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電車を降りると、わたしと高岸君はいつものように並んで歩き出した。今日は一段と蝉の声が大きい。緩い坂道は、住宅街の中を軽く右にカーブしながら続いていく。
「ねえ、高岸君、三十年後の自分って想像つく?」
セーラー服の裾を翻し、たった今すれ違ったばかりの中年夫婦を振り返って、思いついたようにわたしはきいた。
「普通のおっさんになってるな。浦上さんは、僕のオカンみたいに小太りになってるかも」と、うっすら額に汗をにじませた高岸君はいたずらっぽく微笑んだ。
「やだー。そんなこと聞いてるんじゃないよ。将来の仕事とか、家族のこととか、そういうのを聞いてるの」
わたしは頬を膨らまして怒ったふりをしたが、すぐにぷっと吹き出した。高岸君もつられて笑った。
わたしと高岸君は同じ高校の同級生だった。同じクラスになったことはなかった。しかし、学年に十数人しかいない電車通学生ということで自然と仲良くなった。
お互いの家は少し離れていたけれど、同じ駅を利用していたし、二人共いわゆる帰宅部だったこともあって、時々一緒に登下校した。
「わたしは東京の大学に行って、小学校の先生になってるな。結婚して子供ができても、辞めずに続けるの」
「そっか……。浦上さんは向こうに戻るんやったな」
高岸君は神妙な顔つきになった。わたしはもともと東京の出身だ。父親の転勤で、中学一年から関西にあるこの中規模の町で暮らしている。高校三年の夏休み直前のこの時期に、すでに推薦で東京の大学に進学する予定がほぼ見込まれていた。
「高岸君は?」
「やっぱり獣医になりたいから、頑張って獣医学部のある大学を受けまくるつもり」
「東京の大学も受ける?」
わたしは祈るような気持ちで高岸君を見上げた。
「受けるで。合格すればええけどな」
そう言うと、高岸君はぷいっと顔を背けた。強い夏の日差しに照らされた高岸君の白いシャツが眩しすぎて、わたしは目のやり場に困った。
「ここ知ってる? 新しくできたケーキ屋さん」
わたしは話題を変えようと、右手のクリーム色の建物を指差した。壁には、『Green leaves』と、緑色のタイルに金色の文字で店の名前が書いてあった。
「ねえ、おいしそうじゃない?」
「そやな、ちょっと入ってみよう」
連れ立って階段を降りると、高岸君が恐る恐るガラスのドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
そこは、店員の若い女性が一人いるだけの小さな店だった。他の客は誰もいなかった。少しためらいながらも、わたし達は甘い匂いに誘われて、ガラスケースに近寄った。様々な色や形をしたケーキが、輝く宝石のように並んでいる。
「わー、綺麗……、美味しそう……」
わたしはつい声が漏れた。
店の奥に目をやると、ガラスで仕切られた部屋の中で、眼鏡の男性が黙々とケーキを作っているのに気がついた。狭い店内の右の角には、小さなテーブルが一つと椅子が二脚置いてあった。ここで食べれば、もう少し高岸君と一緒にいられる。
「浦上さん、ここで食べられるみたいやけど、どうする?」と、高岸君が少し緊張した面持ちでわたしの顔を見下ろした。
「うん、食べよう!」
わたしは体中から溢れ出る嬉しさをなんとかかみ殺した。こんなデートみたいなことをするのは生まれて初めてだった。それも相手は大好きな高岸君だ。わたし達は席に着くと、少し迷ったが結局同じものを選んだ。シュークリームだった。高岸君はコーヒーを、わたしは紅茶を注文した。
しばらくすると、飲み物と一緒にシュークリームが運ばれてきた。食べている間も、わたしはクリームがはみ出さないように、大きな口を開けないようにと気になって、味わうどころの話ではなかった。小さなテーブル越しでは高岸君の顔があまりにも近くて、上手くしゃべることができなかった。借りてきた猫みたいに大人しくなったのは、高岸君も同じだった。
「あの……。これ、抹茶を使った新作なんですけど、ちょっと味見していただけませんか?」
突然、女性店員が声をかけてきた。手に持ったお皿には、ケーキが一つ乗っていた。鶯色の生地と真っ白なクリームが綺麗な渦を巻いている。わたしは心の中でジャンプした。
わたし達は一つのケーキを仲良く食べた。本当は高岸君がフォークで触れたところを食べたかったけれど、わたしは遠慮がちに手前側だけをつついた。
「うまいな。抹茶の程よい苦味が効いてる」と、高岸君が大人っぽい口調で呟いた。
「うん、生地がふわふわで溶けた。クリームもすごくまろやかで甘みも上品で、紅茶にあう」
わたしもテレビのリポーターを真似て言ってみた。さっきまでの緊張が嘘のように会話が弾んだ。
あっという間にケーキを平らげた二人に、「いかがでしたか?」と店員がたずねた。わたし達は顔を見合わせた後、とびきりの笑顔で「すごくおいしかったです」と応えた。店員はにっこりとした。そして、ガラスの向こうで作業をしている眼鏡の男性に目配せをすると、満足そうに頷きあった。
店を出る頃には、日はすでに沈みかけていた。かつて見たことがないほど真っ赤な夕焼けがわたし達を待っていた。
ゆっくりと歩き始めた高岸君が「うまかったな。あの抹茶ロール」と口を開いた。
「うん。最高においしかった」
高岸君と食べたから余計にそう感じたに違いない。クリームの甘味とまろやかな舌触り、ふわふわとした抹茶の生地の食感、思わず深呼吸したバニラの匂い、それらの全てを、わたしは高岸君の笑顔と共にしっかりと心に刻み込んだ。
「さっき、三十年後の話、したやろ?」
「うん」
「そのとき、もしまだこのお店があったら、また一緒に来ようか?」
高岸君は、下校の待ち合わせの約束でもするようにさらりと言った。わたしは頬がかっと熱くなるのを感じた。
「なにも三十年待たなくても、近所なんだし、明日から夏休みでしょ? また一緒に来られるじゃない」
なんて大胆な発言をしたんだろう。言ったそばから、いたずらがばれた子供のように走ってここから逃げ出したくなった。でも、「そやな」と、高岸君が納得したようにクスリと笑ってくれたので、わたしはほっと胸を撫で下ろした。
そんな高岸君が、急に真顔になった。夕日に伸びる背の高い影が、隣の頭一つ小さな影に少し近づいた。
「手、出して」
ぶっきらぼうな言い方に、わたしは一瞬固まった。これって、もしかして――。口から心臓が飛び出しそうになった。今から起こることがなんとなくわかったからだ。わたしは、おずおずと言われるままに右手を出した。高岸君の左手がわたしの右手にぎこちなく触れた。心臓の鼓動がまわりに聞こえるほど高鳴っている。耳まで真っ赤なはずだ。高岸君は繋いだ手にぎゅっと力をこめた。わたしもそっと握り返した。
「明日からオカンの田舎に行くねん。帰ってきたら、電話してもええかな?」
わたしの住むマンションの前に着くと、高岸君がぼそりと言った。わたしは高岸君の喉の辺りを見るのが精一杯だった。
「うん、電話待ってる」
「じゃ、バイバイ」
「バイバイ」
どちらからともなく、触れあっていた指先をそっと離した。わたしは赤い顔を隠すように小走りでマンションのエントランスを抜けると、振り返らずにエレベーターに飛び乗った。
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