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金魚
家にはいつの頃からかずっと金魚がいた。
幼い頃にも金魚は常にいたし、僕の記憶の中には玄関の金魚鉢の中で元気に泳ぐ金魚たちの姿があった。
赤と白のコントラストが美しく元気に泳いでは口をパクパクとさせて餌をねだる姿がとても可愛いかった。僕は寂しい時一人金魚を眺める時間が好きだった。ユラユラと泳ぐもの、底の方でじっとしているもの、元気に泳ぎ回るもの、そのどれもが愛おしかった。
その金魚たちは僕が初めて出来た彼女と行った花火大会の縁日の金魚すくいで彼女のためにすくったものだった。彼女はとても喜んでくれたが家では飼えないから陸くんが大切に育ててね。と優しい笑顔を浮かべていた。
それから、5年僕はいつしか心を閉ざすようになった。外にも滅多に出ることも無くなりあまり何にも関心を持たなくなった。
今の僕を見たら彼女はどう思うだろう。
僕は想像するのも怖くなって思考を辞める。
その花火大会から程なくして僕は彼女と別れた。
彼女もどんどんダメになっていく僕を見るのが辛かったのだろう。
僕は赤と白の一際小さな金魚が好きだった。
露天ですくったときと変わらない大きさで僕は金魚にも生存競争があることを知った。
玄関に降りて金魚鉢の中を覗き今日も全員元気なのを確認して作り置きの食事を食べて空想の世界に浸る。小説を書く時間だけが僕にとって一番心休まる時間だった。
自費で出版してみたり、投稿サイトに投稿してみてはその反応に一喜一憂していた。
いつまで子どもみたいな夢を見ているのだろうと客観的に見ても思うのだが小説は僕に安らぎを与えてくれる。そう、花火大会の縁日の金魚すくいのように僕は幸せになれるのだ。
そんな僕を両親は暖かく見守ってくれていた。
特段、僕に説教をしたり、何かしなさいということも無かった。
それは、僕が苦しんで来た過去を見てきた故に温かい眼差しを向けてくれていたのだと思う。
ある日、僕はどう言う訳か昔行った花火大会の土手を歩いてみたくなった。どうしてなのかは分からなかったが無性に歩いてみたくなった。
久しぶりに家を出ると太陽が眩しく思わず目を閉じた。何ヶ月ぶりの外出は僕を浦島太郎のような気持ちにさせた。
駅に向かいそこから2つ目の駅で降りて少し歩くとその場所はあった。
「懐かしいな、、」
何故か言いようもない寂しさと虚しさが襲ってきた。
川沿いの土手を歩いていると突然僕を呼ぶ声が聞こえた。
「陸くん、、」
そこには5年前に別れた茜音の姿があった。僕の変わりように少し驚いたのかお互い何も喋れなかった。
「元気にしてるの?」
「うん、、」
「今、何してるの?」
「小説書いてる」
「え? 小説?」
茜音は目をパチリとさせて初めて告白を受けた少女のような顔をしていた。
「小説家になったの?」
「うん」
「すごいじゃない!」
茜音は5年前と変わらぬ笑顔を見せた。
「何処に行けば売ってるの?」風貌だけは小説家に見えたのか茜音は疑いもしなかった。
「売ってないよ、、」
「え?」
茜音は不思議そうに怪訝な表情を浮かべた。
「ほら、今何でもネットの時代だから、、」
「そっか、そうだよね。私そういうのに疎くて、、」
懐かしむ茜音をよそに僕はこの場から走り去りたい衝動に駆られた。
「ねぇねぇ、あの金魚元気にしてる?」
「ん? ああ元気だよ」
「良かった、、」
「花火大会懐かしいね、、」
「そうだね、、」
「あれから5年も経ったんだね、、」
茜音は感慨深い表情を浮かべた。
「茜音は今何してるの?」
僕は咄嗟にそんなことを聞いていた。
「ああ、アルバイトしてる。へへへ」
「私、動物好きだったからペットショップでアルバイトしてるんだ」
茜音の表情が華やいだ。
「そっか、、」
「今、腰を据えて働かないか?って言われてるんだけど迷ってるんだ、、」
「そっか、、」
風が二人の間を通り抜けていった。
「陸くん、、変わらないね、、」
茜音は優しい眼差しを向けた。
「茜音も変わらないよ」
「そうかなぁ、、」
「うん」
長い沈黙が流れたー
「それじゃ、俺帰って仕事だから、、」
逃げるようにそう告げてその場を去ろうとした。
「陸くん!」
茜音は悲しげな表情を浮かべていた。
「がんばってよね!」
「昔の陸くんみたいにがんばってよね!」
茜音は叫ぶように言った。
「それと、、」
「元気でね、、陸くん元気で、、」
「茜音も、、」
精一杯の笑顔を見せた。
やがてゆっくりと後ろを振り向き僕は歩き出した。
もう一度、後ろを振り返ると茜音は見えなくなっていた。
それから逃げるように走った。
今までにないくらいに全力で、、走った、、
走り去る僕の脳裏には茜音の記憶が走馬灯のように駆け巡っていた、、記憶から消してゆくように、、
ただ愛おしくー残酷なほどにー
その夜、金魚が死んだ。
お腹を見せて白い斑点を浮かべ水面を漂っていた。
赤と白の金魚は5匹の中で唯一露天ですくったときと変わらない大きさだった。
金魚を両手で掬い上げ家の庭の木の下に埋めた。
何故か不意に涙が溢れた。
「さよなら、、」
夜空を見上げると三日月がひっそりと輝き、僕にそっと寄り添っているようだった。
暗闇に微かに光る光に照らされていた。
「可愛いかったな、、」
ふと横を見ると父が優しい笑顔を浮かべていた。
父は何も言わずに手を合わせると静かに語り出した。
「陸、、」
「金魚が家に来た時のこと覚えてるか?」
「うん」
「茜音ちゃんと満面の笑顔で帰って来て5匹も掬えたよって。笑ってたな、、」
「あれから5年も経ったんだな、、」
「人も生き物も生まれたらいつかは必ず亡くなる」
「だから、今を精一杯生きような、、」
「父さんはお前が何かに一生懸命に打ち込む姿をまた見たいと思う」
きっと父は全てを知っていたのだろう、、
僕はただぼんやりと光る三日月を見ていた。
それからの僕も変わることはなかった。
ひっそりと家の中でまるで金魚のように呼吸していた。誰の目にも触れないように僕は日々を過ごしていた。
それからひと月ほどして小さな懸賞小説の公募に落選したと封筒が送られてきた。
封筒を開けると簡単な講評とお礼が丁寧に綴られていた。封筒を机に押し込んで大切にしていた万年筆と今まで書いた小説の原稿を捨てた。
翌日、目を覚ますと朝日が眩しく朦朧とした意識の中でゆっくりと起き上がった。
ふと部屋のカレンダーを見ると先月のままだった。
カレンダーを捲ると10月22日だった。
「茜音の誕生日だったな、、」
独り言のように呟いて一階に降りた。誰も居ない暗い部屋の中で僕はコップ一杯の水を飲んだ。
いつも通り玄関の金魚に餌をあげようとすると赤と白の小さな金魚が元気に泳いでいた。
「あれ? 増えてる、、」
不思議に思うと散歩から帰ってきた父が笑った。
「ああ、金魚たち寂しそうだったから、、買ってきたんだ」
「そっか。可愛いね、、」僕は久しぶりの笑顔を見せた。
「ああ、それから隣町のペットショップに行ったら茜音ちゃん、働いてたぞ」
「茜音ちゃんに選んでもらったんだ、、」
父は嬉しそうに微笑んだ。
「茜音ちゃん、変わらないな」
「陸くんに宜しくお伝えください。って言ってたぞ」
父は懐かしむように言った。
「赤と白で可愛いでしょうって笑ってたな」
「また、大切に育てないとな、、」
父は微笑むと家の中に入っていった。
新入りの金魚は元気に金魚鉢の中を泳いでいた。
元気に飛び跳ねて泳ぐ姿に温かいものが心に広がっていった。
「茜音ありがとう、、」
「大切にするね、、」
そう心の中で呟いた。
庭に出て金魚のお墓に手を合わせた。
傍には白い一輪のユリの花が咲いていた。
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