選ばれたあなたージオン・カルサベカトルの場合ー

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そのまま俺達は図書館の裏にやって来た。そこには取って付けたように置いてある若干古びた木製のベンチがある。小雨しか凌げぬ頼りない屋根の下にあるそれは、晴れた日には陽がよく当たり、快適な場を提供してくれる。しかし、雨の多いこの地域においては雨晒しになっている期間の方が圧倒的に長い。置かれてそれ程の年月は経っていないと記憶しているが、すでに長年ここにあるように思える貫禄を醸し出している。今は下校時間間近ということもあり、当然人はいない。 「座れ。」 持参しているハンカチを自分の座るスペースに敷き、その上に腰掛けてから、横に座るようレイチェルに呼び掛ける。と、同時に少し心配になった。傘を差すほどではないが、確かに小雨が降っている今日、ベンチは少しばかり濡れていた。だからこそハンカチを敷いたのだ。もし彼女がハンカチを持っていなければ、濡れた場所に腰掛けろと言ったことになる。別に俺は彼女の服を濡らしたいわけではない。 「はい。」 彼女は簡単に頷くと、鞄から取り出した真っ白なハンカチをベンチに敷いて、その上に腰を下ろした。 今はただの金持ちの家とはいえ、かつては由緒ある貴族の家だったところの令嬢がハンカチを持参していないなんてことはない。俺はそっと安堵していた。 「カルサベカトル様。お話とはどのようなものでしょうか。」 彼女は俺のことを真っ直ぐに見ていた。いつもそうだ。俺と話す時、夕焼けを溶かしたような瞳は逸らされることなく、真っ直ぐに俺だけを見る。 だが、その顔はただ、穏やかに微笑んでいるだけだ。アレクに向けられるあの恋する乙女の表情の、欠片さえ見えはしない。距離だって、手を伸ばさなければ触れられない程は離れている。アレクが相手であれば、彼女はもっと近くに座るような気がする。そう思うと、無性に腹の虫が収まらなくなる。 「貴様は、本当にアレクと結婚出来ると思っているのか。」 俺の言葉に、レイチェルは少し目を見開いて、それからまたさっきまでと同じ穏やかな微笑みを浮かべた。 「どうでしょう。アレクサンダー様が私を選んでくだされば良いのですが。」 「アレクが選ぶのはシェーンだ。貴様は見目は美しいが、家柄は大したことないだろう。シェーンは家柄も良く、そのうえ美しく、程良く聡明な出来た女性だ。貴様のように女であるにも関わらず勉学で目立とうとするような生意気な小娘が最後にアレクに選ばれる訳はない。どうせ、結婚も出来ずに、悪戯に抱かれて終わりだ。」 「そうですか。しかし、それも全てアレクサンダー様がお決めになることですよね。ここで私達が議論をしても仕方のないことです。」 「貴様は結婚もせぬうちにアレクに抱かれ、あわよくばアレクの子を身籠ろうと狙っておるのだろう。」 言っていてますます腹が立ってきた。心がギリギリと音を立てて軋んでいるような気さえする。それほど、俺は怒りに震えていた。だが、レイチェルは微笑んだまま、表情一つ変えない。 「狙ってはおりませんよ。ただ、アレクサンダー様に請われれば、たとえ不服だったとしても、私にはお断りするという選択肢はないのです。それは、貴方様もお分かりでしょう。」 彼女が口にしていることは事実だ。アレクや俺のような、階級制度がなくなった今尚崇められる家の子息に求められれば、今はただの金持ちの家の令嬢に過ぎない家の女に、拒否権等ない。 「では、貴様はアレクが求めれば簡単に身体を許し、貴様を直接感じたいとでも言われれば避妊もせずに抱かれるということか。」 「アレクサンダー様がそのようなことを仰るのかは甚だ疑問ですか。どういう条件であろうが同じです。お断りするという選択肢はないと申し上げたはずです。」 レイチェルはやはり表情一つ変えない。俺が口にした内容にも、自分が言った内容にも、何の不満も疑問もないように見える。それは当然のことであるのに、何だが物凄く胸がムカムカして、落ち着かない。 「では、俺ではどうだ。」 有無を言う隙は与えず、少し距離を詰め、レイチェルの両手を取った。そのまま顔を近付け至近距離で、酷く美しくはある顔を見つめる。朱い瞳には確かに俺しか映っていないと確認出来る程近付いても、彼女の表情に変化はない。そのうっすらと赤い唇の微笑みは絶えない。鼓動が乱れるのがわかった。 「俺が求めても貴様は同じように受け入れるのか。」 夕焼けを溶かしたような朱い瞳は、俺から外れることはない。逸らされない真っ直ぐな視線に、胸の鼓動がさらに乱れる。形の良い唇が、そっと動いた。 「私個人としては、受け入れるしかないでしょうね。ですが、貴方様にそれがお出来になるのですか?」 「は?」 彼女はクスリと微笑んだ。表情が変わったと言うには、些か慎ましやかなものだった。 「過ぎたことではございますが、アレクサンダー様は私のことをある程度好ましく思ってくださっております。私が彼を特別に思っていることも周知の事実。当然、貴方様もご存知のはず。そこまで分かっているにも関わらず、貴方様は私に手を出そうと考えるのですか?それは、今後のグリスツェンの家とカルサベカトルの家の関係に、どのような影響をもたらすのでしょう。」 さっと血の気が引いていくのが分かった。 彼女は俺の生まれたカルサベカトルの家より格上の皇族・グリスツェンの家のアレクが気に入っている自分に俺が無理矢理手を出せば、アレクも彼の家の者も黙ってはいないと言っているのだ。 なんて小賢しい。だが、確かにその通りだった。レイチェルはアレクに恋をしている。アレクもレイチェルを気に入っている。そんななか、彼女に無理矢理手を出せば、俺は完全に悪者になる。 「小賢しい。俺に誘いすらかけさせぬと言うのか。」 「事実を申し上げたまでです。そもそも貴方様は私のことがお嫌いでしょう。手を出す必要などないはずでは。」 彼女は相変わらず変わらない微笑みに少し困ったような様子を乗せた。変化と呼ぶには、やはり些細なものだった。 「男は中身は気に入らない女でも、何か魅力があれば抱けるものだ。貴様は小賢しく生意気だが、見目は格別に美しいからな。そもそも全て気に入っていなければ抱けないのでは、そういった店は成り立たないだろう。店にもよるが、ああいったところの女は身体や顔や情事の際の腕や感度は良いが、教養はないことが多いからな。まぁ、金のために身体を売ることを選ぶしかなかったのだから、仕方がないのだろうが。」 アレクは誘いをかけてくる令嬢だけでは飽き足らず、『娼婦』と呼ばれる女がいる店にも出入りしていた。どうやら皇族御用達の場所があるらしく、父親から教わったらしい。 「彼女達はプロだからね、いろいろと手解きしてもらっているんだ」とアレクが楽しそうに話していた。 少しでもアレクに張り合おうと俺もそういう店に行ったことがあった。さすがに皇族御用達の店には行けず、それ以外で一番格が高そうな店に赴いた。情事の腕は確かだったが、話をしても張り合いがなかった。こちらが当たり前に知っていることから話す必要があり、骨が折れたのだ。 「そうですか。」 彼女の顔が一瞬だけ酷く歪んだような気がした。何か気に障ることを口にしたのかと考えるより前に、彼女の表情はさっきまでと変わらない穏やかな微笑みに戻っていた。気のせいだったのだろうか。 「ですが、貴方様は選べる立場にある御方です。見目も中身も全て、貴方様が好ましいと感じる御令嬢にアプローチし、交際でも結婚でも何でもお好きになさる方が良いのではないですか。お嫌いな私には、本当は近付く必要もないのですよ。」 彼女が口にする内容は確かにその通りなのだ。だが、どうにも腑に落ちない。頷けない何かが、胸に燻って離れない。 「貴様は目を離すと、すぐにアレクが貴様に近付き、二人きりになるよう仕向ける恐れがあるからな。そうならぬよう見張らねば。シェーンが悲しむ。」 「私はそのようなことは致しません。…ですが、貴方様が妹君を大切に思い行動しているのは、素晴らしいことだと思っております。たとえそれが見当違いなものだとしても。」 レイチェルは相変わらず微笑んでいた。だが、その微笑みが少し変わったような気がした。どこか慈しむような優しげな色が濃くなった微笑みは、俺が初めて見るものだった。胸がドクンと大袈裟に鳴った。 「…なっ。そう思うなら、もうアレクに近付くな。」 「私から近付くなんて、畏れ多いことは致しません。ですが、アレクサンダー様が話しかけてくださるのを無下には出来ませんよ。」 「貴様はどうせアレクと結婚など出来ぬのだ。少し遊ばれ、気紛れに抱かれるだけだ。アレクに恋をしても、結局は報われまい。」 「それはアレクサンダー様のお心次第ですよね。貴方様が断定することは出来ないでしょう。」 「いくら貴様がアレクを好きでも、アレクは貴様のことなど、見目麗しく、魅力的な絵を描く、少し興味深い女というぐらいにしか思ってはいまい。最後にはシェーンを選ぶのだ。シェーンは見目も良く、男を立て、幼い頃からアレクだけを見つめ続けている。何より、カルサベカトルの女性だ。最後にはシェーンを選ぶに決まっている。貴様は巧くやってアレクの子をその身に宿したとしても、結婚など出来まい。アレクに一生囲われて終わるのだ。」 「はぁ。それは貴方様の勝手な想像に過ぎないでしょう。」 「そんなことは許さない。だったら俺が貴様を」 「いい加減にしろ、ジオン。」 ふいに肩を掴まれた。目を向けると、アレクが憮然とした表情で俺を見ていた。その瞳には怒りが滲んでいるように見えた。どうやらいつの間にか背後から来ていたらしい。 アレクは俺の肩を掴んで立たせた。その拍子に握っていたレイチェルの両手が俺から離れていった。 「女性に向かってなんて話をしてるんだ。…本当にデリカシーの欠片もない。僕のことまで持ち出して。」 アレクが俺をジロリと睨んでくる。きっと、レイチェルには知られたくない話だったのだ。彼は確かに俺に「妊娠したとしたら結婚はせずとも一生囲う」と口にしたことがあるのに、だ。 「アレクサンダー様。お会い出来て光栄です。」 「レイチェル。…大丈夫かい。愉快でない話を聞かされただろう。」 アレクは優しげな顔でレイチェルに目を向けた。その顔にはうっすらと気まずそうな雰囲気も滲んでいる。 「大丈夫ですよ。カルサベカトル様がとても妹君を大切に思っているのだということがよく伝わってきました。」 「そうかい。」 アレクはまた俺に目を向けた。そしてそのまま俺の耳元に顔を近付けてきた。 「レイチェルに余計なことを吹き込むな。」 そう言い捨てるとあっという間に俺から離れていった。そしてレイチェルのもとへ赴くと、あっさりとその肩に手を掛けた。 「何かあってはいけないからね。途中まで送るよ。」 「大丈夫ですよ。もう帰るだけですし。」 「駄目よ、レイチェル。お言葉に甘えましょう。」 「そうよ。本当に、グリスツェン様が来てくださらなかったらと思うと。」 レイチェルとアレクの他に、女の声が二人分聞こえた。目を向けると、レイチェルとともに学習室に居た女二人が、心配そうに彼女の側にいるのが目に入った。 「君達が僕を探して呼んでくれて助かったよ。ありがとう。」 アレクの微笑みに、女二人は簡単に赤くなって黙った。 どうやらこの二人の女がアレクを呼んで来たようだった。後をつけられていたのかもしれない。余計なことをしてくれた。少し勉強が出来るとはいえ、調子に乗らないで貰いたい。コイツらは容姿に恵まれないから勉学に力を入れているに過ぎない大したことのない女達だ。そもそも俺はレイチェルと二人で話していたのだ。邪魔をしないで欲しい。 そのまま四人は連れ立って去っていった。残された俺は、目の前のベンチを殴り付けた。ちょうど、レイチェルが座っていた辺りだった。 面白くない。俺は選ばれた人間であるはずなのに。結局、皆アレクが好きなのだ。レイチェルだってそうで、アレクが望めば簡単に身体を許すのだろう。それで子供でも授かれば、彼女はずっとアレクのものだ。結婚なんてして貰えず、ずっとアレクに囲われて何不自由なく暮らすのだろうか。それを考えると、もの凄く胸がムカムカする。 俺は許さない。だったら俺がレイチェルを娶る。アレクに知られぬようこっそり働きかけ、彼女の意思でそうなったように見せかければ問題はない。そうすればアレクが自分から働きかける女性はシェーンだけになる。シェーンは何の不安もなくアレクと結ばれる。 俺は気には食わないが見目麗しく、人気もある女を俺のものにし、毎晩好きなように出来るのだ。想像するだけで腹の底が痺れる程、愉快で愉快で堪らなくなった。
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