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『無理。試験の曲が全然弾けてないもん』
1年前の凛子は唇を尖らせて不満を表した。ピアノにはいつもの仏頂面が映っている。その後ろには、出かける準備が整った父親の姿があった。
『凛子が行きたがってたじゃないか。インスタの店』
『……そうだけど』
以前から決まっていた家族の予定。けれど凛子はまだ部屋着のままぐずぐずしていた。出かけようとしない娘の姿に、母は溜め息を吐く。
『じゃあ、何か美味しいお土産でも買ってこようか』
しばらくの沈黙の後、凛子はムスッとしたまま小さく頷く。
『凛子が行かないなら、俺も残るよ。飯作ってやるし』
母の隣にいた仁はキャップを頭から取って上空に放る。くるくる回ったそれは、持ち主の手に上手にキャッチされた。
『いいわよ、仁も行ってきなさいよ』
『だって凛子、一人だとちゃんと飯も食べないし。そもそも料理下手だし』
小さい頃から器用でなんでもできる仁。同じ試験を受けるのに、彼は既に準備を終えていた。そんなに練習している姿も見ないのに、凛子よりもずっと上手に弾けていた。
『たまには二人にしてやろうよ』
凛子の横にやってきて囁いた仁。ハッと弟の顔を見上げると、悪戯っぽく笑っていた。
その日の夕方、食事を終えて再びピアノに向かっていた凛子。窓から吹き込んでくる金木犀の香りに、ドビュッシーの煌めくような旋律が乗っていた。それを割るかのような電話の音。
『はい』
片付けを終えた仁が応対してくれた。うるさくないよう、凛子はピアノを弾く手を膝に乗せて、ほっとしたように大きく息を吐いた。この調子でいけば、試験に間に合うかもしれない。
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