仁と凛子

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「そこはもっと強く。楽譜をちゃんと見なさい」  教師の声に含まれた苛立ちに、凛子は竦んだ。一瞬の静寂の後、震えながらも意志の強い声で抗う。 「......楽譜のフォルテは、強く出す音と言うより、ここに惹きつけるための表記と思いました」 「教師に意見するのか。うまく弾けているならまだしも、惹きつける音にはなってなかったと思うがね?」  太いバリトンに、今度こそ凛子は萎縮して口を噤んだ。 (だって、仁がそう言ってたもん)  大阪で両親と一緒に暮らしていた頃、リビングの窓を開けると庭の大きな金木犀が香った。  その時期にちょうど仁はラフマニノフの「鐘」で知られる前奏曲を弾いていたから、凛子にとってその曲は、花のもったりとした甘さを纏っていた。 「ところで、弟君からは便りがあったかね」  教授は仁が入学した頃に彼を担当していた。それは《優秀な生徒を持つ教授》として株を上げる機会だった筈だ。凛子は唇を尖らせたが、渋々口を開いた。 「今はケニアにいるようです」 「ケニアか」  呆れたような溜め息の端には笑いが混じっていた。 「天才の考えることは解らんな」
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