仁の居場所

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 大阪の池田市八王寺では家族四人で暮らしていた。  庭にあるたくさんの木々は季節ごとに花や実を付けた。窓際には小型のグランドピアノがあり、凛子はレースのカーテン越しに光を浴びた仁のドビュッシーが好きだった。  凛子は今まで送られてきた葉書をもう一度まじまじと見つめた。  最初に送られてきた葉書を受け取った時、「坂」の字が間違っていると失笑したが、文字を拾い集めてみると、大阪の地名になる。  そこにいると言っている外国の地名の頭文字だけ取ると「タスケテ」になる。仁ならば本当に外国に行ってもおかしくないような性格なので気にも留めなかった。  慌ててリュックから楽譜の束を引き出した瞬間、凛子はふと我に返った。明日はピアノの実技試験がある。それでもかぶりを振って楽譜を投げ出すと、全ての便りと白餡のたい焼きをリュックに入れ、アパートを飛び出した。 *****  晩の冷えた空気が鼻先に沁みる。荒い息をしながら長い髪をなびかせ、凛子は懸命に走った。駅から八王寺の家までの様子は鮮明に覚えている。 (仁のバカタレ! 明日の試験、どうしてくれるのよ!)  頭の中は弟への悪態でいっぱいだった。けれど迷いはなかった。もう二度と想いはしたくなかった。
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