匠海のけじめ

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匠海のけじめ

  「明日は市場に行くの?」  風呂から出てきた兄に浴衣を手渡した。匠海のパジャマは浴衣だ。楽でいいのだと言うけれど、沙耶はやめてほしいと思っている。寝坊した兄を起こすとき、あられもない姿など見たくもない。 「うん。蓮ちゃんが行くって言い出したから俺にしてもらった。市場とも長い付き合いになると思うからさ」 「本当に永久就職なんだね」 「もちろん!」 「私も仕事上手く行かなかったら使って欲しいなぁ」 「甘く見ちゃだめだぞ。他の飲食店とは比べもんになんないほど厳しいんだから」  匠海はそう思っている。期待を持たれている。何よりも気にかけてもらっている。だが、それイコール甘えていい、ということではないと。寧ろ逆だ。一生懸命の姿にこそご褒美があるのだ。匠海の好きな言葉は『誠心誠意』だ。 「お兄ちゃん、また(ひとし)くんたちの誘い断るの?」  均は高校からの友だちだ。だが思うところがあってその付き合いを匠海は断ち始めている。 「あいつら、俺のところをたまり場と勘違いしてる。親がいない家だから好き勝手していいと思ってるんだよ。俺はそんな家にしたくない」 「でも……均くん、いい人だけどな」 「意志が弱いんだよ。確かにあいつ自身はいいヤツかもしんないけど、今つるんでる連中と俺は仲良くなりたくないんだ。お前さ、俺のいない時に均、入れんなよ」 「そんなことしないよ!」 「もう前の均じゃないんだ。そう思っとけ」  沙耶が均に憧れているのを知っている。あくまでも憧れだ。有名なストリートダンサーの事務所に受かったのに、意志の弱さから禁止されたタバコを止められずクビになった。大学にも行かず、あれからプー太郎生活で親のすねを齧っているのが現状だ。沙耶にはそんな男と付き合ってほしくない。 「お前、学校の教師になりたいんだろ? 今は頑張るのが先だよ。兄ちゃん、応援してるからさ。おやすみ!」 「おやすみなさい」  肉体労働とも言える仕事は、兄をいつも快眠の世界にすぐに運んでいく。沙耶は均のことを思いながらやるせないため息をついた。  朝6時20分。目覚ましを2度止めて、やっと沙耶は目を覚ました。匠海はとっくに市場に向かっている。テーブルには朝食が載っていて、味噌汁を温めればいいだけだ。  洗濯物を干して出かける支度をしているところに電話が鳴った。 『俺! 均!』 「均くん?」 『悪いな、朝っから。匠海は?』 「もう仕事に行ったよ。今日は市場なの」 『ラッキー! 悪いんだけどさ、お前んとこ、ちょっといさせてもらえないかな、匠海が帰ってくる前には出るからさ』 「え、でも」  釘を刺されたばかりだ。いくら好きでも兄の指示を無視はできない。 『たのむよぉ、夕べ仲間がいちゃもんつけられちゃってさ、バイクで追いかけっこ! 家がバレるのヤバいから(かくま)って欲しいんだ』 「ウチはどうなるの?」  バレるとヤバいような相手なら、見つかったらこの火口(ひぐち)家はどうなるのか。そこは何も考えていないらしい。 『関係ないって突っぱねちゃっていいから。迷惑はかけないよ!』  少し押し問答が続く。均は沙耶の気持ちを知っている。だからそこにつけ込んでくる。 『今度の休みにデートしようよ。だから、ね、お願い!』 「……お兄ちゃんには内緒にしてね?」 『もちろんだよ! バレたら殺されるのは俺だよ』 「分かった。何時ごろ来る?」 『実はもうそばに来てるんだ。今行っていい?』 「じゃ、待ってる」  本当にそばにいたらしい、チャイムがすぐに鳴った。 「いらっしゃ……1人じゃないの?」  均の後ろからまるでなだれ込むように3人の若い男が入ってきた。 「大丈夫だよ、俺のダチ。大人しくしてるから。わ、味噌汁のいい匂い! 飯ある? 腹減ってるんだ」  すぐにタバコに火をつけた男に近寄って口先からパッと取り上げた。 「なにすんだよっ」 「タバコ、吸わないでください! 兄はタバコが嫌いなんです!」 「窓開けりゃいいだろ」 「やめろよ、せっかく冷房効いてんだからさ」  沙耶をそっちのけで話が進んでいく。 「均くん、私困る」 「ごめん! 今日だけ。ね。今日だけ。それよりみんなに飯、頼むよ」  2人暮らしだから米は2合しか炊いていない。沙耶は仕方なく米を研ぎ始めた。  
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