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和田 秀雄
「いよいよ大阪か」
「ええ。嫁と子どもたちは食い倒れの街だって喜んでますけどね」
いつもよりしんみりした和田の声。年末も近くなり、1月から異動が決まっている和田は、このところ続けてなごみ亭に来ている。
入社以来ずっと蓮の下で鍛えられたのだから大丈夫! と哲平に太鼓判を押されているが、不安というよりホームシックになるのではないかと心配している。
「住めば都って言うぞ」
「そうだろうけど」
自分が大阪に馴染めるかどうかも不安の一因となっている。
「子どもたちは転校に抵抗ないのか?」
「無い無い。そんな可愛げも無い。大阪って子どもたちの間じゃ一種のステイタスを感じるらしくって、友達なんかにも羨ましがられちゃって。あいつら、お笑い芸人になっても驚かないかもしれない」
「本をしっかり読ませろよ」
蓮は息子が池波正太郎の本を読み始めたと聞いて、ほくほく顔だ。
「知識は力だ。この世の中で一番の武器になる。全部読み終わったら連絡しろ、次の本を送ってやる」
いつもなら笑い飛ばすのに、和田は涙が滲んできた。
「蓮ちゃん、ありがとう。このご恩は忘れません」
「おい! 二度と会えないような言い方をするな!」
今日はジェイが風邪を引いて自宅で寝ている。見舞いをする、という和田を止めた。
「この時期に風邪が移っちゃ困る。哲平にも怒られるから治るのを待て。まだ来るだろ?」
今はクリスマス前。和田は我慢した。なにがなんでも異動前にジェイの頭をぐちゃぐちゃにかき回したい。自分だけがやっていないような気がして心残りだ。
「Annaが用があるんだって言ってたよ。今度寄る前に電話くれないか」
「え、なんだろう?」
「さあな」
Annaはクリスマスプレゼントに、とR&D、馴染みのお客さんたち全員にお手製のハンカチを作ってある。
「これぐらいの数、どうってことないのよ。国ではいつもクリスマス前に教え子たちに作ってたんだから」
その分はすでにアメリカに送っている。家を預けたマギーが渡してくれることになっていた。
そのハンカチを和田に先に渡しておきたい。そうAnnaは考えている。
「若く見えるけどAnnaっていくつなんですか? 女性だから聞きにくくって」
「71だよ。Halley、つまりジェイの父親を19で産んだそうだ」
「へえ! やっぱり若い! 60って言っても通用しますよ」
「生き方が若いんだろうな」
「じゃ、18には結婚してたんだ」
「17歳の時だと言っていた。結婚してから大学に行って教師になったんだと。その時にはすでにHalleyは3歳だったってことか」
「すげぇ…… その……ジェイのお父さんっていくつで亡くなったんですか?」
「27歳だと聞いた」
「若い…… 心残りだったでしょうね……」
「そうだな。ジェイがHalleyによく似ていると喜んでいたよ。ジェイをもっとがっしりさせるとHalleyそのものらしい」
「良かったですね、2人が会えて」
「ホントだな」
奇跡と言っていい巡り合い。それを思うと心が温かい。
「和田」
「はい?」
「お前は本当にいいヤツだな。R&Dにイヤなやつなんていないが。仕事でも付き合いでもお前には欠点が無い。だがな」
「はい」
「お前自身、大きな壁に突き当たったことが無い。いいか、困った時や苦しい時には誰でもいい、俺でもいい。胸にため込まずに吐き出せよ。人生、ずっと順風満帆がいいに決まっている。だがもし…… すまん。初めての異動で励まさなきゃならんのに」
和田の頬にほろっと涙が流れた。
「河野さん……いつだって俺には河野さんがいるって思ってます。そんな時が来たら頼りたいです。構わないですか?」
「もちろんだ! 俺でいいならいつでも、何時でも構わない。頼ってくれたら嬉しい」
「はい」
部下を見送る。自分はその思いをあまり味わわずに済んだ。幸せだったと思う。
自分はこんなに感傷的だが、きっと哲平は笑って送り出す。その強さが自分には無かった。新しい風を哲平に残すことより、馴染み深い部下を残すことを選んだ。
「クリスマス、ここに寄っていけ。ローストチキン、用意しておいてやる」
「嫁が喜びます」
「ん」
蓮は和田のグラスにビールを注いだ。
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