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七生
七生はひっそりと退社した。送別会も無し。会社の外で哲平、花と話をした。
「いいのか、それで」
「はい……東京にいると思い出しちゃうから。親元でのんびりと生活することにしたんです。就職先ももう見つけました」
「そうか。寂しくなるな」
哲平は引き留めるつもりがない。花もだ。
子どもは悩んだ末に中絶をした。心に傷を負って、このままR&Dで働くことなど出来ないだろう。
「ご両親は全部知ってるのか?」
花は敢えて聞いた。
「話しました……洋一さんが何をしている人かは話せなかったけど……外国勤務になった人だからって。それで別れたって話しました」
きっとあれこれ聞かれたことだろう。それを1人で言い逃れるのも辛かったに違いない。
「相手の人に話をしたいって父が言うから……相手には子どもが出来たことを言わなかったって言いました。もう赴任してるって。怒られたけど……ものすごく怒ったけど……母さんが庇ってくれて」
親にしても悔しいに決まっている。いつも女が泣きを見る世の中だと。
「今はもうその話は避けてくれるようになりました。少し寝込んでからとても優しくなって」
娘を思えばこそだ。
「河野さんにご挨拶、したいんですが、でも」
「伝えるよ。大丈夫、そんなこと心配しなくていいんだ」
「花補佐……ずっと良くしてくださったのに申し訳ありません……たくさん心配してくれて」
「いいって」
哲平は5月31日付で辞めたいと言った七生を一ヶ月引き留めた。 6月30日付。ボーナスが出る。
「部長もありがとうございます。おかげで新生活の準備も困らなくて助かりました」
「こんなことしか出来ないからさ。餞別代りってヤツだ」
「もうこっちのことは全部忘れていいんだよ。いくらだって道は開けるんだから。七生なら大丈夫!」
ありきたりのことしか言えない自分が情けないと思った。妊娠に気づいて七生にしてやれたことは洋一との仲を引き裂いたことだけだ。
「みんなにも会わずに辞めちゃうけど」
「そっちは俺に任せとけ。病気療養で休職としてあったからみんなも納得するよ」
「仕事も中途半端で」
「七生、もういいんだ。お前、責任感強いからあれこれ考えちゃうんだろうけど。けどそれは次の職場で活かせよ。桜井とは違っていいとこばっかりあるんだからさ、きっと大事にされるよ」
桜井のことを引き合いに出され、やっと七生に笑顔が生まれた。
「あの人と比べないでください」
哲平は腕組みをし、真剣な顔で言った。
「そうだな、あれ、クビに出来ないのが俺は悔しい」
今度は声を上げて笑った。
哲平は立ち上がって手を差し出した。花も立ち、そして七生が立った。哲平と手を握る。そして今度は花と。
「あの時……花補佐に気づいていただいて良かったって思ってます。今はそう思えるんです。ありがとうございまし た」
「良かったんだよね」
「良かったんだ。説得されたわけじゃない、自分で出した結論だ。今の俺たちに出来るのは、遠くから七生が前を向いて歩いて行けるように祈ることだけだ」
「河野さんに伝えなきゃね」
「今夜寄ってくか。久しぶりにゆっくり飲みたい」
「じゃ、電車で帰る?」
「そうだな」
2人はなごみ亭へと向かった。最後に笑顔を見ることが出来たのが救いだった。
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