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チャンスは程なくして訪れた。クリスマス休暇が明けて、しばらく経った頃だった。
その日の昼休み、俺は珍しく一人でいた。喉が渇いていたのに飲み物を持参し忘れていたため、購買店に買いに出向いていたのだ。昼食を共にする他の同級生は屋内テラスのひとつですでに昼食を食べ始めていたので、同行は求めなかった。
アレクが居たならば確実に付いて来ただろうが、クラス委員に選ばれた関係か、この時、彼は先生からの呼び出しを受けていた。将来人を纏める立場に就く予定の彼は、崇められるかわりに、そういった面倒な役もこなさなければならないようだった。かくいう俺もその補佐役を賜る時が少なからずあったが、今回は免れていた。
レイチェルは例の女の友人二人と昼食を共にしていた。購買店からの帰り道、ふと目を向けた先の、ちょうど雨を凌げる木陰で楽しそうに笑っていた。人目につきにくそうな場所であり、見つけられたのは本当に運が良かった。辺りに他に人はいない。ほぼ完璧なシチュエーションだった。
俺は購買店で買っていた瓶詰めの牛乳を、スラックスのポケットに押し込んだ。そして少し降る雨などものともせず、さっさと彼女のもとへ赴き、横を陣取った。
女の友人二人が嫌そうに顔を歪めた。それを見た瞬間、この場からレイチェルだけ連れ出そうかと思ったが、止めておくことにする。昼休みである今、ここから連れ出す道中で誰かに見咎められそうだと思ったからだ。邪魔をされるよりかは、ここで話をする方が良い。大したことのない女二人など、気にする必要はない。今迄も何度か二人の前でレイチェルに意見したことはあるが、口を出されたことはなかった。
「あら、カルサベカトル様。ごぎげんよう。」
レイチェルは俺の方に身体を向けてそう言った。いつも通りの穏やかな微笑みを顔に浮かべて。
癪に障った。やはり、アレクに向ける表情の欠片さえない。それにそもそも、俺は呼び方も気に入らないのだ。アレクのことはいつの間にか名前で呼んでいるのに、俺は『カルサベカトル様』だ。シェーンだって同じであるのに。
「貴様に話があるのだ。」
「そうなのですか。いつもは話もないのに声を掛けていたのですか。」
「…っ。いちいち口答えするな。本当に女のくせに生意気だ。」
彼女は本当に生意気だ。だが、俺のものにしたら、彼女を俺の好きなように出来る。この生意気な口から、いずれ俺のことを求める台詞を嫌と言う程言わせてやる。
そう心に誓いながら、彼女の左手に右手を重ねた。そして、手の甲をそっと撫でた。作り物のようにスベスベとした感触に、少しだけドキリとした。だが、彼女は顔色も表情も少しも変えない。ただ、穏やかに微笑みながら、俺を見ているだけだった。
「少しぐらいは顔を赤らめたらどうだ。」
アレクの時みたいに、とは悔しくて言えなかった。彼女はアレクのことを見る時は、彼が何もせずともいつも頬を赤らめて、朱い瞳も潤ませている。あの恋する乙女の顔のほんの一欠片さえ、彼女は見せなかった。
「今はそういう場面でしょうか?」
「そうだ。男に手を撫でられているのだぞ。」
「そうですか。しかし、私は貴方様に好意を抱いている訳ではありませんので。好いてもいない御方に手に触れられても特に何も感じはしません。」
心がずしんと重くなったのが分かった。彼女は穏やかに微笑んだまま、言葉を紡ぐ唇以外、眉一つ動かしてはいなかった。
「お、俺だって貴様のことは気に食わない。大体こういう時は俺のことを立てて少しぐらいは恥じらうべきだろう。」
「そうですか。」
「あぁ。貴様は小賢しく生意気なくせに、こういう機転は本当に利かない。だから可愛気がないのだ。」
「そうですか。」
「大体、貴様は」
「お、お止めください、カルサベカトル様。」
ふいにレイチェルのものではない声が聞こえた。目を向けると、彼女と昼食を共にしていた女の一人が、震えながら俺を見ていた。
「レ、レイチェルに酷いことばかり仰るのはお止めください。」
「そ、そうでございます。前回に引き続き、今回もレイチェルに触れまでして、何をなさるおつもりなのですか。」
もう一人の女も先に話した女に影響されたのか、同じように震えながらそう言ってくる。
カッと、頭に血が上るのが分かった。コイツらは女のくせに、俺に意見してきた。俺より明らかに格下で、容姿に恵まれなかった故に勉学に力を入れるしかない醜女のくせに。
「なんだ、貴様達。俺に意見するのか。」
「「も、申し訳ございません。しかし」」
「黙れ。たくっ、大体貴様達はし」
ふいに唇に柔らかいものが触れた。意識を向けた先ではレイチェルが綺麗に微笑んでいた。うっすらと赤く色付く唇は三日月の弧を描いている。わかりやすく細められた目からは、瞳の色さえ見えはしなかった。
「カルサベカトル様。静かなところで二人でお話ししましょうか。」
レイチェルは俺に触れられていた手を離すと、その手を逆に掴んできた。そのまま導かれるように立ち上がる。唇から柔らかいものが離れた。目で追うと、それはレイチェルの人差し指だったと分かった。
「二人ともありがとう。私は彼と話があるから、気にしないで二人で過ごしてね。」
俺に背を向け早口でそう言うと、彼女は素早くそこから去った。手を掴まれたままの俺も彼女のなすがまま、そこから立ち去ることになる。小降りの雨が、俺達の身体を少しずつ濡らしていく。
「レイチェル!?」
「待ってっ。」
後ろから二人の女が彼女を呼ぶ声が、舞台上の役者の引き立てのために奏でられる音楽のように響いていた。
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