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初産
陽子にお産の兆候が来ない。今臨月だが、陣痛が来ないことで陽子にストレスが溜まっている。
『陽子ちゃん、焦んなくていいのよ。初産って遅れることが多いんだから』
「高齢出産、とかって影響ないですか?」
電話の相手はありさだ。この頃心配して電話をくれる。だから縋るようにあれこれと聞いてしまう。真理恵にもだ。
『こら! じゃ、私はどうなるの? 私の初産は34よ。あんた、まだ33でしょ? 高齢出産って言うのは普通35過ぎてからなんだから』
そう言われて安心する。同じことを医師にも聞いたのに、仲間から聞いた方が安心できる。
『あんたのひろちゃんはよくやってくれるって聞いてるけど』
「ええ、あれこれ心配して」
『でもね、それが良くなかったりするのよ。なるべく自分で動かないと。動き惜しみをすると出産が遅れたりすることがあるの。動きなさい』
「はい」
浜田は浜田でやはり沙都子のことが心の隅にある。育たなかった自分の子ども…… だからつい陽子を手伝ってしまう。家事も先取りしてしまうのだ。
「もうやらないで!」
ある日突然陽子がキレた。目が真剣に怒っている。
「ひろちゃんがやるから陣痛が遅いのよ!」
「そんな、俺は陽子が心配で」
「もうやめて! ちゃんと生まれなかったらどうするの!?」
浜田の唇が震えた。その瞬間、陽子は言い過ぎたと感じた。
「ごめ」
「ちょっと出て来る」
浜田はコートを掴んで外に出た。
7時過ぎ。行く先はなごみ亭だ。
「いらっしゃい!」
源と匠ちゃんの声が景気よく響く。
「ひろじゃないか、どうした?」
冴えない顔の浜田を蓮が心配する。
「浜田、こっち!」
残業してここに寄ったのだろう、野瀬と柏木が飲んでいた。浜田は2人と合流した。
「生」
「あいよ! 生1つ!」
蓮が答えて光ちゃんがテーブルに届けた。
「お疲れっ」
「お疲れ様」
ごくごくっとビールを飲む様子に2人は違和感を覚えたらしい。
「なんかあったのか?」
「いや……」
「言えよ、そんな顔、お前らしくないぞ」
野瀬が優しい。
「なに、夫婦喧嘩?」
柏木が半分好奇心で聞く。浜田がケンカするところが想像つかない。
「そんなんじゃないよ。……陽子が荒れててさ」
「荒れてんの?」
「うん。お産が遅れてるからそれが俺のせいだって」
「なんで!」
柏木が驚く。
「俺がなんでもやるせいで陣痛が来ないんだって。三途さんに吹き込まれたんだよ」
「ああ、手伝い過ぎってヤツ?」
野瀬が腑に落ちたように言う。浜田はぱっと野瀬を見た。
「野瀬さんとこも?」
「俺んとこ、逆。どうしていいか分かんないからさ、なにもしなかった。そしたら弘子がヒステリー起こしちゃってさ、それを向こうのお母さんが宥めたんだ。あんまり動かないとお産で苦労するって」
「そういうもんなんだ」
「俺んとこはまた違うけどね」
今度は柏木だ。
「なにせ勝手が分かんないだろ? 日本と考え方も違うし。何でも自分でやっちゃうから心配だったよ。お産はベルギーでしてくれたからそういう意味じゃ助かったけど」
「立ち会わずに?」
「俺、立ち合いって嫌だったからさ、ちょうど良かったんだ。仕事にかこつけて、生まれてからベルギーに行った。浜田は立ち会うの?」
「うん。立ち会う。俺は見守ってやりたいし。生まれるとこ、ちゃんと自分の目で確かめたい」
そうすればあの時の罪悪感が消えるような気がする。浜田なりの罪滅ぼしだ。
「へえ! 俺そんな勇気無いよ」
野瀬も立ち会っていない。野瀬は血が嫌いだ。ちょっとしたケガでも大騒ぎする。
30分もすると浜田の携帯が鳴った。
『ごめん……どこにいるの?』
「なごみ亭。今野瀬さんと柏木と一緒」
『私、八つ当たりしちゃって』
「いいんだ。陽子の言う通りだった。手伝い過ぎも良くないんだって2人に聞いたところ」
『そう……本当にごめんね。私不安で』
「俺がいるから。なんでも言ってくれよ。一緒にやっていこう」
『帰ってきてくれる?』
「もちろんだよ! もう今帰るとこ」
立ち上がった時にはすでに片方の手が財布を掴んでいる。野瀬と柏木は(聞いてらんない)とばかりに手でしっしっと浜田を追い払った。電話片手に軽く2人に頭を下げながらレジに向かう。
「じゃ、後で」
携帯を切ってから1000円札を2枚出した。相手は蓮だ。
「いいよ、俺の奢り」
「だって」
「なんかあったんだろ? いいから行け。今度は陽子と一緒に来い」
「……ありがとう」
「おやすみ。陽子によろしくな」
「うん。ご馳走さま」
外はネオンがきらめいている。月のない空を仰いで浜田は歩き出した。
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