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第一章
いつも工場の吐瀉物(スモッグ)が空を覆いつくす直前。ほんの少しの青空が顔を出す。
息も凍り付く寒さのロンドン橋の入り口に、運んできた屋台車を置いて火をつけてお湯を沸かす。その中に紅茶の出し殻を二握り入れて茶を煮出す。ついでにサイドメニューのサンドイッチのパンを切っていく。何枚か重ねて斜めにカットして三角形に。
と、出勤時間になったのか、どやどやと人が橋を目指してやってきた。
「いらっしゃいケニーおじさん」
「やあアリス。今日も一杯頼むよ」
ケニーはあごにひげを蓄えてひょろりと背の高い男だ。
用意したカップに少女、もといアリスは紅茶の葉が入らないようにお玉で煮出した茶をすくっていれたものを差し出す。
「今朝は一段と冷えるねぇ。アリスも防寒はしっかりね」
飲み干したカップを受け取ってバケツの水で洗う。
「まあ、おはようアリスちゃん。私にも一杯。それとハムサンドね」
やってきたのはオリヴィエという女でグリーンのドレスにショールを腕にひっかけている売春宿のオーナーだ。
「おはようオリヴィアさん。待ってね、すぐできるわ」
先程と同じように紅茶を注ぎ、切っておいたパンに半円状のハムを挟んで手渡す。
「うん、おいしいわ。やっぱり朝は紅茶がないと」
「そうね。紅茶は『あたたかい食事』だもの。これなしでは朝が来ないわ」
顔見知りや常連が多くなったこの店も何とかやれている。
そういえば、昨日帰り道に見かけた男性はどうしただろうとふと思い出す。あのままあそこにいただろうか。それとも家に帰ることができただろうか。
「どうしたのアリスちゃん、うつむいちゃって」
「あ、ううん、何でもないの」
ぱっと顔を上げた彼女はいつもどおりの笑顔だった。
「そう、ならいいんだけど。それじゃあ良い一日を」
「ありがとう。オリヴィアさんも良い一日をね」
カップを受け取って手を吹て見送ったその時、ふいに視線を感じた。
「あ、おじさん」
昨日宿の壁にもたれていた男性だ。
「よう」
「おはようおじさん。よく眠れた?」
「…おかげさんでな」
昨日は暗くて見えなかったが、ぼさぼさの黒い髪に、無精ひげが生えている。服はどこかから拾ったのか、あるいは買ったのか。変色したシャツと焦げ茶色のズボンといういで立ちだ。
「まさかこんなところであうとはな」
「奇遇なことってあるのね」
「それでよ…これから日雇いの仕事の競りにいくんだ」
このロンドンでは仕事は早いのも勝ちの取ったもの勝ちだ。近年の外国人の大量流入によってさらに激しさを増し、何日も仕事にありつけないことも珍しくない。どんな汚れ仕事だって移民たちに取られてしまうのだ。
「そっか…見つかるといいね」
「おう、祈っててくれよな」
「じゃあ、景気づけに」
と、アリスはカップに半分茶を注いで男に渡す。
「おいおい、金はねぇって言ってるだろ」
「だから、半分だけ。みんなに内緒よ?」
そういたずらっぽく微笑んでそっと差し出してくる。
「…このぶんも必ず返すからな」
「気にしなくていいのに。でも、そこまで言うなら待ってるから」
「おう、期待しとけ」
そういってカップを返すと
「じゃあな、行ってくるわ」
二っと笑って歩き出した。しかし数歩歩いた時突然振り返って叫んだ。
「なあ、あんた!名前は?!」
急に聞かれて驚いたのか一瞬面食らったが、負けじと声を張り上げる。
「アリスよ!」
「俺はジャン!またな!」
「ええ、また会いましょう!」
そうして今度こそ競り場に向けて足を運んだのだった。
その日の夕方。
工場帰りの客の分の紅茶の煮出し作業をしていたアリスはふと群衆の中にジャンの姿を見た。
「ジャンさん!」
呼びかけるとこちらに手を上げながら近づいてきた。
「今日、ダメだった。船の荷物積み作業さえいっぱいだった」
「あら…」
「ま、珍しくないことだしな。また明日取りに行くさ」
「前向きなのはいいことですね」
フンっと意気込んだところで屋台車のわきの詰まれたレンガに腰をドカリと降ろして膝に肘をついてあごを乗せた。そして今まで疑問に思っていたことをポロリとこぼした。
「…なあ、アリスは何でこの店やってんだ?親はどうした?」
「親…」
アリスは長いくせっ毛を軽く耳にかけて少ししょんぼりとした顔をした。
「パパとママは、少し前にお星様になったんだってケニーおじさんに聞きました。空から私のことを見てくれてるんだって」
そういって服の胸元から細いひもでつながれたロケットペンダントが出てきた。パカリと開けば家族3人の小さなポートレートが入っていた。
「この屋台も元々はパパがやっていたんだけど、いなくなっちゃったから私がパパの夢を継ぐんだ」
「夢?」
こんなご時世で、しかもこんな底辺の仕事に何の夢を持てるというのか。
困惑するジャンに向かってまるで舞台役者のように大きく手を広げて、満面の笑顔で告げる。
「一日辛い仕事に向かう人たち、返ってきた人たちを元気にお迎えできる店にするんだって」
ジャンは目を見開いた。こんな荒んだ、夢も見れやしない現実の中でそんなきれいすぎる夢を持った「大馬鹿野郎」がいたなんて。
「だからも私もパパの心を引き継いでいきたい。そうすれば私たち家族は離れ離れになんかならないんだから!」
「そうか…」
それ以上の言葉は無粋以上の何でもかった。
両親を早くに失くし、父の家業を継いでいる。この地獄(ロンドン)では奇跡のような幸運さだ。
下手をすれば半強制的に身売りをせざるを得なくなるこの街で紅茶で生計を維持してるとなるとよほど奇跡とも言っていい。
「親御さんたちはどうだった?」
「パパもママも優しかったわ。パパは夜まで紅茶を売って、ママは縫物の仕事に行ってそれで生活してた」
「そうか…うちとは大違いだな」
「ジャンさんのパパとママは厳しかったの?怒りんぼ?」
「怒りんぼの方さ、毎度毎度、俺が何をするにも何だかんだと口出してきやがって、あげく結婚話まで勝手に持ってきやがった。それで大ゲンカしてさ、ロンドンまで飛び出してきたわけ。まあ、都会への憧れってのもあるにはあったがね」
「そうなんだ」
ジャンの話に聞き入るように体を傾えていたアリスが姿勢を戻した。
「ここも住めば都だって、オリヴィアさんがいってたわ。ここにもちゃんと幸せはあるのよ!」
「そうかもしれねぇな」
まさに天使のように天真爛漫ににっこりと子供らしく笑うアリスにつられて知らず口角が上がる。
「わたしも辛いこともあるわ、冷たいお水でコップを洗うのって手が痛くなるし、お鍋でやけどしちゃったりお客さんが全然来てくれないこともあるけど、いろんな人が「ありがとう」
ってカップを返してくれるとすっごく幸せなの」
「そうか」
「私この仕事が好きよ。こういうのを「誇り」っていうのよね?」
「そうだな、立派な誇りだ」
「ふふ、そうでしょ?」
「いいね。…羨ましいよ」
「?今なんて…」
「なんでもねぇよ」
パンッと膝を叩いて勢いをつけてジャンは立ち上がった。
「そんじゃ、またなアリス」
「また明日も来てね。約束よ」
「気が向いたらな」
そういうとジャンは手を振ってその場を後にした。
(生きていく誇りね…)
生まれてからジャンにはとんと縁のなかった言葉だ。
(親父に追い出されて、ここに流れ着いて、次の食い物にありつくだけしか考えられねえ俺とは全然違ぇな)
(明日こそは仕事見つけねぇとな)
ベットなんて上等なものでない。そこかしこから拾い集めた布を集めてクッションのようにした中に埋もれて、寒さをしのいで眠りについた。
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