女は相変わらず困ったように少し微笑みながら俺を見ている。アレクに張り合おうと適当に声を掛けたことのあるほんの少しだけ可愛い女とは違い、彼女の顔には嫌悪感がなかった。そのことに、俺は妙な自信を得ていた。 「これ以上アレクに色目を使うな。」 「…はぁ。」 彼女は意味が分からないというように瞬き、不思議そうに首をひねった。 「申し訳ありませんが、貴方様の仰ることには全く身に覚えがございません。」 「貴様が何か小賢しい作戦でアレクに取り入ったのは分かっているのだ。アレクには貴様よりシェーンの方がはるかに相応しい。」 「シェーン様。貴方様の妹君ですね。お言葉ですが、それは貴方様ではなく、グリスツェン様がお決めになることではないのですか。」 彼女はそう言って微笑んだ。酷く穏やかな、余裕のある女のする笑みだった。 小賢しい。生意気だ。確かに彼女は抜群に美しい。だが、格上の男相手に、こうも怯まず話をしてくるのはあり得ないことだ。本来ならもっとへりくだり、俺を立てるべきなのだ。 「貴様は生意気だ。男相手に対等に話をしおって。ここはもっと俺を立てるべきだろう。」 「その意見には賛同しかねますが。…貴方様はそんなことを話すために私に声を掛けた訳ではないでしょう。」 彼女の美しい顔が、少しだけ嫌そうに歪んだ。なぜか、胸がチクリと痛んだような気がした。彼女の顔には全く似合っていなかった。 「アレクが貴様を構うせいで、シェーンが落ち込んでいるのだ。すぐにアレクに変な色目を使うのをやめろ。アレクが貴様に近付くのは、貴様の小賢しい作戦のせいに違いないのだ。」 「私は、何もしておりませんよ。色目を使うだとか、小賢しい作戦だとか、そんなものは存在しません。グリスツェン様が声を掛けてくださるので、私も喜んでお話をしているだけに過ぎません。」 彼女は俺から目を逸らさない。それは、彼女の言うことが確かに本当のことなのだと、俺に錯覚させようとしてくるようだった。 「そんなはずはない。貴様は確かに美しい見目をしているが、それだけでアレクが近付く訳はないのだ。アレクが絵画に興味を持っているのを突き止め、上手く利用したのだろう。貴様は賞を取れるくらいには、絵が上手いようだからな。」 そう言うと、彼女の顔が一瞬、すっと真顔になった。そのまま困ったような、呆れたような顔でわらった彼女は、そっと口を開いた。 「そんな訳ないでしょう。私が狙ってグリスツェン様の好む絵を描いたと仰るのですか。百歩譲って彼が絵画を好んでいると知ったとしても、手放しで彼が称賛する絵を、狙って描くことなど出来ませんよ。」 彼女の言葉に、反論することが出来なかった。彼女はアレクのことを殆ど知らない。小賢しく調べたとしても、絵の好みまで掴むのは難しいかもしれない。たとえ分かったとしても、それを狙って描くのは、無謀なことかもしれない。確かに、その通りなのだ。 「そろそろ手を離していただけますか。家に着きましたので。」 彼女はそう言って俺の手を振り払った。気付けば少し大きな屋敷の見えるところに着いていた。いつの間にか彼女の手首を掴み、言葉を交わしながら、歩みを進めていたようだった。 「貴方様は私のことがお嫌いでしょう。」 彼女はそう言った。俺の目を逸らすことなく見ていた。夕焼けのように朱い瞳は俺だけに真っ直ぐ向けられていた。うっすらと赤く色付く唇は、確かに微笑んでいた。 「だからだとは思いますが、女性と歩く時に手首を掴むのはいかがなものかと思いますよ。貴方様が心から焦がれる大切な相手とデート等なさる時は、きちんと手を繋いであげてくださいね。」 「…は。」 「では、ごきげんよう。」  彼女は丁寧にお辞儀をすると、俺のことを振り返ることもなく、さっさと屋敷の方へ去っていってしまった。 『私のことがお嫌いでしょう』 彼女の言葉が、頭の中に残っていた。それは確かだ。俺はあの女が嫌いだ。あの女は大事な妹であるシェーンの自尊心を深く傷付けた小賢しい女だ。格上の男を立てることなく、飄々と接し、意見してくる生意気な女だ。気に食わない。嫌いだ。当たり前だ。 それなのに、なぜか腑に落ちなかった。心に妙なしこりが残ったかのように、変な違和感が燻っていた。
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