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序章
18××年12月。
しとしとと雨が降っていた。時折屋根を伝った雫がポタ、ポタと規則的に雨水樽の中に落ちている。
俺はもう動けなかった。どことも知れない宿の外壁にもたれてずるずると座り込む。
———俺はここで死ぬのか。
それでもいい、と思った。
仕事もろくにつけず、金もない。借りている部屋の家賃も滞納したままだ。生きていたってしょうがない。そもそも俺に生きる価値なんてありゃしない。
そんなことを延々と考えているとガラガラと重い車輪が回る音が聞こえてきた。
屋台車が来たらしいが、それは何を思ったか、俺の前で止まった。
「あの…大丈夫ですか?」
俯いているせいで顔は見えなかったが、声からして年端も行かない少女のようだった。ねめつけるように見上げてみた。暗くてよく見えないが10を超えたことだろうか。
「…」
答える気力もなかった。
少女はしばらく俺をのぞき込んでいたがふと離れる気配がした。こんなどうしようもない男は今日中に死んでしまうから見なかったことにしようとでも思ったか。
しかし、少女の気配はすぐに俺のそばに戻ってきた。
「はい、どうぞ」
声と同時にふわりと暖かい湯気と優しい匂いが届いた。
ゆっくり顔を上げると、長い金髪とエプロン付きのワンピースを揺らしてほかほかと湯気が出ている紅茶のカップを少女が俺に差し出していた。
「…何の真似だ」
そう言われると思っていなかったのか、きょとんとした後
「おじさん、寒そうだったから。売れ残りだけど」
「…」
嘘はついていない。単純に俺に暖かいものをと思っている善意だ。
そう分かったとたん、俺はカップを受け取っていた。冷えて痺れていた手が熱いカップに当たって痛い。が、一口飲んだ時、止まっていた体中が一気に動き出したような気がした。
「よかった、ちゃんと元気だね」
少女は無邪気に俺を見ている。今更ながら恥ずかしさがこみあげてくる。
「…あ、ありがとな」
「…動けそう?」
「ああ、だいぶ楽になった」
「そっか、それはよかったね」
「礼がしたいんだが…あいにく金がねぇんだ」
「いいよ、お礼なんて」
少女はブンブンと手を振って固辞する。
「困った時はお互い様、でしょ」
じゃあまたね、と屋台車を押して帰る背中を、俺は茫然と見つめていた。
何だったんだろうか、さっきのあれは。幻覚でも見ちまったのかと思ったが、温まった手と腹が否定している。
「天使様を使わせたってことは俺はまだ死ねないってことかい、神様よう…」
今だに赤ん坊のように泣き続ける空を見やった後、アパートに帰るために立ち上がった。
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