今ここに

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今ここに

 「じゃあ、いつでも遊びにきてね」 「学校辞めるならちゃんと手続きしに来なさいよ」  駅の改札を通り抜けた後も、凛子は雑踏の中、何度も振り返った。仁もその度に大きく手を振った。  最終便よりも2本前の新幹線に乗り、凛子はリュックのポケットからイヤホンを取り出した。さっき録音した、仁の(ラフマニノフ)を聞き直す。  アナウンスの後に扉が閉まり、車輌はゆっくりと動き出す。凛子は真っ黒な窓に映る自分の仏頂面を見つめながら、音楽を耳の奥に鳴り響かせた。 (将来の私たちは、どこにいるか分からない)  不安をポケットの中で握り締めながら、凛子も仁も立っている。正直なところ、自分のたどり着きたい結末に向かえるのかは分からなかった。相変わらず仁の方がピアノも上手で、続ける意味を問われると凛子は何も答えられなくなる。 (でも、今、ここにいる。ここからまた始まっていくんだわ)  怖々と踏み出す一歩一歩は、二人を確実に前進させていく。  明日の試験のため、東京に着くまでの数時間だけ。凛子は目を閉じた。  少しファスナーが開いたリュックから、金木犀の甘い匂いがしていた。 〈おわり〉
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