405人が本棚に入れています
本棚に追加
本格的に
異動シーズン到来。会社員なら避けようのない上からのお達しだ。哲平はこの重荷を花に背負わせなかった。自分こそがR&Dの部長だ。なら長たるものの責任として冷静に事を運ばなければならない。
対象として名前が挙がっていたのは、池沢、野瀬、広岡、和田、石尾、完、2年生社員2人。
池沢はありさのことがある。そのため候補から退けた。残るは6名。
「ここまで居座らせてもらったんだから行きますよ」
そう応じてくれたのは広岡だ。
「野瀬さんは子どもが生まれたばかりだから気の毒です」
だが野瀬は意外にも受け入れた。
「小さい時だからかえっていいかもしれない。何年ですか?」
「アメリカに3年間の予定。いいの?」
「部長、行け! って言って構わないですよ。困るでしょ、あれもこれも残したら。40代になってからじゃきついけど物心つく頃には帰って来れるし。この辺でR&Dから海外が出れば風当たりがマシになる。いい頃合いです」
あっさりとベテラン2人が決まったから後は決めやすかった。野瀬がアメリカ。広岡と石尾が横浜支社。大阪に和田。若手1人が北海道。
総勢5名の異動だが、この穴ならなんとか塞ぐことが出来ると哲平は踏んだ。代わりに入ってくるのは大阪、横浜、アメリカ、インドからベテランが各1名。インドから帰国するのは、哲平と仕事を共にしたこともある心強い女性だ。人数としては減っても機動力としては今までと遜色無い。
「そうか、決まったか」
なごみ亭、奥のテーブルだ。哲平が肩の荷が下りたような顔でビールを飲んでいる。花は夏風邪を引いて昨日から休みだと言う。
「野瀬さんが『うん』と言ったのが大きかったです。お蔭ですんなり決まった。役員会からも皮肉っぽい誉め言葉を頂戴しましたよ」
「どうせ『河野は頑固だったが』みたいなことだろ?」
「当たり! ……良かったのかな、これで」
「決定したら悩むな。悩んでいいことなんか一つもないぞ。変えようがないんだからな」
「そうだけど」
「ならそんな顔は俺の前だけにしとけ。上に立つ人間だ、迷いは腹にしまえ。大滝さんとやっていくなら神経を太く持つんだな」
哲平は笑った。
「あの人、ホントに容赦ないんだ。ベテラン半分挿げ替えろなんて言ってさ。『頑固もんの後だ、それくらいやらんと役員は納得せんぞ』」
「お前、物まね上手いじゃないか」
「役員会の打ち上げでも評判良かったんだよね! 『板垣がいなくなってせいせいする!』」
蓮は吹き出した。
「大滝さん、怒ったろ!」
「太っ腹見せてくれましたよ。奢ってもらいました」
蓮は真面目な顔になった。
「あの副社長の手綱を取れるか? 手強いぞ」
「もち! そのために頑張ってんだから。せっかく広岡が横浜、和田が大阪に行くんで俺もあちこち顔出して地盤固めするつもりですよ」
「まるで選挙だな」
そういうことが蓮には出来なかった。自分で出来るとも思っていなかったしやりたくもなかった。だからこその哲平推しだ、今は我が子が旅立つのを見ているようで楽しい。
少し哲平の顔が曇った。
「どうした?」
「花だけど」
「ん?」
「あいつ、夏も無理しやがって。去年以来無理が重なるとガクッと体にしっぺ返しが来るんですよ。けど例のごとくギリギリまで辛い素振り見せないから」
「悪いのか? ただの風邪じゃなくて」
「花の面倒を見るのがいなくなったんだよね、オフィスで。今なら分かるよ。ジェイがどれだけ花のオーバーワークを支えてたか。だめなんだ、誰もあいつみたいに花をカバーできない。ジェイならきっと様子が変われば気づくんだけど」
ジェイと花の間には阿吽の呼吸があった。ジェイの代わりが務まる人間がいないのは確かに痛手だろう。花もジェイ以外に自分の素顔を見せないだろうから。
「俺じゃだめだなんてショックだよ」
「違うだろ。花はお前にだからこそそんな自分を見せたくないんだ。……今度の土曜、ジェイを花のところに行かせるよ」
「わ! 助かる! しばらくはあいつを残業からも解放するつもりだからさ」
「そこに行くとお前は化け物だな。どんなにきつくても平然としている」
「鬼がそれ、言うかなぁ」
花の様子を知ればジェイは心を痛めるだろう。最後まで花のそばを離れることで迷っていたジェイ。それをジェイの体を考えて無理に辞めさせた。
(辛い思いをするかもしれない……でも今の花を外から支えることのできるのもジェイだけなんだ)
最初のコメントを投稿しよう!