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変身はいつでも解除できるらしいが、元の姿に戻らず【山田太郎】そのものになって、生活している人間もいると聞く。
これは【山田太郎】による完全な監視社会であり、
【山田太郎】による思考の統一。
この世界では【山田太郎】は身の潔白を証明する手段であり、逆に【山田太郎】にならない人間は、犯罪者予備軍として周囲から白い目で見られて社会から爪弾きにされる。
いわば【山田太郎】は、現代社会の踏み絵なのだ。
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今日も鈴木は【山田太郎】の溢れる電車に乗って、【山田太郎】がひしめく街を歩き、【山田太郎】がつとめる会社に出社する。
男も女も学生も子供も老人も、みんな【山田太郎】。
無駄な筋肉を誇示して、恫喝するような威圧声で会話し、美も醜もない【山田太郎】で容姿が統一されている。
みんなこれで良いのか? このまま無個性にまとまって、監視社会になって、自分の大事なものがじわじわ殺されていくんだぞ。
だが、周囲が【山田太郎】享受する姿に、さすがに心が折れてきた。
そんな時だった。
「あの、すいません。道を教えてくださいませんか?」
「あっ」
会社に行く途中だった。久しぶりの女の子の登場に、鈴木は虚を突かれてしまった。しかも、生まれて初めて女の子から声をかけられたのだ。
声をかけてきた女の子は、小柄な体に地味目なスーツ。黒髪のおさげに、幼い顔立ちが鈴木の保護欲を掻き立てる。
「その、だめですか?」
「あ、いえ。いいですよっ!」
久々に【山田太郎】ではない人物に話しかけられて、鈴木は生きた心地になった。しかも、かわいい女の子だ。おどおどとした態度も、鈴木の自尊心をくすぐり、絹のように柔らかな声がじんわりと耳朶に染み込んでいく。
だけど、腑に落ちなかった。
「ありがとうございます。助かりました」
感謝を告げる女の子に、鈴木は訊きたくなった。
「あの、なんで私を? 【山田太郎】の方が信用できるのでは?」
「えぇ、だけど。話しかけるには怖いし、【山田太郎】になるのも、元の自分と違うから抵抗があるし」
「そ、そうだよね。ごめんね」
「いいえ。本当に助かりました! ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる女の子を見送って、鈴木は久々に誇らしい気分でいっぱいになった。
自分は間違っていない。
そんな確信に、全身から力がみなぎって、今日も胸をはって頑張って生きていけると思った。
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