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7月(1)
この頃、誠司は家にいるときはいつも難しい顔をしている。家に帰ってくる時間も遅い。転職して、新しい職場に慣れるのも大変なのだろう、と先に帰宅した麻衣が食事を用意しておくが、朝、食卓を見ると、食べているときもあれば、手つかずの時もある。朝一の家事が、中途半端に残った食事を片付けることから始まることも多かった。
麻衣が誠司と入籍して2年が過ぎた。元々は麻衣と同じデパートで働き、同じ部署に配属になって出会い、付き合って半年ほどで結婚に至ったのだが、誠司はこの春に転職をした。麻衣のいない、新しい環境で自分の力を試してみたいのだという。麻衣も、転職するのなら子どもができる前がいいだろうと、特に反対はしなかった。しかし、会社が変わったことで、シフト制の麻衣の職場と誠司の職場で休日が合うことが少なくなった。今まで一緒が多かった出勤時間や帰宅時間もバラバラになってしまい、二人で一緒にいる時間は以前と比べて格段に少なくなってしまった。
そして、その時間を埋めようとしているのか、先にベッドに入っている麻衣にスキンシップを求めてくる。
「ん・・・おかえり。」
麻衣が寝ているところに、誠司がパジャマのなかに手を滑り込ませてくるのに気が付いて、うっすらと目を開きながら声をかける。
「疲れたよ・・・麻衣。」
そういいながら、麻衣のうなじに口づける。
「じゃあ、早く寝なよ・・・。」
「でも、眠くないんだよね。」
といいながら、パジャマのボタンを外していく。
「頭は冴えてるっていうかさ・・・。」
「体休めたほうがいいよ?」
「麻衣で、英気を養わないと・・・」
誠司も毎日頑張っているし、将来のために転職したのだから・・・と、麻衣は眠い気持ちを抑えて受け入れる。誠司が喜びそうな喘ぎ声を出す。不思議なもので、自分は望んでいなくても、体は少しずつ湿りを帯びていく。そのたびに、早く終わればいいのに、と思った。
入籍して一緒に暮らすようになってから、誠司は麻衣の都合構わず体を求めてきた。誠司が求めてきたときに断ると、表面上は理解あるようにふるまっていた。けれど、1年ほど経ったころだろうか。誠司が影で物に当たったり、イライラしているということに、気が付いてしまった。それからは、なるべく受け入れるようにしていたのだ。
そんなことが数か月続いたころ、誠司が食事に手をつけていない日が続いて、麻衣はついに苛立ちを口にした。誠司が連絡もなく酒とタバコの匂いをさせて帰ってきた日。ちょうど梅雨明けが宣言された日だった。
今日は打ち合わせが多くて疲れたな、作るのが面倒だなと思いながらも、帰宅してから夕食の準備をし、誠司の分も盛り付ける。連絡がないから仕事なのだろう、と先に食べ終え、片づけをしてソファで一息ついていると、玄関のドアの開く音がした。
「ただいま」
「おかえり・・・」
リビングに入ってくると、誠司から酒とタバコの匂いがした。苛立ちが心のなかでざわめく。麻衣は、心を落ち着かせよう、と深呼吸してから一言、問いかけた。
「・・・飲んできたの?」
「うん、軽く・・・」
麻衣は立ち上がり、テーブルに近づく。テーブルの上には、麻衣が帰宅してから用意した夕食が並んでいた。
「夕飯食べない、ってわかってる日は、連絡をくれない?残るのももったいないし・・・。」
「あー、うん・・・。」
誠司の面倒そうな表情とあいまいに返事に、麻衣の心がざわついた。
「もう、作らなくてもいいなら、私も楽になるんだけど?」
いやな言い方になってしまった、と誠司の方を見ると、赤い顔をした誠司が、ぐっと麻衣を睨んでいる。
「付き合いだってあるだろう。俺だって、早く帰ってきたいって思ってるんだよ・・・っ。それを、えらそうに・・・」
誠司はきんぴらの入った小鉢を掴んで麻衣のほうに投げた。皿は、麻衣の横を掠めて鈍い音を立てて壁に当たって落ち、割れた。小鉢のかけらと、きんぴらが床に散らばる。
麻衣は絶句した。とっさに、自分の両親の顔が浮かんだ。
次の瞬間、はっと我に返った誠司はすぐに謝った。
「ごめん・・・っ。本当に、ごめん・・・っ。・・・けがしてない?」
慌てて麻衣に駆け寄る。
「俺、なんてこと・・・」
涙を浮かべて謝る誠司をその場に残して、麻衣は無表情でゴミ袋と掃除道具を取りに向かう。
「片付けよう。」
呆然と立ち尽くす誠司にゴミ袋を渡しながらぽつりといった。
「壁、傷ついてないかな・・・。結構、破片って飛ぶから、部屋全体掃除機かけないと。」
麻衣は、誠司のほうを見ずに冷静に言い放った。
「麻衣・・・」
「危ないから、先に片づけよう。」
しゃがんで破片を拾う麻衣の手と声は、震えていた。
「俺が、やるから・・・。ごめん、麻衣。」
誠司が麻衣の手を取ろうと手を伸ばしたところを、麻衣は立ち上がって避ける。
「・・・じゃあ、お願いしようかな。私、お風呂に入ってくる。」
麻衣は浴室へ向かった。扉を閉じて、深呼吸をして服を脱ぐ。シャワーを浴びている間、ずっと動悸がして、体が震えがとまらなかった。
これが、麻衣が誠司と結婚して、3年目の夏が始まったころだった。
それから、麻衣は誠司にあまり感情を見せないようになった。自分が言葉にしなければ、きっとなにも起こらない。心のなかでだけ、文句をいっていればいいのだと。
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