『見知らぬ約束』

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ある中堅精密機器メーカーの営業マンがいた。彼は35才で、今は独身生活。今の地域に単身赴任なのだ。 なかなかの営業成績を収めている男で、仕事人間。ミスター営業マンとかエースなんて呼ばれたりもする。 そんな仕事盛り仕事人間の彼でも、結婚2年目35才という年で妻と離れて単身赴任しているのは寂しいことに違いは無かった。 今夜も遅くまで営業活動をして深夜近くに帰宅となった。 帰宅するとすぐにシャワーを浴びる。一日の汗を拭い落としたらナイトガウンを着る。 そしてソファでくつろぐというわけではなくパソコンを据えたデスクの前に座る。 まだ仕事は続くのだ。 上昇気流に乗った彼の人生でからこそ、一日のこんな終わりも容認できるというものだ。何かの心の支えが無ければ、こんな味気ない日々は堪えられるものではない。 脇のテーブルには仕事帰りにコンビニで買った弁当を2種類とほかに惣菜を2,3種類。袋から出して広げ、缶ビールを開ける。パソコンのモニターを脇目に見ながら惣菜をぱくつく。 全部食べきれるわけではないが、昼間はろくに食事をする時間のないことも多く、そばだのうどんだのカレーだのと単品でさっさと食べ終われるものばかりなので、夜はせめてバラエティに富んだ食事をしたいと思い、毎晩必要以上に食べ物を買って帰る。 半分くらい食べ残して捨ててしまうことも多い。 「心の豊かさを維持するための物質的ムダの許容」と考えているが、「まあ、もったいないし、よくないことだ」そういうことは感じている。 それでも、鶏の唐揚げを一つほおばってビールを一口飲めば、やはり幸せだ。 そうして彼は、夕食兼晩酌を楽しみながらパソコンに向かい、 「さて、あすの予定は、と……」 パソコンのスケージュールアプリを起動する。 これは内容がスマートフォンのスケジュールアプリとも連動していて、彼は毎日、このアプリを見ながら行動しているのだ。 「あ、そうか。もう9月も終わり。……10月か。早いな」 そう言いながらビール片手に立ち上がるとパソコンデスクの横の壁に貼り付けてあるカレンダーの前に立った。彼はカレンダーの月を一枚、びりりと剥ぎ取った。 「あれ?!なんだこれ?」 このカレンダーは日付毎の下に空欄がある。カレンダーに書き込みが出来るのだが、彼はこの欄に何か書き込むことはしていない。 スケジュールはパソコンのアプリで管理しているからだ。 それなのに、10月10日の日付に赤マジックで丸が付けてあり、その下に「S高原ホテル 午前10時」と書いてある。確かに自分の字だが書いた覚えがない。 スケジュールアプリのほうを見ると、そこにもやはり10月10日に「S高原ホテル 10時」と書いてある。だが、誰に会うのかなどの詳細は書かれていない。 「おかしいな?。まったく記憶にない約束だ。誰かに会って商談をするのだろうとおもうが……。場所から言うと接待ゴルフも考えられるな。だが細かい情報が書かれていないと、どうすればいいのかわからないぞ。俺としたことが、きっと何かに気を取られて詳細を書くのを忘れたんだな。日時と時間しか書いていないなんて……どうしたらいいんだ!」 自分の仕事の予定など、ほかの誰に確認することもできない。 彼は困った。 翌日、彼はS高原ホテルに電話をしてみた。そして、どうも自分の名前で一晩部屋が取ってあることがわかった。だが、誰に会うのかがわからない。 「わたしは誰と会う約束をしたのでしょう?」 なんて、ホテルの人に恥ずかしくて聞くわけにも行かない。 彼はベテラン営業マンだが、いつもの仕事でこんな初歩的なミスをするとか、すっかり忘れて思い出せないなんてことは経験がないのでひどく焦りを感じた。 「大変なことだぞ。いつも人に会うときは資料など準備万端で行くのに、そういう準備ができない。だいたい、ホテルの名前しか書いていないから、ホテルで会うのか、そこから移動して相手先の会社などへ行くこともあり得るし……いや参ったなぁ」 彼は悩み、手を尽くして探ったが答えが出ないうちに10月9日がやって来た。 「よし、あしたは、もう何でも対応できるようにして行くしか無い。資料を各種取りそろえて……ゴルフ道具も一式持って行こう。一泊部屋を取ってあるのだから、夜にパーティーなどがあるのかも知れないな。少しフォーマルな服もあったほうがいいな……あとは、あとは」 夜遅くに、せっせと大荷物を車に積み込んだ。 早朝、S高原ホテルまでは車を飛ばして2時間くらいで到着した。 「さて、ここからだぞ。スケジュールに書いてあった10時という時間は、相手に会う時間ではなくてこのホテルにチェックインするという意味だろう。だから約束の時間は別にあるんだ。もうしかたがない、腹をくくろう。約束の時間に約束の場所へ行かなければ相手から連絡が来るに違いない。そうしたら平謝りに謝って……それしかない」 彼はいつでも飛び出せるようにホテルのロビーにスーツ姿で待機した。 「誰か来るだろうか。もし初対面の相手との約束だったら、どうしよう」 ソワソワとずっと周りを見回した。『仕事っぽい出で立ち』で正面玄関から入ってくる人やホテルのエレベーターから降りてくる人を見ると、ハッとしてじっと見つめた。だが相手は知らん顔。たまにこちらがじっと見ていることに気づくと、いかにも見た目が営業マンの男から見つめられているので、何か売りつけられる様な気がするのか、サッと目をそらす人もいる。 そんな中で見つめた男性がにこやかにほほえみながら近づいて来て右手を差し出し名を名乗って来た。 こちらも手を出して名乗りながら握手し、名刺を出して交換し、「さて、これはどんなひとだったか?」と探りを入れながら世間話をし、それで初めてお互い、何の関係も無い相手だとわかりのけぞってしまった。 相手の男性は「約束に遅れた」と憤慨して去って行った。 「ああ、なんてことだ。やっぱりうまくいかない」 時間はどんどんたつ。もうお昼に近くなった。 「ううん……ううん」 彼が唸りながら冷や汗をかき顔を真っ赤にしたり青くしたりしながらロビーのソファにすわっているので、ホテルの人間が、 「お客様。どこか体の具合でも悪くなさいましたか?」 なんて声を掛けて来た。 「いやいやいや、いいんです。だいじょうぶ。お気遣いありがとうございます」 なんて苦笑いしていると、またひとりそばに誰かが寄ってきて彼の前に立ち止まった。 「どうしたの?」 女性だった。 「あ、え!?」 相手が仕事着とはとても思えない小洒落た服装の女性だったので、声を掛けられて虚を突かれ、彼は声を上げておもちゃの人形みたいに、ギクシャクぴーんと立ち上がってしまった。 「どうしたのあなた。なんでそんな格好なの?朝、ゴルフに行ったんじゃ無いの?」 彼は、気心の知れた調子で話しかけてくる女性の顔を見つめたまま、声が出なかった。 「スーツ着て遊びに来たの?それとももしかして、仕事になっちゃった?」 その女性は彼の妻だった。 「き、キミはなんでここに???」 彼は絞り出すように言った。 「何を言ってるのよ。今日はあなたの誕生日で、社則で休暇を取ることになっているから、リゾートのホテルを予約した。自分は朝から軽くゴルフをして、お昼から会おうって言ったの、忘れちゃった?」 彼が真っ青な顔になって、ホテルの名前と時間しか書いていないスケジュールが一件あって、それを仕事だとばかり思って、いままでずっと右往左往していたことを妻に話すと、 「キャハハハハハ」 彼女はおなかを抱えて笑い出した。 「ああ、でもよかった。キミに会えて。下手したらどうなっていたか……」 「フフフ。ねえ、ミスター営業マンさん、今日の仕事は終わったのでしょ?だったら、わたしと食事に行くのはどうかしら?」 彼女は彼の腕に自分の腕を絡ませて微笑みかけた。 「あ、ああ、いいね。ちょうどお腹が空いたところだったんだ。……食事に行く前に提案なんだけれど、1度部屋に戻って荷物を置いて、この冷や汗をシャワーで流してから、こざっぱりした服に着替えたいと思うんだが、承知してもらえるだろうか?」 「確かに、それはとてもいい提案だと思うわ」 「ありがと」 ところで、こんな、少々ミステリアスでドラマティックな出来事が、この静かなホテルのロビーで起きていたことに、ほかに気づいていた人は一人もいなかっただろうと言うことが、少し残念である。 おわり
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