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プロローグ
死後の世界なんて、先が見えない真っ暗な現実に比べたら、何倍もマシだ。
別に失うものもないし、今抱えているしがらみからも解放される。
たとえ私、樺山 栞(かばやま しおり)の人生が、たった十八年で終わろうとも、生きにくい世の中からおさらばできるのであれば、それで良かった。
誰も通るはずのない裏路地の、寂れた五階建ての雑居ビル。その屋上に侵入することができた。
あとはここから、飛び降りるだけだ。
「この高さで……死ねるのかな」
震える声で、誰かに届くはずもない独り言を呟く。
昼頃に降った雨のせいで、アスファルトが真っ黒になっている。
屋上から見下ろすその地面は、まさに闇に染まっているようだ。
このまま一歩踏み出せば、そこから先は私の知らない世界になる。
どうせなら、地面に体を打ちつけることなく、そのまま闇の中に吸い込まれればいいのに。
背中に引っついている柵を両手で押さえながら、深呼吸を繰り返した。
後悔はない。
ただ、心残りがあるとすれば、母にマッサージの一つでもしてあげられなかったことだ。
ここまで女手一つで育ててくれた母に、感謝の気持ちを伝えれば良かった。
まあ、私が死んだら母の負担も減るだろうし、まだまだ若い母の人生、楽しく生きられるだろう。
私の死が、母に贈る最大のプレゼントになるかもな。
「ふぅー、ふぅー」
いよいよ踏み出そうとすると、呼吸が荒くなる。
柵を掴んでいる両手にも、力がこもってきた。
大丈夫、大丈夫。目を瞑って、ポンッと前に出るだけ。落とし穴にでも、ハマったと思えばいい。
そうしたら、重力が勝手に作用して、一瞬の痛みと共に意識がなくなってお終い。たったそれだけなんだ。
もうまもなく、夕日が沈む。
街からオレンジ色の光が消えた時、私もこの世界から退くとしよう。
そして、死体となった私を、誰かが朝方にでも見つけてくれるだろう。
バイバイ、私と接してくれた数少ない人間たち。空が暗くなると同時に、ここから飛ぶとするよ。
手を離して、体重をゆっくり前に倒す。
これで、本当に……終了だ。
「あの!!」
反射的に、再び両手を柵にかけてしまった。
後ろから呼びかけられた男の声に、驚きを隠せない。
あれ? 私……死ねなかったのか。
「な、なにしてるんですか?」
その声の方を睨むと、白いワイシャツ姿の男がこっちを見て笑っていた。冗談はやめてくださいよっていう目をしている。
極限まで自分を追い詰めていた私を、侮辱しているのか。
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