匠海のけじめ

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   炊飯器をセットして居間に戻ろうとした沙耶に彼らの話が聞こえた。 「今日だけって言っちゃったんだから」 「ここ、いいじゃん。その匠海とかっての、留守が多いんだろ? 自分の女なんだから言うこと聞かせちゃえよ」 「そういうんじゃ」 「ええ、まだ唾つけてないのかよ! じゃ、俺いただき!」 「裸にひん剥いちゃってさ、モノにしようぜ。そしたらここは……」  そこまでしか聞かなかった。玄関に行き、靴を履きながら大きな声を出した。 「均くん! 卵買ってくるから!」 「いいよ、そんなの!」  均が玄関に来る前に沙耶は飛び出した。出かける用意をしていたから携帯はジーンズのポケットに入っている。  外に出て自分が震えていることに気がついた。ドアを振り返る。後は走った。どこでも良かった、捕まりたくない。あちこちジグザグに通りを抜けて、震える手で携帯を開いた。なごみ亭はモーニングの最中だ。だが沙耶には兄しか頭に浮かんでこない。店に直接かけた。 『はい、なごみ亭です』  落ち着いた声はマスターの蓮ちゃんだ。声が震える。 「あの、沙耶です。兄、お願いできますか?」 『沙耶ちゃん? いいよ、今呼ぶ。匠ちゃん!』  ほっとした。涙が滲んできた。もう大丈夫、小さな声で呟く。 「もう大丈夫」 「匠ちゃん! 電話!」 「はい!」  テーブルを拭いていた匠海は手を止めた。 「俺が続きやるからいいよ」  ジェイが引き受ける。軽く頭を下げて電話に向かった。 「沙耶ちゃんだよ」 「沙耶? なんで……すみません、忙しい最中に」 「そんなこといいんだ。ちょっと様子が変だった」  匠海は保留になっている受話器を取った。 「俺。どうしたんだ、モーニング中だぞ」 『ごめ……お兄ちゃん、ごめんなさい、私、……』  涙声だ。いったい何があったのか。 「待て、裏行くからさ、いったん切るぞ。携帯で話す。待てるか?」 『うん。待てる』 「すぐかけるから」  匠海はキッチンの蓮に声をかけた。 「裏、いいですか?」  携帯を蓮に見せた。 「いいよ。こっちは大丈夫だから」  こんなことは初めてだから蓮も気になっている。匠海はスタッフルームに入ってすぐに電話をした。 「どうしたんだ、急に。大学は?」 『行ってない、行けないの』 「なにがあった?」 『均くんが……』  沙耶は泣きながら全部話した。匠海の顔色が変わっていく。 「モノにする、そいつらがそう言ったのか」 『うん……ごめんね、あれだけお兄ちゃんがダメだって言ったのに』 「それでお前、今どこだ?」 『ひので幼稚園がそばにある』 「今チャリで行くからそこにいろ。いいな? すぐ行くから」 『うん、お兄ちゃん、ごめんね』 「よく電話した。褒めてやる」  小さい笑い声が聞こえたから安心して電話を切った。  スタッフルームから頭だけ出した。 「蓮ちゃん」  気がついた蓮がそばに来る。 「どうした、何かあったのか?」 「すみません、この後ちょっと休みもらっていいですか? 用が終わったら戻るので」 「構わないよ。トラブルか?」 「沙耶がちょっと絡まれて」  匠海は簡単に説明した。 「それでどうする?」 「追い払います。俺んちなんで」  落ち着いている。このなごみ亭でいろんなことを見てきた、やってきた。 「そうか。沙耶ちゃん、連れてくわけじゃないんだろ?」  ちょっと考える。確かに一緒には連れて行けない。 「ここに来るようにすればどうだ? ケアしとくから。安心だろ?」 「はい!」 「気をつけるんだぞ。なにかあれば連絡しろ、俺たちを頼れ」 「ありがとうございます。行ってきます!」  そこには逞しい家長の姿があった。  
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