青からはじまる

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過ぎゆく時間に、興味なかった。 幼い頃から、いつもそうだった。高校の時彼が死んだときも、どこか私は冷静だった。過ぎゆく時間の一場面。そんな感覚。どんな態度をとればいいのか、必死で内面を探ったけれど。そんな状態で、取りあえず彼が死んだという事実は過ぎていった。今はあの人と付き合っていた、そんな記憶だけが、ある。そんな状態でも、時間だけは冷淡に過ぎていく。そんな冷淡に過ぎた時間に、温かみを与えていくのが、私の人間性なのだろう?ただ私はあの人を好きではなかった。それは今だから、分かる事実なのだろう。好きって言われたし、恋愛を鼓舞するような情報が私に焦燥を溢れさせていたし。脅迫のように。そうすることが、年齢的に正しいことのようにも思えた。私は好きとか嫌いとか、まだよかった。自分の気持ちを守りたかった。自分の気持ちに答えが出ないまま進んでいくことに、気分がのらなかった。大人になった今でも、あの時の気持ちが微かに残り香として、ある。   私の外側を流れる時間はスピードが速く、目に映る景色は変化が激しい。でも私の深奥を流れる時間はどうだろう?未練はないけれど、まだ私にはやるべきことがある。そう確信させてくれる場所。独りの時間なのに、感情が激しく動く場所。どうか、この場所から現実の世界に飛び出してきませんように。私はうまく、この場所にある記憶を昇華できるだろうか?私だけの時間は忙しい。世の中は勝手に変化していけばよい。私はうまく、流れていくだろう。不必要なものが多すぎる。だからきっと、息苦しくなるのかも知れない。もっと、シンプルに生きられる。そんな確信がある。眠ることで、もっともっと楽になれるはず。もっともっと記憶を整理できるはず。もっともっと肌が美しくなれるはず。だから今日の私は、昨日の私ではない。肉体のように、害になるものは体温を上げて解毒しよう。私はまだ、生きなければならない。私の存在が、私自身に言っている。また、何かが見えてくるだろう。それは希望でなくてもいい。期待なんてしていない。ただそこに、美しい景色があればそれでよい。だから生きていたい。まだ自分を諦めたくはない。静かに。そして警戒する。すべての人に好かれるのは無理。それを知った。まだ私は大丈夫。まだ私は崩れない。そんな実感がある。生きられるかも知れない。そんなことを、一定のリズムで考えてきた。その都度、深さは違ったけれど。点として散らばっている私が、融合しようとしている。そんな内面の変化を、私は俯瞰で楽しんでいる。体力が持つかもしれないし、持たなければ休めばいい。人間だもの。思ったようにはいかない。実感はないけれど、きっと私は前に進んでいる。私は正しく生きているだろうか?個としての私は、世の中に対して正しく生きているだろうか?今まで考えなかったことを、今の私の頭は考えている。これは成長なのだろうか?同時並行的に、記憶も現れては消える。自分をコントロールすることで、精一杯。私だって、一生懸命生きている。相対的に日本で生きていることに。私はいまどこに立っているのだろう。私は甘く生きているのだろうか?日本人は日本人として、生きてはいけないのだろうか?そんなことは誰も教えてはくれない。きっとそんな難しいことは、誰も分からないのだろう。私は日本人だから、日本人の価値観でしか生きられない。それが結局の、私の結論。これからも、私は日本人として生きていくだろう。私は私の着たい服を着る。私は私の価値観で生きていく。そこに世の中の流れがあるだけだ。世の中があって私がある。私があって、世の中があるわけじゃない。それが大人になって分かった真実。だからといって、世の中のすべてが正しいわけじゃない。私はそんな時、どこに立てばいいのだろう?私だって生活がある。その生活を守るために、その流れに従うことも、きっと知恵だ。世の中は、きっと少しずつしか変わらない。生きていくには、忍耐が必要なのかも知れない。不完全で、私は日々を生きている。それでいいではないか?一人では生きられない。その本質が、最近もう少しで理解できそうな気がする。いい意味で、私は疲れている。自分の出来ることは、こんなにもちっぽけだった。その真実が苦しい。でも変化していることに嬉しい。私が些細なことで振動している。人の視線や感情は、瞬時に変化する。その対応に、私の内面は日々忙しい。何とか冷静に保てているよ?どうでもいい、何気ない情報で、感情が揺れる。軽い、悪意の付着している言葉で、揺れる。どうしてこんなにも、私は弱いんだろう?情報を取り過ぎるから?私の今までの生き方は、間違っていたの?そんな不安に、自分を殺してしまいたくなる。そんな自分を守りたい。守ってあげたい。自分の周りに弱い存在をはべらせる人のエネルギーに、私は敏感になった。私はそのエネルギーから逃げる。素直にね。そしてスマートに。それは何気ないスリルだ。何気ない日常の中にこそ、スリルがある。裏切りに満たない裏切り。誰かと一緒にいても、人は結局孤独なのかも。自分の立っている場所に満足している人の割合ってどれくらい?なるようにしかならない。なんでも検索している私が悪いのかも。そして勝手に苦しんでいる。不自然に内面がゆがんで。考えなくていいことを考えて、そんなことにエネルギーを使って、そんな自分を素直に馬鹿だと思う。私は今、どこに立っているのだろう。このまま時間が過ぎていくことに、不安。目の奥が痛い。目の前に過去が現れて、感情を不自然に振動させて、消えていく。私は現在を生きていながら、まだ過去を深奥に抱えている。まるで病巣のように、私を苦しめる。今現在生きている。これから生きられるかも知れないし、生きられないかも知れない。一日が始まることに、最近憂鬱。きっと、こんなものでしょう?なんでも美しく見過ぎるから、時間の経過のなかで苦しむことになるのだろう。私はもっと、シンプルに生きなければならない。誰とでも仲良くなんて出来ない。私は私の輪郭を守らなければ。それは狡猾なこと?いつも会っている人に対しても、視線がたえず変化する。その感情の揺れに、私が戸惑う。絶対的な視線があれば、どんなに楽だろう。私は揺れながら進む。その先に、もう一段上がった覚醒を期待する。それで今までの繋がりが切れたとしても。私は向上したいんだ。それを私自身が望んでいる。過去の自分に疲れた。睡眠を利用して、そんな過去の私は消えてしまえばいい。過去の繋がりを整理しよう。過ぎたままでは成長しないのだから。だからこそ、孤独は意味がある。もしかしたら、私はもっと自分に対して素直になれるかも。よく考えて、失礼のないように裏切ろうと思う。もっともっと裏切ろうと思う。裏切ることは、こんなにもわくわくさせる。孤独はそのわくわくを味わうためにある。そんな気がしてならない。人の気持ちを理解しようとし過ぎて疲れた。私が壊れてしまいそうだった。バランスを保つ感覚を、日々洗練させなければ。退屈な日々の中でも、こんなにも内面は忙しい。精神をコントロールすることは、こんなにも難しい。世の中に対して、私は個を保たなければ。個が世の中と剥離したとき、私は世の中から弾かれるだろう。輪郭の内側にある内面は、日々忙しい。なのに、輪郭の外側をながれる世の中に対して同期していかなければならない。不必要な繋がりに、有限のエネルギーを使うことに馬鹿らしい。私は、私を生きなければ。私が成長したせいなのか、不必要になった繋がりが見える。だから切ろう。素直に。内面をメンテナンスしなければ。最新の状態に、アップデートしなければ。私に対する悪意から逃げなければ。表の顔と裏の顔。生きのびる為に、私はそれを使い分ける。信じていたものに対して、私の視点が変化した。それによって見えていなかった側面が見え始めた。大人になるとは、こういうことなのだろう。私は適切な距離感で、裏切っていかなければいけない。私は私を生きなければいけないのだから。人の気持ちを考え過ぎることに、注意をしなければ。なぜなら、私の気持ちだって大切なのだから。自分を冷静に保つことに、日々、莫大なエネルギーを使う。本能のままに、嫌いな人を殺せたら、どんなにすっきりするだろう。私という肉体に、複雑な精神が宿っている。そして、世の中は窮屈だ。その圧迫感が、私の精神を歪ませる。退屈な日常を、私は続けることが出来るだろうか?私の歪んだ精神が、私の輪郭を飛び出して、気づいたら私の目の前に、死体があったりして。私は現実を生きている。それは真実だけれど、感覚的には曖昧だ。今日も無事に生きられた。今はちょっとだけ、それに対して感謝が出来る。明確な答えがないまま生きている。でも今日も生きられた。それでいいではないか?今はそう思える。仕事に対して熱い情熱など、今はない。社長の、「みなさんのおかげで……」から始まる言葉に、私の内面は何も響かない。大きなお金を持てたなら、辞める。仕事に対する私の距離感はそれくらい。たいしてお金にならない仕事に、みんな真面目だ。私にはそれが、滑稽に見える。代わりはいくらでもいる。会社と私。私は私の距離感で、会社と付き合っていく。自分に対して、これ以上、私は何をやればいいのか?結局私は何者にもなれなかった。学生の頃の私は、未来に対してキラキラしていたような気がする。いつのまにかその感覚は消えてしまっていた。今の学生も、きっとそんな感覚を纏っているのだろう。私の時間は過ぎた。それに対して特に後悔はなく。今現在の感覚としては、こんなものだった。そんな感じ。まるで、ひとごとのような。みんな、どんな感じで生きているのだろう?私はこれから、どんな感じで生きていけばいいのだ?あれほど貪るように聴いた音楽も、今は私の肉体が求めていない。テレビを見ていても、テレビの外側にいるような気がする。自分の感覚を、どこに繋げばいいのか分からない。学生の頃は、何気なく孤独だった。でも今は、好きなだけ孤独を味わえる。学生の頃は、何でもやってみたかった。自分の限界を知った今は、うまく孤独と向き合えている。疲れたら素直に眠れる。必要以上に食べたくない。私は結局こんなものだった。結局私はこんな感じで生きている。小さい頃、大人は子供に対して未来を鼓舞していた。どれ程の子供がその言葉に惑わされただろう。自分の真実に気づいても、取りあえずは生きていかなければならない。それでも静かに時間は過ぎていく。どこにいっても人がいる。世の中のあらゆる場所に、それぞれ吸いこまれていく。結局。死ぬまで生きなければならない。私の感情が揺れる。まるで血糖値のように。私も、健康が気になる歳になった。自分をもっと、大事にしなければと思えるようにもなった。生まれて今まで生きてきて、ずっと繋がっていたいと思える人が、ほとんどいない。滅多に本心を言ってはいけない。そんな感じで周囲の人に対して私は警戒する。大人として時間が過ぎていくなかで、人に対する幻想が日々破壊された。こんなものだった。いくつか経験した恋愛も、こんなものだった。これから私は変化しなければいけない。過去が私の深奥で澱んでいる。私が少しずつしか変化しない。それがもどかしい。きっといつの時代の世の中も、みんなこんな感じで生きていたのかも知れない?そんな気が、私はする。私はこの時代を生きている。私だってこの時代を、こんなにも一生懸命に生きているよ?少ない給料から税金を払い、貯蓄し、残りのお金で生活を維持させているよ?離婚はしたけれど、後悔はしていない。イメージ通りの人生にはなっていないけれど。それでも。私は私を生きなければならない。未踏の地を、進んでいるような気がする。それでも朝が来るし、夜も来る。どこに向かって歩いているのか、いつの間にか分からなくなってしまった。離婚するつもりで結婚したわけでもなく。今はすべてが対症療法的になっているような。このままでいい筈がないと、自分でも分かっているし気づいてもいる。でもどうすればいのか、素直に分からない。仏門に入るような勇気もなく。こんな自分に何気なく不安。もう少しで私の精神が壊れてしまいそう。それを毎日感じてはいるし。普通の日常なのにね。その危険な土台の上に、私という自我がある。私はそんな自分に責任を持たなければ。今は自分のことに精一杯。マクロ的に考えていた学生時代が馬鹿みたい。労働者階級の何の才能もなかった私。きっと世の中は、なるようになる。いつの時代を生きていても、お腹がすくし、住むところだって必要だし、おしゃれだって楽しみたい。今は、ひっそり生きていければそれでいい。人の視線と距離感は瞬時に科学変化する。私はそれに、日々備えなければいけない。人ほど怖いものはないという真実を、働くことで直に知った。私は、自分の本能を信じる。私に向けられる、悪意の混じった視線に胃が敏感に反応する。私はその視線と闘わなければならない。内面の駆け引き。ちょっとしたスリル。私は私を守る。私はそれでも生きてきた。今はそう思える。自分を好きになるって難しい。こんなにも難しい。日々、私は自分と格闘している。こんなにも、私はまだ弱い。そして過去の自分に疲れた。何度も何度も現在から過去へと行き来する。不安。不安で不安でたまらない。過去の記憶と向き合って、都度、感情が揺れる。仕事することで、なんとかその揺れを正しく昇華させている。それでも足りないから、私は本を読むのだろう。現実に向き合うエネルギーは最小限に。自分にとって不必要なことに、私は内面をエレガントに閉じる。好きか嫌いか?きっと人間の根本はシンプル。それをうまく隠すのが、大人の礼儀。思春期の頃、それが私は嫌いだった。今はそんな頃が滑稽に見える。それ以上に恥ずかしい。人は変化する。だから私は離婚した。それでいいではないか?私は自分に問いかける。少しずつ、過去を私が受け入れ始めている。曖昧だった感覚に、明確な輪郭を感じ始めている私。好きの先に結婚があった。その好きも、今となっては曖昧だったような気もする。適齢期……という圧力で、無理に好きになったような気もする。そんな自分を認めるのが嫌だけれど。レールから外れることに、何気なく怖かった。世の中に、離婚がさらに大量発生すれば、私の気持ちももっと楽になるだろう。人の価値観なんて軽薄。その軽薄な価値観の中で、うまく逃げ回りたい。結局、世の中の内側でしか生きられない。世の中は、悪意と善意のバランスで繊細に揺れている。私はちっぽけな魚。自分の輪郭をうまく変化させ、エレガントに泳ぎたい。自分を正常に保つことに、日々大変。マクロ的な視点なんて、社会に出てすぐに吹き飛んだ。予定通りに日々が流れないことに、いつも不機嫌な私。そんな時にかぎって、感情を歪ませる記憶が不意に頭を流れる。大丈夫。昔の私より弱くない。少しずつしか強くなれなかった。でも過去の私より、強くなった。純粋とは結局、馬鹿ということなのかも知れない。嫌な記憶から、哲学を導きだそう。だから孤独は意味がある。人の悪意ほど、怖いものはない。その悪意に、日々私は警戒する。誰とでも仲良くなんか出来なかった。過去の自分に恥ずかしい。私はそれでも淡々と生きている。何度も何度も、深淵に問う。それでも私は生きてきた?世の中には優秀な人も幸せな人もたくさんいて。その都度未だに挫折する。それでも私は生きてきたよね?間違ってないよね?その都度深淵に問う。毎日自分に疲れる。自分を好きになるなんて、簡単じゃなかった。まだ私は、自分を信用できていない?今、私はどこに立っているのだろう?それでも毎日忙しい。隙間時間、何気なく不安。そんな感じで毎日過ぎていく。きっと私はすべてなんて見えていない。私は私の範囲内でしか生きられない。私という人間にもキャパがある。内面を彷徨うことに、疲れた。このままの輪郭で生きていくことに、そろそろ許して欲しい。そんな気もする。私はこの時代を生きている。力なんて抜いていない。いつの時代もきっと、こんなものでしょう?そうでないと言うなら、これ以上、私は何をすればいいの?もう疲れた。いい意味で疲れている。私は私を生きるしかない。過去から学ぶことに、今は疲れている。私は今を生きている。もう私は、私として生きてもいいよね?そう私は、自身に問う。いつも孤独だったような気がする。でも、いつも自由だった気もする。輪郭のある言葉を吐き出すには、勇気が必要だった。その為の孤独だったような気もする。今の私はそんなに弱くない。自由は心地いい。繋がりを自由に自分の意志で、選択できるのだから。私は神様じゃない。人を信じるにも、私なりの限度がある。私は自分を信じるしかない。そのやり方が間違っているのであれば、世の中から弾かれるだろう。少しずつ、反応を見ながら進んでいくしかないのかも知れない。自分の輪郭を明確に理解している人なんて、きっと稀だろう?自分が世の中から求められていることを、正確に理解している人なんてのも、稀有だろう。みんな、自分の輪郭が分からず、曖昧に日々を生きている。本当の言葉を使わなくても、曖昧な日常を生きていける。好き。嫌い。そんな感情も、日々曖昧だ。その曖昧さが、自分の立ち位置を勘違いさせるのだろう。もっと世の中が揺れればいい。個々に沈殿している本当の感情が炙り出されるくらいに揺れればいい。そうして本能のままにぶつかり合い、新たな秩序を構築すればいい。そう私は密かに想う。洗練の根底なんて、きっと野蛮。自分を俯瞰である程度見られる今、自分に対してもそう感じる。人は、好き嫌いで生きている。それをうまく隠すのが大人。そんな微妙な緊張感の日々を、曖昧に生きている私。組織は嫌いだけど、うまく紛れこめば心地いい。組織の中で生きているけれど、組織を愛していない。いつでも裏切れる準備はしてある。入れ替わりが激しい。でも私は私。そんな感じで日々を淡々と生きている。完全ではない人間だから、仕事をする。最近そんなふうに思えてきて。何気ない日常が、何気なく愛おしく思える。私だって、みんなだって、そんなに強くない。それがやっと理解できたような気がする。固定した視線は疲れる。他の人だって、私と同じように内面が揺れている。私はそんなに強くない。今までそれを、きちんと理解できていなかった。出来ないものは出来ない。もう自分に無理はしない。現実は、こんなものだった。純粋な若さが、私に勝手に絶望を与えていた。今振り返ると滑稽だ。結局。私は私の輪郭でしか生きられない。その輪郭は、絶えず意識しないと曖昧になってしまう。今の時代を、私は生きなければならない。仕方がない。孤独な時間。考えなければいけないことと、向き合わなければいけない記憶が溢れてくる。忙しいほうが、精神的には楽。自分と向き合うには、莫大なエネルギーを必要とする。自分を経営するスキルを、さらに私は高めなければいけない。不必要な視線は、私を透過していけばいい。そんな技術も、いつの間にか身についている。私の本能が、生き残ろうとしている。今はその本能に、素直に従おうと思う。世の中に対して正しく生きたい。世の中に対して個を、正しく高めたい。みんな、何を基準に日々を生きているのだろう?忙しくて、無闇に疲れているだけのような気がする。そんな話はしないから。本当に大事な話なんてしないから。だから今まで私は孤独を勝手に感じたのだろう?誰とでも繋がろうなんて、もう思わない。自分が苦しくなる。だからといって、孤独ではなくさみしくもない。まだ分からないけれど、確信はないけれど、淡々と生きていけそうな気がする。本当そうに見えることに、今の私は警戒する。本当そうに見えるものに、疲れたのかも知れない。自分が見えているものに、自信が無かったのかも知れない。私は大人になった。それでも。綺麗な洋服にわくわくするし。やっぱりイケメンが好き。これがきっと、女の本質なのだろう。自分の欲望に忠実に生きたいけれど、それに伴うマイナスのエネルギーと闘う勇気も、それを跳ね返せる稀有な才能もない。現実が現実として、私に突きつける。仕方なく、私は私の輪郭に戻るしかない。どう生きればいいのか?なんて、本当に理解している人がいるのだろうか?取り敢えずやってみる。世の中の反応を見る。その反応で、自分の内面を変化させていく。行き過ぎれば弾かれる。ただそれだけのことのような気がする。今の私はその弾かれる側に行きたくはないだけ。だからうまく立ち回っているだけ。ただそれだけのこと。私の本質なんて、すごくシンプル。おいしいものを食べたいし、オシャレだってしたい。今度付き合うなら、イケメンで経済力のある人がいい。私の本質なんてこんなもの。それを意識的に感じたくないから、頭の片隅に閉じこめておいて、それを感じないようにしているだけ。日々の現実なんて、退屈。毎日のことだから。不自然な情熱は邪魔。私に不利を感じさせる時間は、どんどん過ぎていけばいい。私はそうやって、少しずつつよくなってきた。これ以上、つよくなる必要も、今はないのかも。これからどんな感じで、私は生きていけばいい?過去のコンプレックスで頑張ることは、もう今の私には出来ない。過去と闘う圧力として、今までの仕事はうまく機能した。もう疲れた。過ぎた現実が、私の内側で残骸になっている。仕事に対する情熱が消える。そんな感じで辞めた仕事もある。私は私で現実に対して揺れている。嫌になったら続けることが、出来なかった。そんなもんでしょう?会社なんて。労働者階級の思想なんてこんなもの。今でも私は労働者階級で。そういう意味では過去の延長線上に生きている。会社から求められる自分は熟知出来た。だから日々、楽。私はこれ以上、自分の輪郭を磨く必要はない。結局私は、こんなものだった。光り輝く未来なんて、私には用意されていなかった。天才の成功体験の踏襲は、平凡な自分を見失わせる。結局私は平凡に帰着した。今の私は、ある程度世の中を俯瞰できる。結局。こんなものだった。そこそこの頭の良さなんて、莫大な資産を築く才能から比べたら、恥ずかしいくらい惨めに思える。私は何の為に働いている?離婚して、私は実家に戻った。父は過去に死に、そこには母だけがいる。今現在、私は母と二人で住んでいる。私の時間は、結婚してから少しも進んでいないということに、出戻りしてから気づいた。私は結局、私だった。静かに日々は過ぎている。その中で。人間の本質なんて、何も変わらない。これが私の行き着いた、答え。私は実家に戻ることで、私の本質に回帰したのだ。私には、何の才能も無かった。今まで使った時間は、それに気づく時間だったのかも知れない。私は遠回りした。その果てに辿り着いた実家に私を受け入れてくれた母に、私は素直に感謝する。今は生きたいとも死にたいとも、思わない。なぜなら目の前のことに精一杯なのだから。私は今、どこに立っているのだろう?そんなことも考えずに、目の前のスピードに呑み込まれることに、依存していたのかも知れない。私はそんな流れの中で、疲弊した。頭の中がごちゃごちゃしていて、日々、息苦しい。私は私でいようとしたよ?でも私の立ち位置が分からなかった。だから私は自分の言葉を吐き出すことが出来なかった。今はそう理解している。そんな時間に疲れた。そんな時間に私は疲れたのだ!孤独になることに、怖くない。私は私でいたいと、つよく思った。その輪郭の形成に、長い時間を必要とした。ただそれだけのことだった。世の中はうまく流れている。その流れはきっと正しい。その流れに対して、私は自分の輪郭を維持しながら変化させていきたい。それはズルいことだろうか?思春期の生臭い人に、この技術が理解できるだろうか?私は思春期から変化した。それで良かったと、素直に思う。いつまでも、子供のままでいられない。心がちょっぴり成長した。今現在、私には子供がいない。だからかも知れない?今現在を生きる子供に対して興味がない。私はやっと今になって、あの苦しみから解放された。その自由を、今現在の私は楽しんでいる。情報を自在に簡単に入手できる今現在、狭い範囲の価値観に、自分を合わせる必要はない。不必要な繋がりは、素っ気なく切ればいい。近くにいる人ほど、私は知らない。知りたいという興味が湧かない。私の興味はスマホの向こうにある。私の現実はこんなもの。だからこそスマホを必要とする。淡々とした日常を連続させるには、今の私にはスマホが必要。淡々とした日常に未練はないけれど、今現在、生き続けたいと思っている私は、淡々と会社に毎日行かなければならない。誰とでも、繋がらなくても生きていける。何気なく孤独。そんな思春期から、私は脱したのだ。誰とでも繋がらなくても、生きていける。社会に出て、それについて絶望したけれど、慣れた。私はそれについて、自分の残酷さと狡さを知った。その答えを、私は本に求めたけれど、未だに明確な答えは出ていない。私は私の答えを出さなければいけない。それには自分を信じなければいけないけれど、まだ葛藤を超越できていない。自分の言葉として、言葉を吐き出せば、自分の輪郭が明確になる。曖昧だった私に対する視線が、それによって明確になる。私はどこまで自分の輪郭を明確にすればいい?その距離感が分からない。明確な距離感ではなく、適正な距離感。一人では生きられない。でも。近寄り過ぎれば苦しい。完全に裏切ることが出来れば、どんなに私は楽になるだろう。私は考え続けなければいけない。私は自分の輪郭で生きなければいけない。その輪郭の内側で、私の感情は絶えず揺れている。普通に生きているだけなのに、何でこんなにも苦しいのだろう?なぜか、痛い。自分のことだけ考えていれば、こんなにも苦しくなんかないのだろう。私自身が無意味な葛藤をしている。そんな感じがする。自分の思考が苦しい。その疑問に逐一、自分を納得させる答えを出さなければいけない。毎日もどかしい。答えを絶えず出さなければいけない毎日。私は毎日、自分自身を突きつけられている。目の前のことに、余裕がない。考えなくていいことを、考えているのかも。私にも、人生があった。いつのまにか人生が始まっていて。気づいたら、目の前のことに余裕がない。絶対的な視線に憧れていたけれど、私は神様ではなかった。自分自身から放たれた視線は、いづれ自分に還ってくる。自分の輪郭を絶えず意識して、私は言葉を発しなければいけない。不必要な繋がりは切っていく。すでに学生ではない。誰とでも、仲良くは出来なかった。自分でも意識しなかった、私自身の背景。それが人の中にいるだけで、見えてくる。こんなにも人がいるのに、ほとんど繋がれない。こんなものだった。私に見えているものを、私は信用していい?時間が経過し、もう少し成長すれば、きっとその真贋が分かる。結婚がそうだった。私にとっては鴈だった。過ぎたからこそ、それが理解できた。自分の一部を、はっきり理解できた。気づくには、経験が必要。ただ、その経験にはリスクがある。私は離婚した。そして、自分の輪郭に触れることが出来た。私は離婚することで、何を得ただろう?男を見る視点が変化した。それは確か。幻想が一つ破壊された。私は前に、進んでいるだろうか?不必要な繋がりを切ることで、楽にはなっている感じはする。学生の時のような、孤独感はなく。だから音楽を、必要としなくなったのだろう。今の自分を、不自然に鼓舞する必要もなく。やっと自分に還ってきたような気がする。自分の内側をぐるぐる巡って疲れた。こういうことだったと、今だから思える。もっと強くなれば、もっとシンプルに生きられるかも知れない。私は自分を守らなければならない。今の私には基準が出来た。その基準を造るための時間だったと、今は確信出来ている。内面が絶えず揺れながら、私は生きてきた。その揺れを、私は耐えた。そんな過去の自分が今頃になって消えていく。今の私には不必要になった、過去の自分との繋がりを切る作業。その連鎖で、過去の自分と繋がっていた人間関係も消滅していく。この感覚は、もしかしたら快楽かも知れない。今の私は過去の私ではない。私はあるがままを受け入れる。目の前を流れる風景に、私は感性を研ぎ澄ませる。数少ない美しい景色を、自分の血液に溶けこませる。それが自分をより美しくさせる成分になることを、私は知っている。朝起きて、記憶が整理されている。ふと、自分の視点の変化に戸惑うことがある。ルーティンワークは退屈だけれどその連続の先に、今の私がある。急げ!でも急ぐな!そんな不思議な自戒が、今の私にはある。何度も何度も。そしてもう一度。その先に、今の私があった。私は、私を生きる。ほんのちょっとだけど、私は自分を信じてあげることが、今は出来る。不安。でも私は自分から逃げない。でも私はそれほど善人でもなく。そうでなければ不安定な現実を生きていけないから。悪にも成り切れないし、僧侶のような善人にも成り切れない。それでも私は私なのだ。生きていれば、お腹が空くし。綺麗な洋服に心がわくわくする。イケメンには濡れるという反応が下半身にある。そんな自分を少しだけ、許せる範囲が自分の中に生まれている。若い頃は潔癖だった。でも今は、その潔癖が滑稽だ。女でありながら、女であることに不潔を感じていた。それはきっと、思春期の効果だった。人は、少しずつしか進捗しない。毎日は忙しい。その忙しさで、うまく自分から逃げられてきた。私の本質は、時代がどう動いても変わらない。私は今、どこに立っているのだろう?私には今現在、やらなければいけない仕事がある。未練はないし、代わりはいくらでもいる。それはそれでいいと、今は無闇に体に力が入らない。自分にしか出来ない仕事。そんな言葉を純粋に使う若者が、今は滑稽に映る。そんな時代が私にもあった。だからといって郷愁なんかない。若者を不自然に鼓舞する悪い大人が、いつの時代にもいる。それを私は大人になって知った。純粋は滑稽。みんな現実を、ヘトヘトになって生きている。私はもっと感性を研ぎ澄ませ、警戒しなければ。そんなに毎日、つまらなくもない。眠いけどね。大人ってそんなに、大変でもない。責任はあるけどね。感情の動き方なんて、大人になった今でもそれほど変わっていない。汚いなーこの人、とか。それをうまく隠すのが、大人なんだけど。いつでも裏切れる準備はしてある。私は自分を守らなければならない。最近、いい感じに力が抜けてきた。出来ないものは出来なかった。出来る人に任せればよい。そう今は思える。人が、目の前を流れていく。ただそれだけのことだった。感情がそれほど動かない日があってもいいよね?でも頭の中はきちんと揺れている。私は息を潜める。世の中の動きに対して、すぐに動けるように。健康を大切に。瞬間をもっと繊細に。現実は、芸術のように美しくはない。その流れの中で、私はより美しく生きていくことが出来るだろうか?怠惰も堕落も簡単。食べるものも、付き合う人も、私はより注意深く選別していかなければいけない。もっと感性を洗練させよう。窓越しの背中を温める太陽の光も、聞こえてくるゴウという風の音も、今は美しく思える。私はこの場所に帰ってくるために、焦燥感に煽られて、この場所を離れた。孤独が怖かったけれど、それ程でもなかった。誰とでも仲良くしなくても、生きていける。他人だもの。切ればいい。それは孤独ではなかった。そういうものだった。人の気持ちは大事だけれど、自分の気持ちだって大事。それを理解していない人とは付き合えなかった。今現在の私の思考は間違っているだろうか?みんな、どんな感じに日々の繋がりを考えているのだろう?感覚だけで生きていると、不意に、自分の立っている場所が分からなくなる。私は自分に対して、哲学を持たなければいけない。その哲学を元に、日々を流れていけばよいことに気づく。私は今まで、感覚だけで生きてきたのかも知れない。感覚だけで、人と繋がってきたのかも知れない。すでに、学生ではない。離婚も経験した。感覚的に生きていた時間に、疲れた。もう少しで、哲学が生み出せる。自分に対して、そんな予感がある。私は、考え続けなければいけない。もう。地球上のどこに行っても、私は自分の輪郭を明確に感じることが出来るだろう。他人の人格や感性を、自身に憑依させる必要は、もうないのだ。私は私のままで、生きていきたい。今なら、私を故意に傷つけようとする人と、闘える。何を私は、びくびくしていたのだろう?それが滑稽だ。孤独が怖くない。一人でいることが、怖くない。誰とでも繋がれない。それを今の私は知っている。どうでもいいことを、特に真剣に、考え過ぎていたのかもね?私はすでに、思春期ではない。思春期の余韻が、私は長すぎたのかも。自分の言葉を発することに、怖かった。自分の輪郭を知ることが、怖かったのかも知れない。過去の自分が、次から次へと現れる。私は何度も何度も反芻する。弱い、過去の延長の自分のまま、これから生きていくのは嫌だから。変化することに、私は怖がらない。内側の振動から、もう逃げたくない。それでも私は生きてきた。自分を正しく振動させたい。感覚だけで生きてきたことに、疲れた。今の私にとって、何もしない時間が必要。内側に入っているものと、向き合う時間が大切。悪しきものは、私から遠ざかって欲しい。そういう自分を創る時間が、今はとても大切。素直に今はそう思える。自分を高めたい。現実を美しい景色として、捉えなおしたい。感覚の世界から言葉のある世界へ。私はこの世に生まれ、今迄生きてきた。その時間の中で、私に入っている感覚を、少しずつ、言葉にしていこうと思う。現実の世界と繋がりながら、私は内面への旅に出る。旅に出る強さは、それなりにある気はする。確信はないけど。現実は何とか維持できている。現実に対して、感覚的な欲求はなく。映る景色に対して、刺激感はない。刺激の向こうを知りたければ、今はネットがある。私は秘密に検索する。安全に、興味の向こうを知ることが出来る。私は未だに、自分に対して苦しい。相対的に自分を捉えている証拠だろう。自分の輪郭で、生きるしかない。そんなことは、理解している。でもちょっとでも力を抜くと、自分が崩れてしまう。それでも私は生きてきた。そんな自負が、目の前で崩れてしまいそうになる。もう疲れたと、自分を諦めてしまいたくなる。頑張ることに、疲れた。純粋に若い頃は、頑張ることに意味があったような気がする。感情が複雑に動いて、その感情を必死でコントロールすることで、抑える技術が身に付いた。そして私は知った。人に対して情熱を持つと、負けるということを。生きていくことは、やっぱり孤独なのかも知れない。輪郭のある言葉を使うと、孤独。でも、凛とする。過去の記憶に対して、私は明確な言葉を持たなければいけない。誰とでも仲良くは、出来ない。私は何の為に生きる?何度も何度も、自身に問う。自分の輪郭を曖昧に出来る環境は、いくらでもある。このまま自分から、逃げてしまうことも、もちろん出来るだろう。日々、不安。このままで、いい筈がなく。自分で納得もしていない。過去に対して後悔はないけれど、今の自分に納得をしていない。このまま私の時間は過ぎていくのだろうか?目の前のことを、今の私は愛せない。今の私のレベルなんて、こんなもの。それでも、何とか取り繕って、生きているよ?時間がもっと過ぎて、人間関係の優位性が、粉々になってしまえばいい。時代がさらに揺れればいい。その景色は私に、密かな興奮を与えるだろう。今の私は、人の幸せに対して、素直になれない。それは一時的なものだと、知っているからかも知れない。思春期の頃。真実だと本気で思っていたものが、今の私の感性だと滑稽に見える。離婚も経験したしね。だからと言って、日々、つまらなくもない。今まで見えなかった景色の中で、私として楽しんでいる。私は日々揺れる。眠ることで記憶が整理され、アップデートされた自分に、日々戸惑っている。今日も生きられた。今日はそんな感慨しかない。明日もこんな感じで生きられるだろうか?そもそも純粋に若い時、生きていることが当たり前で空気的で、こんな感覚を味わったことがなく。社会に出て忙しいということに優越感を感じていた時間が、今は過ぎた。その忙しい時間を俯瞰で見たとき、その時間をお金に換算したとき、私は頑張ることを止めた。どうして人は、考えなければいけないことが、こんなにも溢れてくるのだろう。溢れてくる疑問に対して、逐一答えを出して、自分を納得させなければいけない。社会人になって、かなりの時間が経過したけれど、毎日会っている人のことは、あまり知らない。噂話で、無感覚に私が反応するだけ。それを孤独だと、一時的に感じたことがあったけれど。世の中とは、こういう距離感なのだと、今は思える。何も考えずに、私は人生が始まってしまった。だから今になって、人生を考えているのだろう。人の流れから、今は離れたい。人というものを、今は静かに俯瞰したい。私は現実と接点を辛うじて保ちながら、現実からどんどん逃げる。なぜなら本質をつかみたいから。このままでは私が疲弊し、風化してしまう。そんな危機感がある。私は小さい頃から、読書が好きだった。その素養が、きっと私を救ってくれるだろう。今までの経験と融合させ、私は私の答えを導き出さなければならない。見える景色が、どこか人ごとだった。その感覚は、今でも継続している。自分の感覚が未熟なせいで、せっかくの経験から、僅かしか本質を掬いとれていなかった。私はもっと、頭を働かせなければいけない。そのまま生きてはいけない。だから私は過去の記憶を探る。その行為が、ひりひりと痛い。部屋に一人だけなのに、痛い。こんなにも、過去を反省し、受け入れることは、痛い。普通に生きていたって、そのせいで思考が歪み、感情が揺れる。僧侶のように生きたいと思うけれど、生臭い現実の世界では。だからこんな感じでいいのかも。裏切る準備は出来ている。本心を言うことに、私は警戒する。それについて、孤独を感じた時期があったけれど、不思議と慣れた。本能として、私は生きのびたいと欲する。私は自分の狡さを、少しずつ受け入れ始めている。思春期の時、私はそんな大人が嫌いだった。そんな潔癖な世界から恋愛もし、男に対して傷ついていって、現在に至る。意識はしなかったけれど、複雑な内面の動きが、こんな私にも存在していた。私という存在の輪郭の内側に、こんなにも。日常がくらくらする。私だって日々、こんな状態で生きている。それでもなんとか輪郭を保っている。抑えきれなくなった歪みが、きっと事件になっているのだろう?私はたまたま事件にならなかった。そんな気がする。うまく自分の歪みを意識しなければいけない。そして合法に発散させなければ。普通に生きるのも、楽じゃない。人それぞれ、見えている世界はきっと微妙に違う。私はその歪みに、鋭敏にならなければ。言葉は完璧ではない。それ以上の歪みは、どうにもならない。集団の中に生きている私は、それが分かる。理解できる。働くということに、純粋な若かった時のような、矜持はない。いつでも辞める覚悟は出来ている。過去の自分に対して疲れた。記憶に残っている過去の人達。それは私にとって教科書になった。今は必要がない。私はその教科書から学んだ。そして賢くなった。現実に触れ、感性が破壊された。私の内面は逡巡し、今は日々、心地よくなりそう。誰とでも、仲良くなれない。私は私を生きなければならない。その事実が、日々苦しい。芸能人の不幸は、こんなにも日々の苦しさを癒し、肯定させてくれる。だからもうちょっと大丈夫。もうちょっと頑張れる。すべてを失った芸能人と、日々を地道に生きている私。どっちが偉いかなんて、そんな思春期レベルのことはどうでもいい。普通にしか生きられないから、仕方なく普通。才能があれば、芸能人になっただろう。それだけのことだ。仕方なく普通に生きている私は、芸能人の不幸が心地よい。そうやって支え合って生きているではないか?まだ死にたくはない。ただ積極的にも生きたくはない。そんな自分に笑いたくなる。私は今、この時代を生きている。自分を好きにならなければいけないんだろうけど、なんかねぇ。今まで鼓舞する言葉が多すぎて、その言葉に踊らされてきたような気がする。私には、なんの才能も無かった。学生時代、何であんなに未来に対してキラキラしていたのだろう?今の私は、目の前の生活で精一杯。そんな自分の滑稽感に。感性が、自分の内側に少しずつ収縮している。忙しい日々の時間の流れに、私自身が疲れている。私は今、どこに立っているのだろう?何でこんなにも、自分に対して苦しいのだろう?考えるべきことがたくさんあり過ぎて。私は自分を、うまく経営しなければ。こんな私でも、日々、ギリギリを生きている。もっと楽になれると思って、今まで頑張ってきた。それなのに、新しい問題でこんなにも苦しい。こんな状態が、きっと死ぬまで続くのだろう?このような状態で日々楽しむことを、私は考えなければいけない。現実はきっと、こんなものなのだろう?本当に完全には、眠れない。それが子供と大人の違いなのかも知れない。すべてを壊してしまいたい。それが出来ない。私はこんな状態で生きている。だから時には削ぎ落とされた、美しい世界を求めたくなるのかも知れない。現実の世界はめんどくさい。それを生臭く継続し、振り返り検証し削ぎ落とし、繰り返すことで、見えてくる景色というものがあるということを、最近知った。無意味で薄汚いと感じていた日常が、最近愛おしい。そんな感じで日々、最近生きている。不完成のままで、武器用にそれでも生きている。完成をめざして生きている。完成は目指さなければいけないことは、理解している。私は正しい方向に進んでいるのだろうか?個としての私と、世の中との距離感が、最近よく分からない。世の中に対して、正しくありたい。それは最近、つよく思う。会社は世の中に対しての接点だから。会社があって、世の中があるわけではなく。世の中があって会社がある。だからその会社は、世の中に対して正しくなければいけない。会社は組織。その組織は世の中に対して、正しく機能させなければいけない。個としての欲望を、暴走させてはいけない。私は今、どこに立っているのだろう?シンプルなことを、私はもしかしたら、難しく考えているのかも知れない?世の中に対して正しくない会社は、消えてしまえばいい。そこに、個としての正当な理由があったとしても。育ちにより、人の深奥は歪む。その歪みは、社会に対して正しく昇華しなければいけない。昇華されない歪みが、きっと犯罪になるのだろう。そう私は考える。人の気持ちを考えるにも、高度な技術がいる。私だって、生きていることに必死。その隙間に、巧妙に甘えてこられても、困る。日々、刺激があってよい。だからこんなにも内面が揺れる。考えろ!私。きっと私の精神は少しずつ洗練されている。その為に、日々、もがいているのだ。生きているだけで、こんなにも思考が流れる。それが不思議。過去には戻れない。過去の思考から今の思考へと、私は進んでしまっている。過ぎてみれば、こんなもの、だった。で、今は今で、苦しんでいる。これからも、相応な悩みが続いていくのだろう?一日が始まり、一日が終わる。それでいいではないか?今はこんな境地にいる。昨日飲み過ぎてしまって、今日は体調が悪い。でもお休みだから。きっと、時間はこのまま過ぎていくだろう。なかなかうまく、予定どおりにいかない。最近頭の中が、ごちゃごちゃしている。都度、感情が揺れる。別れた男に対しての殺意とか。私の本質なんて、こんなもの。無性に最近、いらいらする。時間が経過しても、風化されない記憶に対して無性に。目に見えない痛みがこびり付いたまま、私は何気なく日常を生きている。明日地球が爆発するとして、それまでに私は殺しにいくだろうか?そんなことを不意に考える私。自分に対して馬鹿だなと、微笑む。マスクをしていたから、きっと気づかれてはいないだろう?目に映る現実は、記憶に直結する時がある。その時内面に、過去の時間が不意に流れる。その時間を日々、乗り越えてきた。内面を必死に整えてきた。現実は、その為にあるのではないか?最近、そんなふうに思える。自分が変化することで、私に向けられる視線の質も変わった。過去から抜け出したい。私は輪郭の外側にある流れに逆らわない。闘わない。私が闘うべきは、内側を流れる悪しき流れ。悪しき流れにしている記憶と、真正面から向き合い、正々堂々と闘い、消滅させていかなければならない。もっと高い境地に行きたい。悪しきものを、もっともっと遠ざけたい。もっと私は、静かに生きられるだろう?もっと自分の範囲で、楽しんで生きられるだろう?あらゆる視線に冷静に対応できる自分になりたい。私は私の輪郭で生きていく。とっても難しいことだけれど。ちょっとした言葉や変化で、次の瞬間には自分が嫌いになっている。そんな私の日常。自分が自分に苦しんでいる。どうしたら、自分を好きになれるだろう?そんなことを考える、平穏な時間はとっくに過ぎている。日々、生きるしかない。輪郭の外側にある流れには、逆らわない。素直に私は逃げる。また、何とかなるだろう。悪しきものは、私から離れていけばよい。自分に対して逡巡し、その都度、答えを出していく。自分以上のことは、出来なかった。だからこれからも、自分の範囲で生きていく。日々、何度も何度も、自分に言い聞かせなければ、時間の経過に精神が耐えられない。人類が誕生し、今までずっと、人はこんな感じで生きてきたのだろうか?今生きる時代を、こんな感じで生きていたのだろうか?世の中に対して疑問を持ち、人との繋がりに煩わしさを感じ、恋愛をし、私と同じように、こんな感じで生きていたのだろうか?私だって、必死で生きている。不自然に鼓舞されなくたって、必死で生きているよ?頭の中がごちゃごちゃして、イライラする。記憶は時系列で正しく流れない。時には自分をうまくコントロール出来ない時だってある。そんな時、男にしか癒せない部分が、私にもあった。自分の理性ではどうにもならない、元々備わっている本能のようなもの。自分が女であることを知った瞬間、戸惑ったような記憶がある。私は両親の性行為を見かけたことがある。幼い時。その記憶に繋がったような気がした。自分の体が感じる快楽と、まだ許せていない記憶に、私自身が戸惑った。そんな過去も、現実の記憶として、今なら向き合えそうな気がする。私の精神は、崩壊しないだろうか?何気ない不安はある。それでも私は、現実を生きてきた。つよくなっているだろう?私が生まれるずっと前。人は存在し、連続し、その人たちに、静かに時には激しく意識は流れた。私は生まれ、同じように意識は流れている。不思議。きっと、精神の根底では繋がっている。そんな感覚が、最近自分の中にある。だから私は孤独じゃない。その根底に、私は潜行する。海のように。目の前には浮遊物が無機的に存在し。ゆっくりと私は沈んでいく。その圧迫感も、心地よい。自分の呼吸音と心拍音だけが、耳の奥に聞こえる。きっとこんな感じで、母親の胎内にいたのだろう?自分が生まれるずっと前に、意識だけを隔離する。どんどん今現在から離れていけばいい。本質を掴み、私に戻ってくればいい。今現在を生きる私は、もっと楽になるだろう?自分の背景だけに苦しむのは、すでに厭きているのかも。自分の輪郭から、意識を離れさせる技術を、私はもっと高めなければいけない気がする。この場所で、生きよう。自分の立っている場所を理解しよう。体内に、悪しき思考が流れている人と、繋がらない。私は自分をそれらから、避難させなければいけない。人の思考は敏感に歪む。歪みが繋がれば、悪意に変化する。集団の怖さを、私は組織というものから学んだ。自分を守らなければ。まずは自分の生活を守らなければ。歪んだ思考と思考は繋がりやすい。私は早急に自分の内側にある、それらが入ってくる隙間を高め、埋めなければいけない。歪んだ思考が流れる人を目の前にすると、鏡のようにその場所が、自分の内側に見える。この人は危険。私の本能が、私の感性に言葉として知らせる。私は急ぐ。内面の再構築に。それらの人の意識に残らない強固な自分を、造らなければならない。何気ない日常でも、こんなにも忙しい。新規の人と出会うことに、最近私は臆病になった。警戒感がある。誰とでも仲良くなれなかった。人は自分の輪郭で、精一杯疲労しながら生きている。私だって同じ。正しく生きているだろうか?私は今現在、正しく生きているだろうか?遥か彼方の過去の思考の流れを、未だに私は検証している。それが今現在の思考に影響を及ぼしていることを、私は知っているから。何度も何度も、毎日毎日、極秘に内面の修正を繰り返している私。自分がそうしたがっているから。だから私は、そんな自分に素直に従っているだけ。まだ、死にたくはない。まだ私には、やるべきことがある。辿り着くべき境地に、内面が到達していない。その自覚はある。人と適正に触れていることで、見えてくる世界があるということを、今になって自覚している私。意味なく生きてはいなかった。思考が絶えず流れていた。私だって、こんなにも一生懸命に生きていたではないか?思考の連続の先に、今の私はここまで辿り着いている。美しい!そう、今の自分を自覚する。まだまだ生き足りない。世の中に対して、思考を正しく流れさせたい。個は大事だけれど、世の中を意識しなければ孤立する。孤立しては、生きていけない。個を出し過ぎて、過去にいくつか失敗した。若い頃のファッションのように。独りよがりだった。そんな過去の記憶が恥ずかしい。個としての欲望は、私の内側にも点在している。意識できているものもあれば、認識できていないものも、きっとあるだろう。会社に行く。それだけで、認識できていないものが、うまく抑えられているような気がする。今はそれで、うまくいっている。テレビに映る犯罪に、人ごと感を感じないのは、それを自分の内側に何気なく感じているからだろう?裏と表のバランスを、私だって無意識に取っている。危険な領域は、どうしてこうも魅力的に映るのだろう。そこに進んだ芸能人の失敗で、私は我に返る。失うであろうものの価値との比較で、その領域には進まないだけ。世の中が洗練されている。より便利になったけれど、内面に息苦しさを感じている私。この抑圧されているものを、正しく昇華しなければ。人間の本質なんて、根本は野蛮。恋愛と結婚という経験で、自分の中にそれを認識できたことは、今の私の精神を安定させている。失敗をしたけれど、その経験が今の私の精神に、うまく機能している。私は今現在、生きている。過去に私を流れた思考の質より、今を流れる思考の質が変わった。この感覚にびっくりしている。今現在、生きていることに、苦しくない。こんな境地に自分がまさかなるとは。日常を生きることは、そんなに苦しくなかった。これからもハイテクをうまく取り入れ、より便利に快適に安全に楽しく生きていくだろう。私は今、地球上に立っている。その地球上に、時代という流れが存在している。私はその、時代の流れに合わせてしか、生きることは出来ない。その時代に逆らったら、その時代から弾かれる。それは歴史が証明している。私は時代を流れる、小さな魚として、うまくその流れに身をまかせたい。私は生きようと思う。今日は自然に、そんな気がする。なぜ私は生きるのか?だって生きているんだもの。今、ここに、生きているんだもの。これ以上の理由を、考える必要があるのだろうか?なんの為に私は生きるのか?私は自分を生きる為に、生きる。今日はそれで、頭の中がすっきりする。私は結局、私だった。ただそれだけだった。出来ないものは出来ない。それをはっきり認めることで、少しだけど、前に進めたような気がする。少しだけど、些細なことに、感謝を感じられるようになった気がする。今は生きたい。私は何も見えていなかった。それを今日、自覚した。内面が複雑に動いた結果、不意に今日、この境地がやってきた。人って不思議。私の精神が、この肉体に宿っている。今はこんな境地。もう。精神で、強引に肉体を酷使することはやめにしよう。食べるもので、この体は出来ている。口に入れるものに、私はあまりにも無学だった。食のスキルを身に付けよう。考えなければいけないことが、変わった。すでに。過去の私ではない。私は今を、生きなければならない。いつまでも、過去のままでいられない。人の流れは変化する。過去の私は、その流れに残酷さを感じたけれど、変化が出来なければ淘汰される。それはすごく自然なことだと、思えるようになっている。世の中に対して、正しくありたい。私はただの会社員。今まで数回転職した。時代に合わなくなった会社に、しがみついても仕方ない。私は精神的にも、肉体的にも、健康でありたい。精神的にも肉体的にも、無理だった。だから辞めた。二度と、あの辺で生きている人たちとは、関わり合いたくない。誰とでも、無理に仲良くしなくても、生きていける。それを直に知れたことは、私にとって有益だった。人を見る基準が、今の私には、ある。それが本当に正しいのか?は分からない。私の経験から導き出した基準。今はそれを信じるしかない。間違っていれば、世の中から弾かれるだろう?私だって、試行錯誤で生きている。好き勝手に生きている訳じゃない。その都度起こることに、内面が揺れる。平穏な日々は続かない。必ず内面に何かが起きる。その内面の揺れに、私自身が未だに揺れる。過去はもう過ぎているのに、過去の自分の態度に羞恥する。申し訳なかったと、一人噛みしめる。それが何より痛い。過去から逃げずに生きたい。このままで、生きてはいけるだろう?現実の忙しさに、逃げてしまえばいい。現実を生きることと、内面の完成の両立に、今の私は苦しんでいる。歯痒さを日々、内面に感じ、現実を生きている私。少しずつ、進めていかなければいけない。心拍数が上がる。私はただ、自分は自分でありたいだけ。個としての私と、組織で生きる私との距離感に、日々格闘している。何とか今はそれを保てている。いつでも裏切れる準備はしてある。変化してもいい部分と、変化させてはいけない部分の選別は、自分の中で出来ているつもり。人ほど怖いものはない。内面の弱さは、すぐに嗅ぎつけられる。自分の中に発見したら、早急に修復させなければ、悪意を持った人に利用される。絶えず内面を監視しなければ。自分から出る波長は、同類の波長を引き寄せる。質の良い波長を自身から放出させたい。その為に、泥臭く一つずつの記憶と向き合っているのだ。現実の世界の変化は激しい。私はその現実に逐一対応出来る哲学を、深奥に持っているだろうか?私は今、どこに立っている?絶えず自分と向き合っていないと、不安。意識は集団を俯瞰していたい。目先の感情の揺れに、惑わされないように。過去になった思考の蓄積が、今現在の私のスキルになっている。ある意味それが、私の盾になっている。だからかも知れない?軽い、上っ面な言葉に、内面が響かなくなった。地道な作業に、何の意味もないと思っていたけれど、その地道な作業の先に、辿り着ける境地があることを、今の私は知った。言葉で説明出来るものではなかった。仕方なく働いていたけれど、今はそれ程嫌ではない。続けることで、視界が変化した。続けることでしか、辿り着けない境地がある。不安で心拍数が上がるなら、上がらなくなるまで続けるしかない。これからも、葛藤は続いていく。私は自分を流れる思考と、絶えず闘っていくしかない。そして思考を過去にしていくことでしか、不安を取り除けないことを知った。そしてまた、新しい思考が私を流れている。その思考が私をまた、不安にさせている。淡々と、自分の範囲で続けるしかない。今までのように。きっとまた、新しい境地に辿り着くだろう?自分を模索しながら、私は生きてきた。後悔はしていないけれど、反省は逐一やっている。過去と向き合うには勇気が必要だから。その勇気が成熟することで、向き合える記憶もあるから。だから逐一、不定期に向き合うことになるのだろう。今の私には、孤独で静かな時間が必要。だから純粋に若い人たちの集まりには行きたくない。純粋に若い人には、今はそういう時間が必要。私もそうだったから、理解は出来る。でも今の私は、そういう時間を求めてはいない。私に与えられた大事な時間を、不快な時間として、使いたくない。時代は変化している。その変化を防御壁にして、うまく自分を守りたい。若い人の馬鹿笑いが、最近感覚的に、嫌い。不快。だから寄り付きたくない。過去の自分に戻るようで、不快。今の私は、あの頃の思考の質より良質になっている。私はあの頃より、前に進んでいる。別に管理職でもないし、若い人なんて、内心どうでもよく。思考の流れが、面白いくらいに理解出来るから、余計に鼻につく。純粋な若さに対して、悪意に近いいじわるな感情が溢れてくる。私はその感情に嫌な気持ちになったから、今でもその言葉に傷ついているから、その感情を必死に抑える。きっとこの環境が、この子たちの世の中の基準になっていくのだろう。私は中途入社だから、別の次元からこの子たちを見ることが出来る。別に管理職ではない。だからどうでもよい。これから残酷な現実が、目の前に現れて来るだろう。それは孤独になって、自分なりの答えを出していけばいいだけのこと。私は適当に取り繕う。中途入社だからか、愛社という観念が、これっぽっちもない。繋がりが希薄。その感覚が、今は心地良い。時代がもっと揺れればいいと、私は密かに望んでいる。時代が揺れれば、会社という組織も激しく揺れるだろう?そこで当たり前だった価値観に、疑問が蔓延してくるだろう。会社があって、世の中があるわけではない。世の中があって会社がある。私にはどうやら破壊願望があるらしい。会社という枠の内側は、特殊な世界。その会社、独特の世界がある。その独特の世界でうまく立ち回った人が、上に行ける。その間に世の中が変化してしまえば、会社そのものが、世の中から弾かれている。会社の内側しか知らない人に、何が出来るだろう?会社とは何か?私は自分なりに考える。だからこそ、転職したのだ。沈みゆく船に、へらへら笑いながら、乗ってはいられないだろう。時代がもっと揺れればいい。身近な繋がりなど、もっと希薄になってしまえばいい。今はインターネットがある。自分が求める繋がりに、瞬時にアクセスすることが出来る。古い価値観に、自分を閉じ込める必要はなかった。私は今、自由だ。それなのに、何でこんなに腹立たしいのだ?自由なのに、なぜ、こんなにも腹立たしい?自分の思いどおりにならないことと、自由の比率に、自分が納得していないのかも知れない。無性に腹立たしい。もっと淡々と、テンポよく生きたいのに。もっと感謝をして、生きなければいけないことは、知っている。でも今の私のレベルでは、無理。既存の安定という価値観が崩壊した世界を、私は生きている。日々、それは面白い。どうなるのか分からない恐怖。それが絶えず、適度な緊張感になっている。生きられるかもしれないし、生きられないかもしれない。私は絶えず、逡巡している。追い込まれた私が、どんな答えを出すのか、楽しみでもある。私は、私を楽しんでいる。記憶と向かい合い、整理し、さらに昇華させてしまいたい。そして人と適度に接することで、自分の輪郭を意識出来る。その輪郭の内側で、自分の狡さを確認出来る。現実の世界では、その狡さがなければ生きてはいけない。私は神様ではない。すべての人を受け入れることは、出来ない。世の中は狭かった。私はその狭い世界で、自分を守らなければならない。私は今、どこに立っているだろう?不安で仕方がない。自分として、正しく生きているだろうか?消えてしまえばいいと思う人とも、仕事をしなければいけない。それはそれで、仕方がないのかもね。こんな精神レベルで、今の私は仕事をやっている。同じ思考が何度も流れる。ここからさらに高みに行けるだろうか?それを考えると、まだ死にたくはなく。まだまだ生き足りないと、感じる。どこまで人の気持ちを考えればいいのか?真剣に悩んでいた時期が、懐かしい。私だって、自分の人生を生きなければならない。人の気持ちを受け入れる隙間を広げ過ぎると、危険。その按排を、ようやく私自身が理解したようだ。馬鹿笑いは耳障りだ。私は馬鹿笑いをするほど適当に生きてはいないし。己の周囲に子分をはべらせたい人に迎合するほど、私は弱くない。拒絶したり、近寄る。それを近距離で駆け引きしている。私だって、日々、闘っている。隙あらば、この場所から高みに上がりたい。そんな些細な向上心は、絶えずある。繋がっているようで、繋がっていない。そんな感覚から、そろそろ抜け出したい。その為に、転職したのだ。この場所以上の場所に行きたい。そう思って、転職したのだ。精神は見つめることで、向上する。視線が変化し、私はその会社を辞めた。精神レベルが向上することで、今まで不通にやっていたことに疑問を持った。人は、その場所で必死に生きている。それはそれで美しい。ただ。それに対して、私には、冷めた目で見る自分が絶えずいた。私には、その場所で生きることが、出来なかった。それは、学生時代からそうだった。どこか私は、流れの外側にいた。気づくと、集団の外側に、ポツンといた。その時は弱虫だったから、その孤独に耐えられず、好きでもない人と、一緒にいた。今はそれに対して、罪悪感がある。今でもあの時の自分が嫌いだ。あの狡さが、今でも私は嫌いだ。吐き気がするほどに。一人でいることが、今は怖くない。友達という言葉に、私の思考はあの記憶へと不意に遡る。友達とは何か?恥ずかしいけれど、未だに私は自分に問う。そして自身から出てきた言葉。それは、自分がいい時だけ、そばにいてくれる人。これ以上の言葉は出てこなかった。それに対して今の私は、孤独でもなく寂しくもない。この言葉が真実なのか普遍性があるのか?私には分からない。私はこの言葉を自身の物差しとして、今現在は生きている。私は自分に責任を持たなければいけない。人は親切で美しいものだと、今は勘違いしていたい。だから、適度な距離感が必要だ。嫌なことを経験し、今でも深奥に残っている言葉がある。その言葉を私に発した人を、今現在でも殺したいと思う瞬間が、時々ある。そういう言葉を自身に言わせない見えない強固な盾が、今は私の皮膚から内側を守っている。人の本質は野蛮だ。今の私はそれを知っている。その本質から、私は自分を守りたい。毎日、毎日、思考を修正する。その思考はプログラムとして、私自身を動かしている。もっと思考を洗練させたい。私自身がさらに、洗練されるだろう。今まで難しく、考え過ぎていたのかも知れない。誰とでも、仲良くする必要はなかった。人の気持ちを考えるのはすごく大事だけれど、考え過ぎても害になる。私の気持ちだって大事だった。私だって、一生懸命に生きている。出来ないものは出来なかった。ただそれだけだった。自分を故意に傷つけようとする存在と、私は戦わなければならない。言わなければいけない言葉は言う。その言葉を飲むことで、体調が崩れたことがある。現実を生きる人間は、清廉潔白ではなく。だからこんなにも、視線の質が変化するのだろう。だから、適正な距離感が、大事になるのだろう。私は私を生きているだろうか?会社の中は、多数の思惑が交錯している。絶対的な視線など、存在しない流れの中で、みんな自分を守ることに必死だ。今日、優位な視線を持った人が、次の日には劣位になる。私は小さい頃から、本を読むことが好きだった。社会に出て、一番のショックは優位から劣位の変化の速さだった。本は、そんなことは教えてくれなかった。固定した視線では、自分を守れないことを知った。それは、最大の収穫だった。人の内面は、絶えず変化している。変化しなければ、固定した視線でも対処できるだろう。人は変化する。悪にも善にも変化する。私の内面は変化した。それは悪だろうか?善だろうか?それでも。正しく生きたいとは思っている。毎日を連続させる。これはこれで、高度な技術が必要だ。体力をいい按配に使わなければならない。自分の歪みをうまく、コントロールしなければならない。大丈夫。私は私を生きているよ?もう少し進んだら、また自分を俯瞰してみよう。自分を突き詰め過ぎると害になる。最近、それを理解した。私だって、生身の人。自分の限界以上のことは、出来ない。それを素直に認めよう。過去はすでに過ぎている。完全に過ぎていないのは、私の内面の問題。私は今でも、過去を引きずっているのかも?私は自分の見えているものに、最近疑問だ。内面の変化で、見える世界が変化する。であるなら、今見えている世界も、現実のほんの一側面なのかも知れない。私は今、どこに立っているのだろう?そんな些細なことにさえ、疑問を持ってしまう。私はこの世に生まれ、今まで生きてきた。輪郭の外側を、時代が流れた。内面は、その時代の流れに影響を受けている。そして。私は今、ここに立っている。たった、これだけのことだった。私は今、ここに立っているのだ!これはきっとすごい事なんだと、何気なく感じられる。私は私であろうとすることに、私自身が強烈に求めている。その想いに、私は素直に従おうと思う。すべてがきっと美しい。流れる風も、毎日眠いのも、お腹が日々、壊れているのも、きっとすべてが美しい。そのひとつひとつを、あるがままに、受け入れようと思う。これが現実。そこから修正していけば良い。精神だけで、肉体は引っ張れなかった。私の体は、そんなに強くなかった。精神だけで生きられるなら、どんなに楽だろう?ただ。肉体があるから、精神は成長できたと私は感慨する。体をもっと、労わろうと思う。精神のスピードが速すぎて、肉体とのバランスに、絶えずもどかしかった。過去という現実を、違う視点で眺めると、見えなかった次元が姿を現す。それで。私はどれくらい頭の中で、苦しんだろう?すべての視点で現実を見たとき、私の精神は耐えられるだろうか?都合のいい視点だけで、私は日々を生きているような気がする。私の見えていない世界を、見えている人がいる。その逆もある。それは分かる。自分より若い人を見ると、それがよく分かる。目の輝きにも、質がある。何も知らないからこその輝きと、ある程度を知った上での輝きと。私はまだ、生きられるかも知れない。自分の進むべき道が、朧げに見えてきたような気がするから。大丈夫。私はまだ、大丈夫。当たり前のことを、当たり前にやろう。情報が溢れ過ぎていて、その圧力に精神が疲労している。知らなくていいことに、私自身が揺れている。どんな情報でも瞬時に集められることに、私の精神がついていかない。私はどこまで知ればいいのだろう?すべてを知るには、私のキャパは狭すぎる。すべてを知ることに、幸せだと思わなくなった。朝起きて、仕事に行く。一生懸命私なりに働く。一日が終わってお酒を飲んで眠る。そこに私の見落としていた世界を見せられても。そのせいでよく眠れない。だからといって、不必要でもなく。私はそのせいで、落ちこむ。この私の揺らぎを、どう克服すればいいのだろう?その問いの、最終結果として、私は自分を生きるしかない!のだ。私は、自分を生きるしかない。そう結論する。内面を逡巡した結果、そう結論するしかなかった。目の前の生活の為に、私は精一杯生きている。それ自体を、俯瞰で見ることも、見る余裕もなかった。私には夢がある。今現在の感覚としては、ほど遠い。それでも、その微かな希望で、私は何とか生きていられる。私は、内面を必死で探った。これしかない!と確信し、私は今現在、それに進んでいる。どうやら結婚は、私には合わなかったようだ。個として輝きたいと、私自身が望んでいる。私はその欲望に、素直に従おうと思う。今現在、私のいる場所は、私の本当の居場所ではない。そう受け止めて、今現在を生きている。自暴自棄になってはいけない。そう自分に戒める。夢と現実の間で、私はよく生きられていると思う。人の気持ちを考えなければいけないと思うけれど、その人のすべての気持ちを掬い取ることは不可能。人との関わりの中でしか、生きられないことは、ちゃんと理解している。その、人の深い闇に、私自身が呑みこまれてしまいそう。私は今、どこに立っている!そう絶えず自戒しないと、自分が壊れてしまいそう。過去の記憶とも、向き合わなければいけない。現実の生活も維持しなければいけない。私には、やるべきことが、山ほどある。今までの私は、材料を集める為に、四方を歩き回っていたような気がする。歩き回ることで、感情も複雑に動いた。感情が複雑に動くことで、今まで抑圧されていた記憶とも、意識の中で向き合うことが出来た。苦しかった。私に向いていること、向いていないことが、実際に経験することで、納得が出来た。出来ないものは、出来なかった。だから私は、知ったかぶりはしないことに決めた。だから出来る人に対して、素直に今は尊敬出来る。好きで、今の仕事をしている訳ではないけれど、そんな些細なことに気づける働くという行為に、今になって感謝が出来そう。お金がたんまりあったら、未練なく辞めるであろう仕事だけれど。毎日私は葛藤している。そして何とか、自分を納得させている。それで何とか日々を、やり過ごしている。根底では繋がっていない、上っ面の人間関係の中で、私は夢の為に、地道に生きている。私は私を生きる。生きるしかない。その為に、内面を逐一検証している。世の中があり、会社がある。その組織の中で、今の私は生きている。この組織を出て、直接世の中に自分を問いたいと考えている。それにはまだ、実力不足だ。まだ、会社に通うことに、意味がある。誰とでも、繋がりたくはない。社交は大事と、今の私は理解している。私の周辺の殆どは、上っ面な言葉で十分だ。上っ面な言葉のやり取りで、繋がる必要はない。過去の私は、取り残される孤独が、無意識に怖かったのかも知れない。今は自分にとって価値の無い人に取り残される孤独に、怖くない。苦労して高めた自分を、巧妙な甘えによって、貶めたくはない。負ける側に、自分を貶めたくはない。その為に、私は日々、頑張っている。人の気持ちを考えるにも、優れた技術がいる。世の中に対して、正しく生きたい。世の中に、背を向けて生きたくない。世の中に背を向けて生きている人には、妙な魅力がある。私の中にもその要素が、どうやらあるらしい。この要素を、これ以上大きくしたくない。そんな危機感がある。こっちとあっち。そんな価値観が、私の中に生まれた。私は私の価値観で、生きなければならない。世の中に対して、正しく生きたい。人は、それぞれ歪みを持っている。その個人的な歪みに呑みこまれないように、私は絶えず内面を修正し続けなければいけない。個人的な歪みは、その吐き出し先を、隙あらば求めている。その吐き出し先にならないように、私はさらに強くならなければいけない。普通に生きていくにも、疲れる。忍耐が必要。自分を理解し、制御するだけで、こんなにも大変。それでも。そんな自分を俯瞰で見続けなければならない。世の中に対して、私は正しく生きているだろうか?そう、問い続けなければ、心拍数が上がるほどに、不安になる。人間の精神は、厄介だ。多元的で、コントロールが難しい。感情に左右されない人になりたいけれど、嫌いな人を目の前にすると、不自然な心拍数で、苦しくなる。ある程度、狡猾にならざるを得ない。本能に忠実に殺し合いが出来たなら、どんなにすっきりするだろう。私自身に宿る精神に、私自身が振り回されている。もっと高尚になりたい。そう願えば願うほど、残酷な欲望が自分の中で肥大してくるのを感じる。そんな自分に危険を思う。だから私は前の会社を辞めた。適度なバランスが崩れることを、予感したから。自分に合わない集団からは、素直に離れる。その経験から、それを学べた。私は一つ、賢くなったのだ。自分の輪郭の一部分も、知れた。今までそうやって、自分を気づいてきた。私はまだ、自分の流れに忠実に生きてはいない気がする。自分の流れに忠実に生きることは、自分の為になるし、何より世の中により多く健康的に貢献できる。前の会社に居続けたら、私の健康は害され、会社に対してさらに憎しみが増幅していただろう。誰とでも、仲良くする必要はなかった。同じ時代を生きてはいても、繋がりは消えた。それで私は楽になった。それぞれの場所で、私は私で、あの人たちはあの人たちで、世の中に貢献すればいい。会社の思想が世の中に対して合わなくなれば、淘汰されればいい。少しは健全になるだろう?蔓延している過去の価値観なんて、吹き飛んでしまえばいい。人に長い時間を掛けて染みついた常識が吹き飛ぶとき、人はどんなふうに揺れるのだろう?絶対に潰れないと思っていた会社が潰れた。そんな時のような揺れに、似ているのだろうか?と、意味もなく私は考える癖がある。得意げに、グループを作りたがる人がいる。そのグループが崩壊していく様は、何気なく小気味良い。人にはそれぞれ立ち位置があるのかも知れない。ようやく自分のそれが、見えたような気がする。私の立ち位置は、集団から少し離れた斜め上。そこの場所が、私の立ち位置だと考える。私はこの場所で、自分の輪郭で楽しもうと思う。記憶を遡ると、気づくといつもこの場所にいた。この場所が、私の位置。崩壊していくグループの中心人物は、その器ではなかったのだろう。自分の見えていた世界と、崩壊したグループの無残な残骸が一致した時、私はなぜか勝ったような気持ちになる。私は、この場所で生きる。ここが、私の生きる場所。ここ以上でも、ここ以下でもない。普通の日常を生きているのに、こんなにも、何度も自分を確認しなければならない。日常は微妙に揺れている。この立ち位置からズレてしまうと、私自身が揺れてしまう。気をつけなければいけない。誰もそんなことは言ってはくれない。今は難しい時代だから。発する言葉にみんな気を使う。陰湿な欲望が堆積していく。そのエネルギーが、こっちに向かってこないように、私は感覚を研ぎ澄ませる。この駆け引きがスリル。大丈夫。私はまだ生きられる。繋がっているように見せかける技術も大事。こうやって人類は、生き延びてきたのだろう。私はそんな思考で、今の自分を肯定する。間違っているだろうか?人が好きとか嫌いとか、輪郭がはっきりした言葉では、今の私の感覚を説明することは出来ない。好きとか嫌いではなく、私は人なのだ。人の中でしか、生きられない。その、人の中で、感情が揺れる。精神が掻き回される。人は絶えず揺れている。その揺れている人を、一つの視点で見ることに、意味があるのだろうか?誰でも私でも、こっちの人にもあっちの人にもなる可能性がある。日々がフツーに終わる。それはもしかしたら、とてつもないことなのかも知れない。今、見えている世界から抜け出したい。だから私はお酒を飲むのかも。現実を認識することに、苦労する。実際に痛みを感じて初めて、現実を認識できるのかも知れない。痛みを感じることは、適度に必要なのかも?痛みを感じなければ、現実と虚構の境界線が、曖昧になってしまう。芸能人もきっとこの罠に、嵌るのだろう。感覚だけで成功してきた人は、虚構の世界に簡単に入室する。それをばらされ言葉にされた時、目の前に現実を突きつけられるのだろう。誰にでも、そんな欲望はある。そんな欲望を、深奥に抑圧している。それを理性で何とか抑えている。それを芸能人がやった時、その抑圧された欲望が誹謗となって流れ込む。たいした実力もないのに、一般人では到底出来ない生活が出来ている。その嫉妬のエネルギーも、巧妙に隠され流れ込む。人の怖さを、安全な場所から俯瞰している私。気づくと私は、人の幸せを求めてはいない。人の不幸で、何とか今現在の自分を支えている。そんな私は今現在、幸せだろうか?何を以って、幸せというのだろう?私はまた、どうでもいいことを、言葉に無理やりしようとしている。多読のせいかも知れない。人間のすべてを言葉にすることが、出来るのだろうか?私は十分、自分を考えてきたし、未だに考えてもいる。これ以上、考える必要があるのだろうか?それさえも、自問自答している私。目の前の生活の為に、今現在の私は、目の前の現実を生きている。私は離婚した。その経験により、男を見る視線が変化した。男というものを、実際に学んだ結果、視線が変化した。私という人間が、また一つ、現実を知った。それでも冷酷に、残酷に、時間は目の前を過ぎていく。お腹が空くし、疲れたら眠りたくなる。自分の基準を上げるしかないと、私は気づいた。今の基準のまま、視野を広げても、出会い、繋がれる人は、今の基準の延長線上の人としか、繋がれないということを、悟った。学ぶということは、辛くて孤独な作業だけれど、自分の基準を上げる効果がある。誰とでも、繋がりたくはない。私には、小学校の教師は無理だろう?「誰とでも、繋がる必要はありません」と、言ってしまいそうな気がする。私は未だに、自分の内側にある価値観と闘っている?そんな気がする。どうして大人は、子供に嘘を教えるのだろう?大人になった私は、それが最大の害になったような気がする。誰とでも、繋がる必要はなかった。私は私でいていいのだ。それを世の中に出ることで、知った。芸術を通して、精神でだけ、他と繋がりたい。今はそう考える。世の中には、いろいろな人がいる。それを実際に知れたことが、よかった。そんな過去の自分が、自分の内側で過ぎようとしている。嵐の前の静けさの中で、ほんのちょっとだけ、深い睡眠ができるかも。私の内臓が、今日は珍しく落ち着いている。今は珍しく、静かに時間が過ぎている。火の粉は振り払わなければいけない。普通に生きていきたいと、願っているだけなのにね?戦う準備は出来ている。この静かな時間の中で、シミュレーションは心拍数を上げて、何度もやっている。すでに、過去の私ではない。記憶は私の内側で対流し、その時々の心拍数が蘇る。少しは賢くなっただろうか?今度、似たような場面に遭遇したらと想定し、私はシミュレーションを繰り返す。今は皮膚の上を、穏やかな時間が流れているのに、内面は緊張している。過去の自分より、賢くならなければ。その為に、無残な過去の自分と向き合っている。その都度、イライラする。それでも、目の前の生活を維持させていかなければならない。思考が搔き乱される。大丈夫。大丈夫だから、私。思春期は思春期で、精神的に辛かった記憶がかろうじて残っている。今は思春期ではないけれど、イライラする。大人も苦しんでいるということを、大人になって知った。静かに時間が流れている時こそ、内面を修正し、警戒していなければ。人の流れと視線は瞬時に変化する。その時の為に、準備をしていなければ。先のことなんて分からない。今現在の私は、求めた自分になっていない。手を抜いて、生きてきたわけではない。自分に気づきながら、修正しながら、日々をそれでも生きてきた。後悔はない。不思議なくらい、後悔がない。私にとって不必要な時間は、目の前を素っ気なく過ぎていけばいい。その時間と私は、繋がらない。その時は内面に籠り、内面の時間と繋がることにする。皮膚の上を流れる時間に、一々反応していたのでは、私の精神が壊れてしまう。有限な時間を大切に使わなければ。私は私の範囲内でしか、生きられなかった。だから私は本を読むのかも知れない。現実との繋がり方が、大人になってうまくなったような気がする。体力は有限。その有限の体力を、効率よく使わなければ。若い頃のように、一々反応しなくなった。だって疲れるもの。止め処なく溢れてくる思考が言葉になって、内面を流れる。その処理に、莫大なエネルギーを使う。私という存在に、私自身が不思議。溢れてくる想いがあるから、その想いに忠実に従っているだけ。自分が苦手なことは、する必要はないと考える。得意な人に、やってもらえば良いと考える。自分に対して、あるがままでいたい。そう思えるようになった。私は私を生きる。出来ないものはやらない。誰とでも理解し合えるなんて、幻想だった。私の心臓にも限界がある。自分の想いを言葉にするには、ちょっとしたエネルギーを消費する。集中し、言葉を瞬時に組み立てなければならない。それが面倒になったということも、離婚原因の一つだったのかも。私は自分を理解して欲しかった。それは、稚拙な行為だったのかも知れない。時間が過ぎることで、見えてくる世界がある。その世界を、未だに私は検証している。生きているだけで、過去が体内に蓄積していく。目の前を生きる今日の私は、正しく生きているだろうか?これもまた、過ぎてみなければ分からないのだろう?今日を生きることで、私の中で、今日が過去になっていく。自分の中で、過去を澱ませることに、危険を感じる。そのせいで、現実を現実として、受け入れられなくなるような気がする。今、に合わない服装をするような?過去は過ぎた。それは仕方ない。何度も自分から離れ、何度も自分に帰ってきた。仕方なく、私は自分をやっている。一度に自分を受け入れることは、出来なかった。長い時間が必要だったし、まだ長い時間を必要としている。どうしてこんなにも、自分に対して苦しいのだろう?まだ、思春期が完全に抜け切れていない?こんな自分に滑稽。過去の残骸が、私が前を向くことを躊躇わせる。ただ。未来は焦らなくても、気づくと、いた。目の前のことを確実に。そのまどろっこしい繰り返しの先に、周辺の目障りな質量が消えていた。私にとってはノイズだった存在。不必要だった繋がりが、いつの間にか消えていた。内側にある隙間を潰していくことの大切さに、今の私は気づいた。退屈で無意味だと思っていた日々に、こんな効果があったことに、素直に驚いている。今の私と向き合うために、過去がランダムに並んでいる。一人で部屋にいる時が、一番忙しいかも。そして人に実際に会うことで、自分の強度を確認する。その繰り返しが、今の私の日常だ。今の私は、過程。未来へ連続する、一場面に過ぎない。そんな確信がある。大丈夫。目の前のことを懸命に。そして俯瞰で考え、修正する。その膨大な繰り返しで、また見える世界も変化していくだろう?人の視線に鋭敏に。人の視線は瞬時に変化する。その視線で自分の内側にある隙間に気づく。その隙間を、極秘に早急に潰さなければいけない。そして実際に人に会うことで、その効果を内密に確認する。人の流れは突然に揺れる。いつでも逃げられる準備をしている私。思春期の頃の、潔癖な正義感は、今の私にはない。すっからかんなくらいに、ない。今の私は狡猾だろうか?子供がいないから、分からない。子供がいれば、指摘をしてくれた?あるかも知れなかった未来に、ほんのちょっとだけれど、心残り?のような痛みは、ある。本能そのままに従えるほど、すでに私は純粋ではなかった。人類は生存を望んでいる。そのDNAの気配は、自分の内側に感じている。無感覚でいられるほど、そこまで私は馬鹿ではない。世の中は成熟した。その中で、優劣を競わなければならない。私は自分の遺伝子に、自信が持てなかった。生まれてきて良かったと思える子を、産む確信が持てなかった。私は別れたあの人の子供を、欲しいとは思えなかった。離婚することに、それ程の痛みはなかった。そんな予感は結婚前に、私の内側にはあった。それを、見ないふりしていた。今だから分かる。私には、どこか自分を冷めた俯瞰で見る、もう一人の自分がいる。その冷めた自分が、子供を持つことを、危険と私に知らせた。幸せを求める私と、危険を知らせる自分。どうでも良い、でも完全には無視できない世間体。私はその揺れの中で、苦しんでいたようだ。少しずつ、また過去が暴かれる。その暴かれた過去を、噛みしめなければならない。人はなぜ?と訊きたがる。その答えを言葉にして、その時の為に、一々用意しておかなければならない。人づきあいの煩わしさから、完全に自由になれない。その為の、言葉にする準備。その言葉が意識下へ、沈んでいく。その時、私はうまく反応し、瞬時に最適な言葉を取り出すだろう。流れの中で、うまく岩陰に身を隠したい。いつも自分を、突きつけられてきたような気がする。その都度言葉にして、自身に問い続けている日々。いい方向に、歩いているだろうか?思考の中で、息苦しさを感じる。この緊張感を、緩和させたい。だから私はお酒を飲むのだろう。意識や繋がりから、自分を解放させてしまいたい。そんな逃避願望は、一日が終わると溢れてくる。生きていることに、感謝をしなければいけないことは、知っている。でも疲れきっていて、それを感じる余裕がない。こんな感じで後悔して、死んでいくのだろうか?今の私には、今の私の焦燥がある。いくつになっても、些細な悩みは尽きないらしい。ようやく純粋な若さから抜け出せたのに。  生まれて、出会って、生きてきた。その殆どの出会いに、深い繋がりを、私は持てなかった。友達が多い人の偽りを、今の私は知っている。人は、そんな簡単に繋がれない。家族でさえも、家族だからという理由で、何とか保たれている。時代がどんなに進んでも、不文律がある。すでに、過去の私ではない。私の内側に残っている人達も、きっとそこから進んでいるのだろう?時間は流れている。今までの経験は、必要だったと考える。未だにその経験を、内側で咀嚼している。静かに現実を生きたい。感情を安定させて、省エネルギーで日々を流れたい。現実は揺れている。その揺れに、正しく身を任せたい。魚のように。揺れの中で、自由でいたいと考える。私は正しく揺れているだろうか?その揺れを、正しく修正しているだろうか?  遠い記憶が不意に、それでいて自然に溢れてくる。日々は忙しい。その忙しさに、私は無理やり参加している。別に私がいなくても、その忙しさは普通に継続される。所詮、自分という存在はこんなもの。家族の中で、私という存在は、特別な存在だった。それが社会に所属することで、その中で、私という存在には代わりはいくらでもいるということに、びっくりした。人は、日々、会社に吸い込まれていく。その吸い込まれていくことに、私はプライドを持っていた。私には、代わりがいる。その事実に、素直に挫折した。自分の存在の位置を、捉え直さなければいけなくなった。私は社会という流れの中の一部だった。  私は私の場所で輝く。  今、私はどこに立っているだろう?
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