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付き合いたい人と付き合える。それが私の特技だ。今の彼は何番目か忘れたけれど、私が付き合いたいと思った人だ。飽きたら捨ててきた。男というものが、最近よく分からない。私の話をよく聞いてくれる。そこはみんな共通している。今まで付き合ってきた人は、みんな容姿の綺麗な男だった。今の彼は不細工だ。今まで動いたことのない感情に戸惑っている。今まで私から告白して付き合ってきたけれど、初めて告白されて付き合った。これがきっと、私の最後の恋愛かも知れない。初めて男の人を大事にしたいと思った。見た目が綺麗な男は結局自分が一番好きだ。これが私の個人的な感想。そんな薄っぺらな男を好きになる私が稚拙だったのかも知れない。でも綺麗な男は浮気をしない。私が気づいていなかっただけかも知れないけれど。きっと綺麗な男は女に美しさを求めたりなんかしない。だって美しさを備えているわけだから。私はそこそこかわいい。自分ではそう思っている。今の彼は私のことを「かわいい」と言ってくれる。こんな男の人は初めてだ。彼は私の恋愛遍歴を知っている。私がすべて話したからだ。彼は私の告白を黙って聞いていた。それはそれで、特に気にしなかった。私という女を、理解しようとしていることは分かった。嫉妬で私を激しく抱くのかなと準備をしていたけれど、彼は私を抱こうとはしなかった。付き合って、もうすぐ一年になるけれど、彼は私を抱こうとはしない。自分の感覚としてはありえなかった。「何で抱かないの?」とは言えない。別に言えないこともない。訊いてもいい。ただ、彼にはそれを言わせない雰囲気があって、私としては気持ち悪い。嫌いだったら今すぐ別れてしまってもいい。ただ彼は、私の事は好きらしい。私と一緒にいるだけで、癒されると言ってくれる。だったらふつう、抱きたくならない?と私は思う。自分でも自覚しているけれど、私は性欲が強い。彼はそれを知っているのに、私を抱こうとはしない。私はコミュニケーションがうまく出来ない。きっと、父親がいなかったせいかも知れない。だから男に、無意識に父親を求めてしまうのかも知れない。男の人との距離感がうまく理解出来ない。だからセックスをすることで、曖昧な距離感を瞬間的に埋めることが出来て、安心するのかも知れなかった。彼と付き合うことで、私は不安になった。だって彼は私を抱こうとはしないんだもの。私の話をよく聞いてくれる。そこからの距離感が私には理解できない。会って、会話をして、そのまま帰ることもある。何のために会ったんだろうと私は思う。もう彼も私も学生ではなかった。彼は一人暮らしで私は実家暮らし。と言っても母と二人の借家暮らし。溺愛されたことはまったく無く、私に対して特に興味は無いようだった。作ってしまったから、まぁしょうがない。そんな感じで私は育てられてきた。だから私も母に対して興味が無い。起きたらとりあえず目の前に居る。私にとっては無関心な風景と変わらない。家賃が掛からないから実家にいる。そこだけは母親に感謝をするようになった。彼に何気なく言われたからだ。今まで私は自分が一番不幸だと思ってきた。それが彼と付き合うようになって、彼と会話をするようになって、自分が一番不幸ではないような感覚を、自分の中に見つけた。今までの彼は、私の話をよく聞いてはくれた。でも理解はしてくれなかった。今の彼と付き合って、それに初めて気づいた。付き合うって、こういうことなのかも知れないと、今の彼と付き合って知った。恋愛に対する私の意識と価値観が、彼と付き合うことでぐらぐらしている。彼は私を抱く価値がないと思っているのだろうか?やばい。気持ちが不安定だ。この不安定な感覚は、父親の愛情を知らずに育ったせいなのか、母に素っ気なく育てられたせいなのか特定は出来ないけれど、きっとその辺が原因なんだろう。私はそれでも生きていかなければならない。私に罪はないんだきっと。生まれたことに後悔はないけれど、生きづらさを感じている私。父親も母親も恨んではいない。だって私は私だもの。生まれたこの時代を生きるしかないもの。生まれてからあっという間に時間が過ぎてしまって、私は恋愛を繰り返して今の彼に辿り着いた。生物として、きっと私は正しいことをしている。結婚して子供を作り、育てていくだろう。少しずつ、明確な未来を考えていた時、彼には私と結婚をするつもりがないことを知る。何気なく子供は何人欲しいなあという話をした時に、はっきりと彼が言った。私と結婚をするつもりはないと。正直びっくりした。私は最後の恋愛のつもりだった。彼は最後の恋愛だと考えてはいないようだった。何言ってるの?と正直私は思った。彼は不細工だ。私と別れたら、たぶんもう出会いはない。彼は不細工だから、私はあなどっていたのかも知れない。どうしよう?と何気なく私は焦る。私には私の予定がある。それを崩されたくない。好きなように私は今まで生きてきた。それで私の気持ちは十分だ。だからそろそろ結婚したい。なのに、彼は私と付き合っているのに結婚するつもりがないという、明確な意思を示した。
「じゃ何で私に告白したの?」
「好きになったから」
「じゃ何で私と結婚しないの?」
「結婚するほど好きではないから」
と彼は言った。
「私の予定が狂っちゃう」
「そんなこと、俺には関係ない。お前の予定に合わせて俺は生きてないし」
「不細工のくせに何言ってるの?」
「不細工でも、俺には俺の意思もあるし、考えもある」
「生意気だよ?」
「お前は自分で思ってるほど、かわいくないよ?」
「はぁ?」
と私は強めに言った。意味がよく分からなかった。違う言語で話し掛けられているような感覚になった。かわいい私は不細工な彼と付き合ってやっている。その分際で、何を言ってるの?
「はぁ?」
なのだ、私にとっては。
「自分のこと、そんなにかわいいと思ってんの?」
私は自分の事をそこそこかわいいと思っている。その証拠に自分が付き合いたいと思った人とは付き合えてきた。その事実が、私の容姿はかわいいということじゃないの?という理由で、漠然と私は自分の容姿をかわいいと自意識で認識しているし、してきた。今の彼だって、そんな私を「かわいい」と言ったのだ。
「容姿がかわいいと言ったんじゃない」
と彼は言う。
「雰囲気が」
と彼は言う。
「容姿レベルは中の下だよ」
と彼は言う。
私は上の中ぐらいだとずっと思ってきた。彼の指摘は真実なのか、彼の美的感覚がおかしいのか、私にはよく分からない。私はひょっとして何気なく傷ついているのかも知れない。彼は不細工だ。だから私は何気なく見下していた。そんな彼は私を冷静に観察していた。不思議と彼が愛おしくなる。
「私と別れたら、もう出会いはないと思うよ?」
「だから何?」
「一生独身でもいいの?」
「うん」
と不細工なくりくりの目をくりくりさせながら言った。
「言わなかったけど、俺、潔癖症なんだよね」
と彼は淡々と言った。
「不細工のくせに?」
「お前、汚いだろ?」
「汚い?」
「何人の男に今まで抱かれてんだよ?」
「気にしてたんだ?」
と嫌味的に私は言った。気づいたら、殴られていた。
「お前、会話の最中によく俺の頭をぺしぺし殴っていただろ!男をなめやがって!」
と言いながら私を殴った。車の中だった。私は今まで何も見えていなかったような気がする。殴られて痛かった。私は今まで男の人の何を見ていたのだろう。殴られたことで、新しい視線を手に入れたような気がする。さすがにぐーでは殴らなかった。私が彼にぺしぺしやったように、頭もぺしぺし殴られた。殴られている間、私は肉体の自分から逃げた。そんな得意技が私にはある。小さい時から嫌な事があると、そんなふうに逃げてきた。だから私の頭の中にある記憶が、本当にあった事なのか、私自身が想像で作り出した事なのか、よく分からないことがある。嘘を言っていると、明確に理解している時もあればそうでない時もあって。小さい頃からよく自分が分からなかった。愛して欲しかっただけなんだと、今となっては分かる。私は中の下の女の子だったのかも知れない。そういえば、かわいいと言われたことがない。本当の事を言ってくれる人が、私の周りにはいなかった。人はきっと、勘違いしながらでも生きていける。ある瞬間、真実に気づく。私は彼に殴られた。それでも別れたくはなかった。私は彼の事を何も知らない。一年近くも付き合ってきたのに何も知らない。いったい私は何をやってきたのだろう。殴られてから、一週間経つけれど、彼とは一切連絡を取っていない。彼からのメールが欲しかった。不思議と別れたくはなかった。これから寒い季節になる。だからかも知れない。だから今は別れたくはなかった。今まで恋愛に無意識に貪欲だった。食事みたいに。でも今はその食事の意味を考え始めている。びっくりするくらい無意識に。人を好きになったり嫌いになったりすることに、恐怖心を感じ始めている。彼のプライドと心を傷つけた。その事実が今の私には痛かった。心臓にちょっとやけどをしたような。私はここにいる。殴られて、初めてそれを実感できたような気がしている。時間がただ流れることが怖かった。置き去りにされてしまうようで。恋愛をしていれば、自分中心に時間が流れるから、安心できた。本当は心から好きになった人なんて、いなかったのかも知れない。そんな自分を深く見つめることが、怖いような気もする。だから彼からの連絡が欲しかった。過去を見つめてしまっては、今現在の本当の私が見えてしまう。想像以下の私であったらどうしようという恐怖。彼と一刻も早く結婚し、私の時間を未来へと強引に流れさせなければいけない。そんな焦燥感がある。自分に対して何も答えは出ていない。ただ焦燥感だけがある。もう恋愛は充分だ。世の中の価値観に疎外されてしまうことが、怖いような気がする。私が私でいることより、その価値観の中で優位を保っていたい。それがきっと私が私でいることなんだと思う。錯覚かも知れない。それでもいい。なぜならそれが今の私の気持ちだからだ。私は彼と結婚をしなければならない。そうしなければまた、自分を組み立て直さなければいけなくなる。もうこのまま生きてしまいたい。今までの価値観の延長で生きていきたい。それには彼が必要だ。彼を何とか私の価値観に引きずり込まなければならない。過去を振り返るなんて嫌だ。過去と向き合えるほど、私は強くない。このままの私を彼に引き取ってもらいたい。不細工のくせに、私に逆らうなんて生意気だ。もうすぐ私は三十路になる。その事実にびっくりする。あっという間だった。ほんとにそんな感じだ。感覚は十代のままなのに。十代の頃、三十なんてはるか先のことだと思っていた。いつか結婚するだろうとは思ってきた。それがきっと今なんだと私は思っている。ただ彼にはその意思がない。私には私の予定がある。私は今まで私の都合で生きてきた。社会に対して自由だった。会社に対して必要以上の愛情が無い。だから転職も感覚的に簡単だった。自分がより働きやすい環境に。そんな環境の中で彼と出会った。社会に対して未練も希望もない。自分の世の中での価値は、今までの経験で理解しているつもりだ。だから未練も希望もない。ふてくされているわけじゃない。あるがままの自分を素直に受け入れただけだ。それでもなんとか自分を見失わずに生きてきた。だから私なりにやり切った感がある。もう結婚をしてしまいたい。結婚をすることで、世の中から卒業してしまいたい。それには彼が必要なのだ。会社は淡々と流れている。鬱病になる人も点々といて、きっとそういう人は追い詰められているのだろう。私はまだ大丈夫だけれど、いつでも逃げられる心の準備はしているつもりだ。そのひとつが結婚だ。彼に養ってもらいたい。心からそう思う。自分の会社が社会に対して、どれほどの貢献をしているかなんて興味はない。私はただ、目の前の仕事を淡々とやり過ごしているだけだ。そして一日が終わる。その隙間時間に恋愛をしてきたのだ。生まれてから忙しかった。自分を知りたいなんて思ったこともなかった。私は突然独りになったような気がする。突然ポツンとなったような気がする。寂しい。不安。そんな感情が私を包み込んでいる。この感情をどうしていいのか分からない。だから彼に抱いて欲しかった。いやらしく、触れて欲しかった。そうやって私は今まで自分を安定させてきたのかも知れない。生まれてから忙しかったけれど、きっと何も成長していない。だから孤独は嫌い。痛くなる。きっと自分はこのままでいいはずなのに、いいはずの自分が私自身を苦しめる。それが不安だし、苦痛。自分の位置がよく分からない。その位置を確認できるものが恋愛だった。この位置で結婚してしまいたい。このままの勢いで結婚してしまいたい。普通に働いているし、誰にも迷惑を掛けてはいない。きっとこれ以上、自分を高める必要なんてない。今まで自分と闘ってきた。そんな感慨がある。生まれてからいったいどれ程の他人が、私の目の前を通り過ぎていったのだろう。私はその他人の中で、自分を見失わずにいることで、精一杯だった。人ごみの中にいるだけで、何であんなに不安で孤独だったのだろう。自分と無関係に学校も街も時代も動いているように見えた。会社員として社会人になって、その会社からうまく洗脳されて、仕事が楽しいと錯覚した瞬間もあった。あたり前に仕事をしている自分がふと、疑問になった。目の前の他人は、あたり前に仕事をやっている。その集合が時代を形成しているのだろう。生きていることに、もう意味なんて求めない。そんな若さはもう私の内側には残っていない。自分の意思とは無関係に、時代は動いている。それは会社の中にいれば無視することは出来ない。その会社を辞めたこともある。きっとその会社に私は、自分を適応させることが出来なかったのだろう。でもこうしてこの会社に今現在適応している。かろうじて私は、この会社を通して社会と繋がっている。それでも私は何とか生きてきた。そんな感慨がある。今生きるこの時代を、私はそれでも必死で生きている。そんな確信がある。あと私のやりたいことは結婚だ。彼は私の過去を気にしている。男って案外繊細……と最近気づいた。私はそのままの“わたし”を知って欲しかっただけだ。その“わたし”を飲み込めない彼の器が小さいだけだ。そう私は考える。違う?私はずっと父がいなかった。だから男の人との距離の取り方がよく分からない。恋愛で、好き勝手に振る舞ってきたような気もする。それでも付き合ってきた人は、私の言う事を何でも聞いてくれた。今の彼は私を殴った。こんな人は初めてだった。殴られたことが、なぜだか分からないけれど、私自身、快感を感じている。小さいときに必要だった刺激が、今になってその場所を快感として感じさせている。私はいったい彼に何を求めているのだろう。なぜこんなにも、彼に惹かれるのか不思議だ。彼のことが好きなのか、それとも私の欠落している部分が彼を求めるのか、今の私には分からない。でも今の私には彼が必要だ。だから殴られたことは今回は気にしないことにする。そんな自分をどう理解していいのか“いま”の私にはよく分からない。完璧な答えを出せる人がいたとして、その人にたとえ別れろと言われたとしても、“いま”の私には無理。“いま”のそのずっと先に、未来はあるんじゃないの?と、つっけんどんにその人につよく言ってしまいそうな気がする。きっと冷静には会話をそれ以上続けることは出来ないだろう。その未来のためにと、その人に最後の言葉として通告されたとしても、だ。私にとっては“いま”が大事。今までそうやって生きてきたのだ。きっとこの場所が、私の社会での最高到達点だろう。未練は何もない。私はここにいる。その確認作業が恋愛だったのかも知れない。自分の価値観だけで生きてきたような気もする。私の存在が消えてしまいそうな感覚に“いま”私は満たされている。本当に大事なことが止まったまま、私は忙しく生きてきたのかも知れない。ある場所から私は生きていないのかも知れない。そこから流れてきただけなのかも知れない。それでも会社の中ではうまく立ち回っている。客観的に見れば、ずる賢いだけなのかも知れない。世渡り上手でもない。それは自分で分かる。つよくはなった。それがお金を得ることなんだと、こうなった自分のプロセスを肯定する。それでも私は生きてきた。私なりにね。今現在、もがいているのかよく分からない。もう少し時間が経てば、きっと分かるのだろう。私は彼と別れたのだろうか?それさえも、答えが出ていない。このままの自分でいいはずがない。会社のかけらとして生きるのはイヤ。ただ、彼と結婚したからといって、会社は辞められないだろう。私はなぜ彼と結婚をしたいのだろう?それさえも、よく分からなくなってきた。適齢期だから?周りがちらほらしてるから?皮膚で感じる身近な環境が、私に結婚へと焦らせているように思えてならない。私の意思で、私は彼と結婚したいのだろうか?恋愛に疲れている。だから私は恋愛を終わらせるために、結婚をしちゃいたいのかも知れない。そうすれば、新しい時間が流れ始めるだろう。子供は、特に欲しいとは思わない。この時代に生まれてきて、幸せになれるだろうか?私には父親がいなかった。それでもここまで生きてきた。本能で、なのか宿命で、なのかよく分からない。地球のどこかで今日も戦争をやっている。私には戦争の経験がない。そんな国に生まれたことに、きっと俯瞰で見れば幸せなんだろう。生きているだけで、究極的にはきっと幸せなのかも知れない。けれどそんなことは分かっている。理解はきちんとしているつもりだ。ただ私はこの国に生まれ、この国に育ち、現在この国に生きている。だからこの国の価値観で、幸せになりたいのだ。私の輪郭が消えてしまいそうで不安。はっきり言って、生きているという実感が無い。寝起きでそのまま惰性で流されてきたような感じ?幸せにはなりたい。その幸せの究極は結婚だと、私の脳は認識している。子供を産めば、その純粋な生のエネルギーに、私はきっと感化されるだろう。もう少し、生きたくなるかも知れない。生活のために仕方なく仕事をやっている。仕方なく会社に行っている。会社が潰れてしまえばいいのにと、何気なく私は陰湿に思っている。自分の意思で、この日常の流れを止めるのは勇気がいるし、めんどくさい。会社を辞めるなんて、余程のことだもの。潰れてしまえば近所の人にも、
「会社が潰れちゃって……」
と言い訳が出来る。失業保険と微々たる貯金でしばらくゆっくり出来るだろう。きっと私は疲れているのかも知れない。何かをしていないと不安になる。だから強制的に外部から何もしないでいられる環境をガツンと受けたい。私は未来へ流れている。流されているという感覚かも知れない。世の中があって会社があって、その間での自分の立ち位置がよく分からなくなった。そんなことは今まで考えなくてよかったからかも知れない。働くことはあたり前なことだった。最近、心と体が別々に動いているような気がする。心も体も、今まで時代に何とか寄り添って、連動してきたのかも知れない。今になってどうしてそのことに疑問を感じているのだろう。このまま私は生きてしまえばいいのに。過去の記憶が現れては消える。日々の生活の隙間に現れては消える。毎日が新鮮だったのかも知れない。今私はいい意味で大人になったのか、悪い意味で大人になったのか分からない。きっと私は今、輝いていない。何のために私はこんなにも働いているんだろう。買い物も、飽きてしまった。世の中と会社と、適度な距離を保っていたい。どうか、私が崩れてしまわないように。それにはきっと、結婚してしまってはダメなのかも知れない。いったい私は何を考えているのだろう。思考がうまくまとまらない。まとまらないことが、今まで心地よかったのかも知れない。何らかの岐路に、私は立たされているのかも知れない。それでもそんな私を無視して時間は流れていく。答えを早急に出さなければいけないのかも知れない。答えを出すための孤独が、今の私に耐えられるか不安。私はずっと、もしかしたら、孤独が怖かったのかも知れない。性欲が高まってくるのを感じる。これがきっと、過去の自分なんだろう。今になって、過去の自分に気恥ずかしい。世の中と会社が動いているように、私の頭の中も動いている。生きているだけで、それだけで不思議なのかも知れない。意識的に、これからは適応していかなければいけないのかも知れない。世の中で生きる私は、いい意味で、この世の中に適応していかなければいけないのかも知れない。世の中での特別な存在に、私は憧れたのかも知れない。それは稚拙な考えだったのだと、今なら理解出来る。理解出来ることが苦しい。それは過ぎ去ってしまった時間がまるで、自分が歩いてきたアスファルトを振り返ると点々とこびりついているしみのように醜く見えるからだ。その時、それでも私は真剣だった。それが今の私には滑稽に見える。自分で自分に笑ってしまう。恥ずかしい。真剣だった自分が恥ずかしく愛おしい。最近、内面が昇華されていく。好きなように生きてきたからかも知れない。好きなように生きてきたことは、苦しかった。過去の自分を受け入れるために、私は好きなように生きてきたのだ。そんな確信がある。このままの私を、彼には好きになって欲しい。都合がいいのは理解している、つもりだ。彼は結婚した。素っ気なく。私以外の女と。びっくりした。私の知らないところで水面下で、彼は秘密裏に動いていたのだ。私の予定が狂ってしまった。会社での呼吸の仕方を変えなければいけない。私は頑張って生きてきた。もうがんばって生きたくない。誰も私を理解してくれない。あんなにいっぱい、私は自分のことをしゃべったのに。思い通りに生きてきたという自分自身に対する認識は、錯覚だったの?自分の感覚が、時代とずれてしまったような気がする。私がポツンと立ち止まっているのに、時代も会社も忙しなく動いている。そんなことはどうでもいいのだ。一番大事な事は、私はここにいる。ただこれだけなのだ、大事なことはきっと。私は孤独になった。ただ、もともと孤独だったのかも知れない。今までが普通だったのか、今が普通なのか、今の私にはよく分からない。このまま生きてしまえばいいのだろうか?私にとっての正解の生き方が本当に分からない。時代の犠牲になるのは本当に嫌だ。だって、私のせいじゃないもの。生まれてくるタイミングは、自分では選べない。好きでこの時代を選んだわけじゃない。私は天才なんかじゃない。天才であれば、時代の歪みをうまくバネにして、高額な所得を得る場所へ、ポーンとジャンプ出来るだろう。努力という言葉を信じきれるほど、私はもう若くはない。年上だから信用できるという錯覚は、社会に出てそれは嘘だという答えがあっさり散らばっていた。世の中はきっと、生きたいように生きられる。既存の安定を求めるからきっと、息苦しくなるのだろうだから、鬱病になるのだろう。思考と価値観が大幅にずれている、なのに思考を価値観に合わせようとする。私はきっと、とんでもない時代を生きているのかも知れない。人類が経験したことのない時代を、私はもしかしたら生きているのかも知れない。得体の知れない場所を泳いでいるような気がする。本当に大事なものを見失ったまま、本当に大事な時間を削り落としているような気がする。彼は私を選ばずに、他の女と結婚した。だからといって、彼に対してそれほどの執着はない。目の前で起こった他人の交通事故みたいな感覚?自分の事なのに、ひと事のような感覚なのだ。私は生きているのだろうか?自分が寂しいのかさえ、分からないような気がする。感覚が擦り切れたまま、私は世の中のしがないパーツとして、呼吸をしているだけの存在として、流れていかなければいけないのだろうか?生まれてから、時代の力を持った何者かに、うまく操られて生きてきたような気がする。子供の時には未来があった。それは自分を知らなかったからだ。ゆっくりと時間を掛けて、私は自分を知っていった。どうして大人は子供に夢を持たせたがるのだろう。きっと愛しているからじゃなくて、自分の失ってきたものを埋めてしまいたいだけだろう。働き続けるにはモチベーションが必要で、子供がいるからという理由で、ぐちゃぐちゃした会社の中で朝から晩まで我慢できるのだろう。そんなことを社会人になって、理解できたような気がする。流れている。その流れの中に、私も流れているのだ。それでも母に育てられてきたことに、感謝をしなければいけないのかも知れない。あっという間に、今まで時間が過ぎてしまった。楽しいこともあったし、楽しくないこともあった。今まで生きてきたことが、何気なく不思議だ。死なずに生きてきた。本当はそれだけで、感謝をしなければいけないのかも知れない。時間が過ぎて行く。今はただそれだけで不安だ。ネットで情報を取り過ぎるからかも知れない。考えることなく、思考が不自然に歪んでいるような気がする。母と二人暮らし。冷静になってみると、それだけできっと不安だったのかも知れない。どうして過去は私を苦しめるのだろう。どうして過ぎ去った時間は、私に孤独を強制するのだろう。過去はそのままにして、私は生きてしまいたいのに。内面のバランスが崩れて、だから私は会社を辞めた。不安は全くなくて、気持ちがすごく楽になっていった。しがらみが消えていくことが、自分を楽にしていく。退職日が近づくにつれ、そんな自分に気づいた。本当はもっとシンプルに生きられるのかも知れない。人間関係も、もっとシンプルに何気なく消えるように、捨ててしまえるのかも知れない。一人になるのは怖いことじゃない、ということをこの頃から私は体で理解し始めたのかも知れない。会社を辞めたことは母には言えなかった。自分を守るために、私は会社を辞めたのだ。心臓がどきどきする。これから私はどうなるのだろう。そんな不安もあったけれど、過ぎてしまえばそんなこともあったなと、とりあえずは安全な場所から振り返り、その時を反芻している私がここにいる。死なずに生きている。私はきっと強いのかも知れない。普通と危険の境目で、私は生きているのかも知れない。「死んでしまってもいいや」という言葉が何気なく、頭を流れたこともある。「生きよう!」と強烈に思ったことはない。淡々と流れる毎日に、答えは必要だろうか?普通に生きていたい。そうすれば、時代は勝手に流れていくだろう。私は私を生きている。ただそれだけだったような気がしている。生まれてから今まで生きてしまった。恋愛もしたし転職もした。けっこう忙しかったのだ。もがいて、それでも私は生きようとした。会社に行けば、そこには何食わぬ澄ました顔で、仕事をやっている人がたんまりいる。こんな時代だからこそ、私にはそれが異常に思える。生活のためだって、そんなことは理解している。ぐちゃぐちゃになってしまえばいいのに……と意味もなく、私は思ってしまう。もうぐちゃぐちゃになってしまっているのかも知れない。新しい価値観が、必要なのかも知れない。私の体が会社に行きたがっていない。会社を辞めた時は不安だった。生活の不安よりも、所属しているという安心感が消えたからかも知れない。立ち位置が明確になることで、人はきっと安心感を得られるのかも知れない。私は今どこに立っているのだろう?あたり前のように働いてきた。自分の内側の、ここの部分が、もう十分だと言っている。だから体が、会社に行きたがらないのだろう。意識と体がうまくリンクしていない。会社に行くことで、かろうじて社会と繋がっている。それがきっと、今の私の存在理由だろう。会社が求めているのは私自身じゃない。うまくバランスを取らなければ、私の精神が弾き飛ばされてしまう。その前に、会社が社会から、弾き飛ばされてしまえばいいのに。私はきっと、陰湿にその出来事を喜ぶだろう。「もういい」とは大人だから言えない。欲しいものも特にない。飲み会だって本当はそんなに好きじゃない。友達だって本当はいつ切ってしまってもいいと私は思っているのかも知れない。それをきっと、気づかない振りをしているのだろう、私は。私だって、そんな微妙な距離感の中で生きている。それでも季節は移り変わっていく。季節の変化の連続はきっと、私の心を癒していくだろう。私の内面の複雑な動きはいづれ、昇華されていくのだろうか?感情の動きを悟られたくない。それはきっと本能的なものなのかも知れない。自分が自分でいることに、何でこんなにもエネルギーを使うのだろう。たった一度の人生。それは時代のものではなく、私個人のものだ。それでも生きていかなければいけないのだろう。朝を迎えることが憂鬱だ。本当の気持ちをごまかして朝がくる。それでも今は会社に行けるわけだから、私の精神と体は今のところ大丈夫なんだろう。この仕事をやるために、私は生まれてきたのだろうか?そんなことはもうどうでもいい。そんなことを考えていた自分が残りかすのように、私自身にまだ残っていることがうざい。私には、私に合った視線がある。そのことに、私自身気づかなかった。生理的に合わない人を愛することはやっぱり無理だ。でも私は大人だから、大人の対応をする。きっとその距離感が曖昧になって、苦しかったんだろう。私は私として、生きて行かなければならない。世の中は狭い。その事実に、素直にたまげた。みんな平等だと思っていたけれど、目に見えない階層があって、だから緊張感の中に、あきらめを感じるのだろう。今までの恋愛が安っぽく見える。私は社会的に見て、どれくらいのレベルの恋愛をしてきたのだろう。今まで狭い範囲の世界で生きてきたような気がする。モテてきたという実感はあるけれど、それは独りよがりの実感だったのだろうか?最後の彼と付き合って、自分がそれほどかわいくないという事実を突きつけられて、今それを少しずつ、過去の事実とリンクさせ、検証している自分がいる。今まで私は生きてきた。もしかしたら、私は嘘の世界で生きてきたのかも知れない。本当の自分を知らされないまま、今まで生きてきたのかも知れない。最後に付き合った彼は、もしかしたら、本当の私を知っていたのかも知れない。未練はないけれど、そこだけは未練がある。知らなかったのはもしかしたら、私だけだったのかも。自分のことなのに、自分のことがよく理解できない。本当の自分を知ってしまったら、もう私は私として、歩いていけないかも知れない。本当の自分を生きているのか、嘘の自分を生きているのか、もうよく分からない。日々の生活のなかで、私の輪郭は曖昧になってしまった。大人になればなるほど、本当のことを言ってくれる人は少なくなるのかも知れない。当たり障りのない言葉の掛け合いで、一日が終わっていく。無駄な疲労感が蓄積されていく。そんなことは理解している。このまま時間が過ぎて行くことに、何気なく焦燥感がある。私の居場所はもっと違う場所にあるんじゃないか?そんな陰湿な感情を隠したまま、私は日々の日常をへとへとになってやり過ごしている。私はきっと、自分に諦めてはいない。それほどかわいくないということは、何となく私自身、理解し始めている。付き合いたいと思った男とは、すべて付き合えてきた。その事実が私のプライドの根拠になっている。もう私はこのまま生きてしまえない。だって同じリズムの繰り返しになってしまうもの。彼と別れたことは、結果、良かったのかも知れない。いま私には、孤独の時間が必要なのかも知れない。世の中に対して、意味のある仕事をしたい。私は今まで自分のために働いてきた。疲労も人間関係のいらいらも、お金を得ることで使うことで、癒してきた。その価値観から私は一歩、すでに踏み出しているのかも知れない。お金を得ることで、それを使うことで、もう私は癒されなくなっている。働くことに、私は意味を欲しがっている。子供でもいれば、子供の為と割り切れるだろう。私はいったいなんの為に働いているのだろう。私が稼いだお金は、私にとって本当に大事な事で、離れていっているのだろうか?何でこんなに肉体的にも精神的にも疲れているのだろう。お金が欲しい。その思考に疑問なんて持っていなかった。その衝動で、私は働いてきたのだ。お金を得るには自分の内側にそれを入れる器が必要だということを知った。自分の器以上のお金はぽろぽろこぼれ落ちていく。体調を崩して孤独に寝ている時に、それに気づく。私には私の働き方がある。彼と別れて良かったなと、負け惜しみ的に考える。私の中で、ひとつの夢が終わったのかも知れない。これが現実というものなのかも知れない。時間がただ、私の目の前を流れていく。過去の惰性で流されている、そんな感覚だ。私はここにいる。ここにいるのに、時間が私を無視して……というか、無関心に皮膚の上を通り過ぎていく。この時代を生きているのに、いつのまにか、時代だけが私のずっと頭の上を流れているような気がする。私は望まれて生まれてきたのだろうか?うまく社会に適応しているだろうか?きっと本当に大事な事は、私が生まれる前から、何も変化なんてしていないと思う。生まれて、生きて死ぬ。ただそれだけなのに、なんでこんなに私は苦しいのだろう?ただ私は、私のままでいたいだけなのに。世の中の価値観の外側にいるのか内側にいるのかよく分からない。もうすぐ私は三十路。彼氏と別れてしまった。世の中の価値観から、弾き出されてしまったような感覚がある。生きていく感覚がよく分からなくなってしまった。会社に行けば、うまく会話は出来ている。そんな私を冷静に見ている私自身がいる。もう、会社での私は完成されたのかも知れない。これから私はどうしよう?生きているのか死んでいるのか、その境目が曖昧だ。会社員としての私の可能性はきっとここまでだろう。特に生活には困っていない。このまま生きてしまうことに不安だ。過去の価値観と、私が生きる社会システムが、私の頭の中でリンクしていない。私は過去の価値観を生きようとしている?働いて収入を得て、結婚して子育てして。だってそれがあたり前じゃないの?孫の顔、見たい?と母親に言ったら、
「特に」
と素っ気なく言われた。すべての親が、孫に会いたいわけではないらしい。それはそれでいいとは思うけれど、繋がりが消えてしまうことに、本能的になのかは分からないけれど寂しいと感じる部分が、私の内側にはある。それを無視して生きてしまっていいのか、それが不安だ。いつでも産めるわけではない。私は本当に子供が欲しいのかさえ疑問だ。今の時代に生まれてきて、幸せになれるのかさえ疑問だ。へとへとになって、それでも仕方なく生きている私。そんな精神状態だからこそ、純粋に愛せる対象を本能的に求めているのだろう。私は純粋な子供に向き合える人生だっただろうか?好きに生きてきたつもりなのに、自分に自信が無い。そんな私でも、子供を持つことで、過去が意味あるものとして、昇華されていくだろうか?内面を見つめながら、未来を誰かに託したいのかも知れない。自分を知りたかったから、いろんなことに興味を持てたのかも知れない。私の中で、価値観が変化し始めている。その感覚がもどかしい。今まで見えていた風景が新しい。車で走っている。いつもの道。風圧で枯葉がカラカラと道路を流れている。そんな何でもない風景が美しい。このまま死んでしまってもいいなんていうあっさりとした言葉が、頭がい骨の上のほうを流れる。美しさの向こう側はきっと死なのだろう。それが何となく理解出来たような気がする。日常が何気なく規則ただしく動いている。リズミカルに。それはきっと何気ない奇跡だ。私は誰かの頭の中を、生きているような気がする。だとしたら、本当の私はどこにいるのだろう?車で通勤する。その車を運転しているのは私。まぎれもない私自身なのだ。その私はなぜこんなにも忙しく生きているのだろう。冷静に俯瞰して見ると、自分のことながら滑稽だ。忙しくしてさえいれば、本当の自分を知る必要がない。ただそれだけのような気がする。気のせいかも知れない?こんなふうに、自分の気持ちを曖昧にすることで、大切な何かをごまかしながら生きてきたのかも知れない。きっともう、このまま生きてしまえるだろう。それを冷徹な目で見ている私自身がいる。どうすればいいのだろう。私の中にいる、二人の私がうまくリンクしない。それでも生きてきた、と開き直ろうとする自分がいる。生まれて、現実を生きて、死んでいく。私が生まれる前の、ずっとずっと昔から、そのリズムは繰り返されてきたのだろう。私はその人達と、同じように悩んでいるのだろう。静かな精神が欲しい。人ごみの中で、強烈な孤独を感じない精神が欲しい。私の精神はいったい誰と繋がっているのだろう?誰とも繋がっていないから、こんなに不安になるのかも知れない。私が経験してきた恋愛が、今の私には安っぽく映る。本気で私は人を想ったことがあっただろうか?いま、何でこんなに心が痛いんだろう。もう少し時間が経ったら苦しくなる予感が、ある。目の前を飛び交うどうでもいい言葉が、今の私には気持ち的に無理。みんなどうせ孤独なんだろう。本音の部分では寂しいのだろう。それを巧妙にみんなひた隠している、それを今の私は理解できる、手に取るようにね。今まで見えなかったものが、見え始めている。少しずつ山に登り、ふと振り返ると広い景色が開けている……みたいな。何かが進んでいる。自分では気づかなかったけれど。あの中を、歩いていたんだという実感。孤独になって初めて見える景色もあるって知る私。孤独に移行するときは寂しいけれど不安になるけれど、それは何かが私の中で進んでいるのだろう。彼と別れたことはよかったのかも知れないと、自分の中で何とか納得させなければならない。私に内緒で結婚した。その事実が、怒りとして私を苦しめる。彼には彼の世界があって、その世界が私には見えなかった。彼のその世界に、私は繋がれなかった。モテるって結局なんだろう。付き合いたい人と付き合えた、そんな事実はかさぶたのように、そんなことは無かったかのように、ぽろっと取れてしまった。いったい私には、何が残っているんだろう。何で涙が出そうになるんだろう。私はここにいるのに、無関心に何かが流れている。
「もう疲れた」
と言葉に出して言いたい。
そのためのカレシだった。自分に戻るためのカレシだった……と、ここまで自分の過ぎた時間を理解した。もう少し時間が経てば、古ぼけた写真のように、過去として記憶に保存されていくのだろう。しばらく孤独でも大丈夫かも知れない。内面を熟成させるには、きっと膨大な時間が必要。もう、自分だけ、取り残されているという感覚はない。本当の恋愛なんて、私はもしかしたら、したことがないのかも知れない。安っぽい情報に踊らされて、不自然に焦燥感を鼓舞されて、で、無理やり好きになったような気が、今はする。人を好きになるって自然なことだと思う。それは認める。ただ何者かに、強引にさせられていた感が、ある。私はこの時代を生きている。それは真実だ。きっと未来の人から見たら“いま”の私は奇妙でかっこ悪いのだろう。私はきっと、かけらとして生きているのかも知れない。過去の私は特別でいたかった。それが今の私にとっては恥ずかしい。知らないうちに私の中に、過去の私が形成されている。若い頃の私には、未来しかなかった。年上の人は未知なる人。出会う人すべてが新鮮だったような気がする。その人達が私の頭の中で、社会の位置として、世の中の地図に配置されようとしている。知れば知るほどそれは残酷で、母子家庭で育った私は、本気で親を恨もうとしたこともある。本当の事は誰もしゃべってくれない。それはきっと世の中で生きることでの最低限のルールなのだろう。いくつも私は恋愛を経験してきた。その経験が私の目を、きっと盲目にしたのだろう。私の本当を知っているのは誰なのだ?母親?昔のカレシ?いったい私はどこに向かえばいいのだろう?このポツンとした感覚は何なのだ?きっと私の知らない所で誰かが殺されているのだろう。その事実でさえ、今の私には本当の事のようには思えない。実感のない他人事、なのだ。仕事で疲れて帰って眠る。これ以上の、私のやるべき事って何だろう?激動の時代を生きている。そんなことをテレビが言うから、私はきっと激動の時代を生きているのだろう。私のせいじゃない大きな流れの中で、私は知らないうちに生きている。いい時代を生きた人を、ちっとも羨ましいとは思わない、ただめざわりなだけだ。若い人を本当に心配する大人なんて、どれほどいるのだろう。私にも後輩らしきものが出来たけれど、どう付き合っていいのか分からない。中途入社だしね。知らないうちに後輩が出来ていた。感覚的には年下だ。私は私なりにもがいていた。そんな自分が先輩なんて、自分で自分が恥ずかしい。世の中の仕組みに、私の心がついていかない。成長が遅れているのだろうか?目先の生活と楽しむことに夢中で、知らないうちに年だけ増えてしまっただけだ。後輩を見ると、私も若かったという感慨が溢れる。年を取るって案外早い。ただ頭の中の記憶を昇華させるためには、長い時間を必要とする。私の頭の中の記憶はずっと過去のままだったのかも知れない。もう。目に映る景色は新鮮には感じられない。それは何気ない先輩としての感覚だ。この冷めた感覚を、寂しいとは受け入れたくはない。新鮮な笑い声が最近嫌い。そんな声で笑っていた過去の自分が、見える。過去の自分は“いま”の私には強すぎる。勢いだけではもう生きられない。それをはっきりと自覚する私。私は私の人生を、はっきりと自覚しなければいけないのかも知れない。現実を少しずつ、受け入れなければいけないのかも知れない。与えられている時間を、無理やり酷使し過ぎたかも知れない。休みになって予定がないことが、久しぶりの感覚だ。トンネルを抜けるとここは静寂だった、というような心境だ。トンネルの向こう側はうるさく盛り上がっている。そこを抜けて来たのだ。もう、戻りたいとは思わないと思うのはなぜだろう。私はきっと、楽しくなかったのだと思う。どこかで、ここは私の居場所ではないと、知っていたからだと思う。トンネルの向こう側は私の居場所ではなかった。だとしたら、私はいったいどこへ向かっているのだろう。何の為に、生まれてきたのだろう。こんなことを、スピードの速い思考の合間にポツンと考えていた私が今まで私の中にいた。その私が今になって、意識を支配しようとしている。淡々とはもう、生きられなくなっているのかも知れない。過去は過ぎていった。ただそれだけだった。居心地の悪い、嫌な時間が流れている時私は、
「この時間はすぐに過去になる」
と呪文のように自分に言って聞かせていた。今となってはあたり前だけど、過去になった。時間はただ過ぎていく。私にとって不利な時間はどんどん通り過ぎて行けばいい。素っ気なくね。愛想笑いはもうしない。気づかないでいてあげるから。だから。私を無視して私を傷つけないように淡々と無関心に通り過ぎて行け。私にとって不利な時間に、どうか私は飲み込まれませんように。戦うより逃げるほうが楽、ということに気づいた。逃げなければいけない時の空気、のデータはかなり蓄積されている。私はそのデータを元に、何気ない顔で自分を守っていくだろう。仕方なく生きているという“いま”の感覚。それでも私は生きたい。もしかしたら、狡猾になったのかも知れない。狡猾な大人が小さい頃の私は嫌いだった。その狡猾な大人にすでに私は変貌しているの?それはそれで何とも思わない。純粋な子供に純粋な目で見られても、私はあるがままの私を見せてあげる。それがきっと生きてきたということだと思うから。どうして幼い時は、大人が美しく見えるんだろう。いつのまにか私は大人になって、いつのまにか大人として扱われている。内面はまったく成長なんてしていないのに。子供であるような大人であるような。自分に対する視線をどう受け止めていいのか理解に苦しむ。大人になって気づいたことは、それぞれの人が、それぞれの理由で生きているという、あたり前のことだった。そのあたり前が、どうして今はこんなに痛いんだろう。こんな私でも、真剣に生きているし、真剣に悩んでいる。その日々のプロセスが、視線を深くしたのだろう。私は私でしか生きられない。人の気持ちも大事だけれど、自分の気持ちも大事。そのバランスに私は日々、微妙に苦しんでいる。誰もが幸せになればいい。本当に私はそう思っている。そのバランスが崩れた時に、きっと私は人の不幸を願うのだろう。そうじゃないと、自分の気持ちが壊れてしまうもの。いつからこんなにへとへとになって生きているのだろう。いつのまにか、世の中に参加していた私。その事実が滑稽だ。もう私の意思だけではどうにもならない。その意思を、皮膚の上に出すことに、私自身疲れている。見渡せば、それぞれがそれぞれを生きている。秩序ただしくそれぞれの方向に流れている。私は流れているのか流されているのかよく分からなくなってしまった。自分でいることに、精一杯だった。そんな自分が過ぎ去ろうとしている。いや、過ぎ去ってしまったのかも知れない。その場所に、私より若い世代の子がうじゃうじゃ溜まっている。もう、戻りたくはない。私はあの場所にいた時、何を日々見ていたのだろう。うまく秩序立てて、思い出すことが出来ない。断片的な輝きだけが、記憶に擦り傷として残っているような気がする。その傷により、私はいったい何に気づいたのだろう。何を悟ってこの場所にいるのだろう。時代は過ぎた。だからこの場所に、この頭と体をリンクさせなければいけないのだろう。そんなことは分かっている。スポットライトの範囲から、いつのまにか出てしまった。それは認める。この感覚は、時代にうまく遊ばれたっていうことなの?うまく吸い取られたという感覚がある。私は私の人生を生きなければいけないのに、彼は私の場所から去ってしまった。彼がこの時代をうまく生きていけるかなんて、まったく興味が無くなってしまった。接点という繋がりが消えてしまった。それはそれで気持ちが楽だ。私は私だけの人生に戻ってきた。私が住んでいるこの空間に、元カレも存在している。きっとまだ生きているのだろう。同じ時代の空気を吸っている。そう考えるだけで“いま”は気持ち悪い。どんな顔をして生きているのだろう?その頭の中には私という存在の記憶もまだ消えていないだろう。その記憶は美しい記憶として、彼の中で昇華されていくのだろうか?彼との恋愛が終わった。彼も私との恋愛が終わり、結婚生活が始まった。そこまでしか、彼の事は知らない。彼の人生の、一部分だけを私は知っている。一部分だけを知っている人ばかりが、私の周りにたくさんいる。友達?仲間?知り合い?いったい何なの?無数の曖昧な繋がりの集団の中で、私の軸も曖昧になってしまいそうだ。私が本当に辛いとき、本当にそばにいてくれる人はどれくらいいるのだろう。もしかしたら、そう考えるのは間違っているのかも知れない。私にも、そう思える人がいないのだから。人はそれぞれ生きている。私は私なりに生きている。いくつか恋愛を繰り返して、孤独を癒す方法にも免疫ができた。大抵の孤独はもう、大丈夫かも知れない。今までの視線の歪みはきっと、孤独のせいだったのかも知れない。日々の淡々とした生活。そのリズムに、正しい服装で正しい言葉で自分を維持させるなんて無理。きっとまたもうすぐ会社にトラブルが起こるだろう。私には仕組みを壊す才能なんてない。だから、その仕組みに何とか迎合して、その仕組みが壊れる未来を期待している自分がいる。そのポジションに相応しい人ばかりなら、きっとこんなことは思わないだろう。その人選の集合がきっと、時代を少しずつ不景気にしていったのだろう。何かがおかしい世の中で、何かがおかしい会社の中で、私は“いま”生きているのかも知れない。自分自身、正常なのかどうかも疑わしい。私が所属する会社はまだ存在している。世の中から淘汰されていない。であるなら、世の中に対して今のところ正しいことをやっているのだろう。ここまで考えると、いつも疲れてしまう。きっともう一人の私が会社を辞めてしまいたいのだろう。働かなければいけないことは、十分理解はしているさ。何の思想も持たず、勢いで生きてきた。それはそれで楽しかった。急に私はどうしてしまったんだろう?最近、目の前の私より若い人が、なぜこんなに笑っているのか、本当に分からない。私にも、こんな時があったのだろうか?残念ながら記憶にない。何も怖くなかった。そんな馬鹿げた自信だけはあったような気がする。これから何を目的に生きて行けばいいのだろう。特に目的があって生きてきたわけじゃない。周りの集団の動きに、何となく触発されただけだ。このままでいいはずがないという焦燥感。その焦燥感の塊を抱えたまま、周りの集団に不快を感じつつ、それを何気なくひた隠して、生きてきたような気がする。曖昧な綱渡りだったのかも知れない。精神が崩れないように、無意識に自分を守りながら、私は生きてきたのだ。これはこれですごいことだと思う。そんなことを、今までの元カレたちは、理解していたのだろうか?そう思うと馬鹿どもだったのかも知れない。薄い時間を共有していた。過ぎ去ってみると、ただそれだけ。それだけの感慨しかない。時間を、無駄に使ってしまったのだろうか?その時の私は、時間を恋愛に使いたかったのだろう。本能がきっと、私にそうさせたのだ。そんな私ってバカみたい。過ぎた時間にノスタルジーを感じる私。今が、どんどん過去になっていく。このまま時間が過ぎていくことに、
「やばい」
と何気なく感じている。ポジティブな言葉に暑苦しさと、体質に合わないことを感じる。こういう時間を経て、きっと一人になっていくのだろう。過去の時間にしがみつきたくはない。ただ未来の時間を受け入れる準備も免疫も出来ていない。まだ死にたくはない。だからといって不自然にポジティブに生きたくはない。エネルギーを、ふつうに使いたいのだ。感情はもう、不自然に躍動はしないだろう。恋愛という経験によって、自分でも気付かなかった感情と向き合えた。それは女としていいことなのか、思考に悪影響を与えることなのか、今はよく分からない。視線が深くなった、とは思う。男のタイプの地図が、頭の中に出来たかも知れない。自分の内側が、無意識に更新されていく。ニュータイプに変化しているのかも知れない。私は進歩している?私の本能が生きようとしている?生きているのか死んでいるのか、もうどうでもよくなっている。生活のリズムが体に染みついている。もうそれでよくない?目の前には時代が流れている。それはどうにもならない真実だ。私が変わらなければいけないのだ。頭が重かったのは、時代に頭が合っていなかったからかも。少しずつ、時代とズレ始めているのかも知れない。ズレてはいけない部分を保ちながら、いい意味でズレていかなければいけないのだろう。新しいバランス感覚を身に付けなければいけない岐路に“いま”、私は立たされている。目の前には絶えず新しい、何かしら問題がある。これをきっとテーゼというのだろう。自分のままで生きるしかない。そうであろうはずだった自分が、そうではなかったと気付いて、それを受け入れることに、時間が過ぎていく。それがコンプレックスとして、内面にこびりついてしまう。そのこびりつきが私をもやもやさせ、時間だけが過ぎてしまったような気もする。肉体が実際に生きている時間と、頭の中の時間にズレを感じる。肉体は現在から未来へと流れている。でも頭の中の時間は過去、現在、未来へと何の予告もなく移動する。私が生きている時間は“今”なのに、過去の時間に意識が飛び、その時の屈辱をまた味わっている瞬間もある。現在を生きながら、私の意識は過去を生きているのだ。カレシがいた時は、未来へも飛んでいた。結婚したら、こんな生活をして……とか。現実を生きながら、交錯する意識をコントロールしなければいけない。きっと人それぞれ、見ている景色は違うのだろう。同じ景色を見ているのに、感じているものが違う。ここで私は気付く。元カレと見ている風景は同じだったのに、きっと感じているものは違っていたのだろうということ。私は私の見える景色に精一杯だったし夢中だった。彼はいったい何を見ていたのだろう?どんな時間が、彼の内側で動いていたのだろう?私は彼の事を何も知らない。これは付き合ったと言えるのだろうか?過ぎた時間に、
「……」
なのだ。
孤独は本当の私を暴き出す。だから私は孤独が怖かったのかも知れない。
「本当の私……」
独りの時間はどうしてこんなに個としての私を痛めつけるのだろう。生まれてきたのだから、可能な限り楽しみたい。そう考え行動するのは、間違っているの?自分を深く見つめれば見つめるほど、自分の大事な軸に、しくしくした痛みが染みこんでくる。私は望まれて生まれてきたわけではないかも知れない。ごく軽い理由で母親の胎内に宿り、十か月後にポンと生まれた。きっと、ただそれだけなのだ。母には母の考えがあったのだろう。とりあえず、母も私も生きているではないか?そのことに、何かしら大きな神秘的な存在に、感謝をしなければいけないのだろうか?煩悩まみれで神聖な光をまだ、感じ取れるレベルではないのかも知れない。ただ普通でいるだけなのに、何で焦燥感と不安でそわそわしてくるのだろう。最近よく眠れないということに気づいた。肌も荒れている。自分の肉体のための、最良なリズムがいまいち分からない。ストレスを受けているから、きっとうまく眠れないのだろう。肌が荒れているのは、食生活が乱れているからだろう。だって暴飲暴食をすると、気持ちが楽になるんだもの。私はそれほどかわいくはなかった。その事実を三十を目前にして元カレをフィルターとして知った。ショックだったけれど、過去の傷になろうとしている。鏡は毎日見ていたけれど、主観で見ていたから、現実の自分が見えていなかったのだろう。本当の私を知っているのは誰なんだろう?素朴で、本当に知りたい答えだ。私は自分を勘違いして生きてきた。だからこそ、生きてこられたのかも知れない。私より若い人が、恋愛の話で盛り上がっている。でも私の目に映るその子はかわいくない。ブスだ。私よりブスだ、きっと。付き合っている男もきっと馬鹿だろう。想像するだけでげが出そうになる。恋愛はきっと、特権的なものなのかも知れない。ブスの恋愛なんて、きっと誰も興味がない。恋愛に対し冷静になった今、そのことに何となく気づき始めている私。需要がそれほどない男と女でも、そのカテゴリーの中で恋は生まれる。きっと私はそのカテゴリーの中で、悪い意味で酔っていたのかも知れない。私は私の範囲でしか生きられない。私の言葉は、私が所属するカテゴリーの中でだけ、意味を持つ。付き合いたい人と付き合える。それが私の特技だった。明らかに自分の買えないものは視界に入らないように、結局……そういうことだったのかも……ではなく、だったのだ。モテるって今まで自分の事を思ってきた。それは勘違いだったの?いや、私のカテゴリー内ではモテたのだ。世の中には、私の視界に入らない男も存在する。いい意味でも悪い意味でも。結局モテるって何なのだ?たくさんの男と付き合うことが、モテるっていうことなの?結局私は愛されたことがないのかも知れない。だって精神が満たされていないもの。私のどこか大事な場所が枯渇していて、その場所が男を求めたのかも知れない。その波長にあった男を好きになっただけなのかも知れない。その時の私はその時の男が必要だった。振り返ればそんな感じだ。きっとそんな感じで昔のそのまた昔の人も生きてきたのだろう?未来の人達のことを考える余裕がない。これがきっと私という人間の本質なのかも知れない。“今”をどう生きればいいのか、はっきり言って、
「よく分からない」
のだ。今が見えないから、未来も見えない。別にもう見たくもないけどね。こんな思考が駄目なのかも知れない。人に言ったらめんどくさがられるから言わないけれど。こんな闇を抱えながら、日々を生きている私は自分ながら恐ろしい。きっと私の体のどこかに、あるいは精神のどこかに、私に恐ろしいことをさせるボタンがあるような気がする。もともとあったわけではなくて、気づいたら出来ていた……みたいな。今まで普通に生きてきた。きっとそれは運が良かったのだ。犯罪と普通。私はなんとか普通でいられている。もう少し、力を抜いていいかも知れない。がんばりたくない。チャンスがあったら逃げ出したい。努力という言葉が最近なぜか嫌いだ。普通に生きる私はどんな努力をすれば幸せになれるのだろう。もう闘いたくはないし、否定されることはもっと嫌だ。それでも私は生きている。その事を誰かに肯定してもらいたい。そうすれば、もっと他人を好きになるだろう。
「みんな死んでしまえ」
なんて、もう思わないだろう。
自分を支えるための言葉、みんな死んでしまえばいいのに。
こんな自分に誰がした?なんて、私はそれだけは絶対に思わない。“こんな自分”ではないからだ。私は個人である“私”なのだ。きちんと働いている。税金だってきちんと払っている。食費だって母に毎月払っている。そんな“ふつう”を維持することに、精神的にも肉体的にもせいいっぱいなのだ。もう私は弱くはない。日々を生きているという、泥臭い意地が蓄積されているのだから。自分の本当の姿を生活の維持によってごまかせる。そんな女にはなりたくなかった。女としての限界はもう、過ぎたのかも知れない。それでも私は付き合う男を選んできた。最後のカレシには結局捨てられたの?あそこが私の恋愛の最高到達点だったのかも知れない。勢いだけで生きてきた。それをここでも認識する。私の目の前には広大な草原が広がっている。気づいたら、広大な草原が広がっているのだ。私は自由だった。気づいたら、自由になっていたのだ。私はこの場所で、どうやって生きて行けばいいのだ。自由を求めていた。気づいたら自由だった。いったい私は何者と闘っていたのだろう。若さという病気だったのかも知れない。こんな言葉が出てくる自分が不思議だ。歳を取ったという事が、自分の感覚として信じられない。感覚と肉体が融合していない。このまま生きてしまっていいのだろうか?考えても仕方のないことをだらだら考える。だからもう、考えても仕方がないという境地に辿り着こうとしている。
「なるようになる」
という、私の内側からの言葉。過去は過去として、私の内側で動き始めたのかも知れない。点としてこびりついていたものが、トイレで流したように気にならなくなりつつある。過ぎて見れば何ともなかった。時間が解決するという感覚が、今だったら理解出来る。とりあえず、この時代を生きている。生きているだけで、こうして悩みや感情が溢れてくる。私は“私”でいようとする。この緊張感を維持することが、きっと辛いのだ。私が私でいられなくなった。だから過去に私は会社を辞めた。辞めることで、自分を取り戻したのだ。三十を目前にして、すでに私は疲れている。昔よりは、結婚願望が強くはなくなった。現実というものを目の前で見、自分の限界というものも今現在見ているからかも知れない。余計な責任を背負うことに、今更ながら恐怖を感じる。普通に生きているのに、命綱を着けて綱渡りをしているような感覚。きっとそのまま落ちてしまえば本当に楽になれるのかも知れない。命綱を着けているから、またその綱を渡らなければいけないのだろう。
「がんばれ」
などという、ポジティブな言葉はもういらない。不自然な、やさしい言葉もいらない。何でもっと楽に生きることが出来ないのだろう。何で私はこんなに力が入っているんだろう。
「がんばらなくていい」
と、何気なく誰かに不意に言って欲しい。もしかしたら、私は不意に泣いてしまうかも知れない。誰にも会いたくない心境。自分を取り戻すまで、ホントは仕事だってやりたくない。だから。最低限のエネルギーで、日々をやり過ごさなければいけない。生活のリズムを自分から止めるわけにはいかない。明日になって会社に行ったら、さり気なく潰れていればいいのに。そのまま私はニヤニヤして帰るだろう。
「私は会社にちゃんと行った」
という大義が出来る。何も私は悪くはないのだ。無能な経営陣が悪いのだ。そんな他人事な感じで淡々とハローワークに行き、事務的な処理をして、しばらく家に引きこもりたい。私はそんなに強くはない。そんなにがんばらずに生きていきたい。歳が増えていくことで、自分の輪郭がはっきりしてくる。捨ててしまってもいいことに、まだかろうじてしがみつこうとしている私。高速で時代は流れている。だから私の内面はゆっくり、過ぎて行こうとしているのかも知れない。本当に大切なものは、いつの時代もきっと不変だったのだろう。私は“今”生きる時代に適応しなければならない。今着ている洋服だって、感性の洗脳だろう。本当はもっとシンプルに生きられるのかも知れない。過去の私に後悔はしない。けれど反省はしなければいけない。自分の内面に対してやらなければならないことが多過ぎて。だから。もう少しの間だけ、一人でも大丈夫かも知れない。自分の時間を取り戻さなければいけない気がする。私は好きで生まれたわけではなかった。赤ん坊だった自分を、そう理解する。ただ、生まれてみたかっただけなのかも知れない。自分の知らない世界を、純粋な気持ちで純粋に見たいと一瞬、思っただけだった。そのエネルギーがたまたま母親と波長が合ってしまった。だから生まれてきてしまった。そう理解する。胎内に宿ることも、それなりの競争があったと、後々テレビで知った。ただ私に記憶がないだけだ。私は無意識に形成されていった。形成される過程で、そこに愛はあったのだろうか?私と母親との距離感は、きっとここから生まれているのだろう。そう私は今のところ理解をしている。予定はないけれど、このまま結婚したとして、私はうまく適応できるのか不安だ。だからカレシと別れたことを、後悔はしていないと自分を納得させている。結婚はゴールじゃない。そんなことは理解しているつもりだった。その先を、私は見えていなかった。結婚した友達の情報が点々と私の内側に入り始める。独身で良かったと思える事例が独身の私の気持ちを救う。自分をもう、正当化したい年頃なのかも知れない。適齢期……などという価値観が崩れてしまえばいい。科学の力で人生の都合のいい時に子供を持てるなら、その価値観なんて、軽蔑される過去の価値観になるだろう。子供を作ることは簡単だ。生まれてきたその子が普通の容姿で普通の頭脳で何も飛び抜けた才能が無い場合、この時代を普通に生きていくことに、精神が崩れてしまわないだろうか?出来ることなら、私はもう会社を辞めてしまいたい。私に子供がいた場合、この世の中で「がんばっておいで」と背中を押す勇気がない。今まで築き上げられた価値観で生きることが難しくなっていることを、私の体は無意識に感じているのかも知れない。それでも毎日会社に通わなければならない。みんな、気付いているのに気付いていない振りをしているのかも知れない。だって本当のことを言うと、除外されるもの。ゆっくりゆっくり衰退しているのかも知れない。誰もがきっと、それを感じているに違いない。私は私の人生を生きなければならない。この時代を生きる私は、この時代を無視して生きることが出来ない。会社は時代に所属している。会社は時代に貢献できなければ淘汰される。個としての私は、所属する会社に自分を適応させなければいけない。それが私にとっての生きるということであり、その連続が人生になるのだろう。個として生きることを望んだのに、結局集団を意識しなければ生きていけないことを最近知った。絶えず自分でいることに、闘ってきたのかも知れない。
「ばかみたい」
と、過去の自分の態度に腹が立つ。無駄なことにエネルギーを使ったことに、何気なく嫌悪感。それがきっと若さだったのだろう。もう“今”の私の意識は、あの時の意識ではない。意識が変化したのだ。意識はどうして初めから完成されていないのだろう。完成されていれば、たかが恋愛なんかに失敗はしないだろう。今まで生きてきた私の価値観では、未来の私を生きることは出来ない。その準備期間が“いま”なんだと思う。これから男を好きになることは、きっと難しくなるだろう。“男の地図”が、頭の中で形成されたからだと思う。もう。男に対して新鮮さを感じられない。男を冷静な目で見る社会的な自分が内側に出来た。恋愛がすべてだった自分に気恥ずかしい。こんなことを感じている自分が不思議だ。歳がただ増えただけではなかった。少しずつ、私が気づかないぐらいのゆっくりとしたスピードで、内面が熟成していたのだ。付き合うってなんだろう。今更ながら考える。同じ問いが、不意に私を苦しめる。答えは出さなくてもいいのかも知れない。毎日は忙しい。答えを出さなくてもいいことに、時間を掛けるなんてばかみたいじゃない?私はここにいる。この時代を生きている。私を苦しめた言葉。内面を射った言葉。私の存在を不安にさせた存在。見ているだけで「嫌い」と思わせる人。許されるなら、ただじっと見ていたい人。好きという意味ではなくて。私の周辺にはそんな人達がいる。少なからず、私はその人達に影響を受けているのだろう。私はきちんと生きているだろうか?私の勤める会社はいい会社だろうか?なんでこんなにも何気なく不安になるのだろう?時代のせい?私のせい?こんな感じに死ぬまで私の精神は流れていくのだろう。私は死ぬ。気にしなかったけれど、これは真実なのだ。それまでに、私の精神はどこまで到達出来るだろう。いったい私はどこまで到達しているのだろう。それが分からない。
いつのまにか私の精神は静寂を求めていて、美術館に通うようになった。頻繁にではないけれど、通うことで癒されていると思う。静かな緊張感が心地いい。その緊張感のせいかも知れない。私の内側から美しい女の子が二人、飛び出してきた。もちろん想像ではあるけれど、私の目の前にいる。私は美術館にいる。その美術館には中にカフェがあって、疲れると休憩をすることが出来る。私はそこでコーヒーを飲んでいる。いい香りが私の目の前をくねっている。その向こうにあの二人がいるのだ。一人はかわいい女の子。一人は綺麗な女の子。二人とも高校生だ。二人は別々の高校に通っている。時々、学校をサボって、二人はここで会っているのだ。山の中にある美術館。カフェから静かな街を眺めることが出来る。こんな環境が、私の想像力を刺激したのかも知れない。この頃から私は想像で遊ぶことが増えた。自分に合っていた。今まで自分に合った距離感ではなかったのかも知れない。無理に仲良くする必要もないし、無理やり笑う必要もなかったのだ。自分に合わない距離感は苦しいだけだった。内側から見える現実の世界は滑稽だ。その滑稽な世界で私は生きてきたのだろう。現実の世界で生きながら、この頃、私は内側への旅に出たのかも知れない。一人の私が現実を担当し、一人の私が内側へ。現実と内面との境目が、感覚的に曖昧になっていく。想像の中で私は生きようとしているの?想像をすることで、現実とのバランスを取ろうとしているの?想像から突拍子もなく出てきた高校生二人の女の子を、私はある程度完成させなければいけないのかも知れない。だから私はこの二人に名前を付けた。柚菜と亜美。かわいいほうを“ゆな”。綺麗なほうを“あみ”。この二人が私の内側でぼんやりとした映像になった。私には、何かしらの才能があるのだろうか?現実の世界には、私にぴったりの居場所は無かった。だから私はそのストレスを想像にすることで、何とかバランスを取っているのかも知れない。その時に出て来たのが柚菜と亜美。私はこの二人をどう表現すればいいのだろう?イメージとして柚菜と亜美が私の内側から溢れてきた。イメージの中で、この二人が身勝手に動き始める。内面のこんな動きを、誰にも言うことなんて出来ない。私はふつうに生活していた。精神的に、私なりに静かにもがいていたのだろう。そんな自分を救うために、この二人は私の内側から現れたのだろうか。書こうと思う。だから書こうと思う。素直に書きたいと思った。内面の衝動。どきどきする。初めての感覚で、皮膚に触れる空気が新鮮に感じられる。生まれた時の私はきっと、こんな感じにこの世界を感じたのだろう。この世界にはルールがある。世の中でのルール。そのルールが私の輪郭に、もう染みこんだのかも知れない。だから、そのルールに従ってもう、淡々と生きなければいけないのだろう。時間は守らなければいけない。それはもう社会人として、私の輪郭に染みこんでいる。この場所でこの輪郭で私はもう、生きて行かなければいけないのだろう。私の居場所は、もうどこに行っても“ここ”だろう。それを理解し、受け入れたことで、だから余分な力が抜けたのだろう。いい意味で、自分を諦めたのかも知れない。だから、本当の私がここから始まるのかも知れない。もう私は自分の距離感で、自分の視線で生きればいいのだ。それでも私は生きてきた。完璧に生きてきたなんて思わない。でもそれでもきちんと生きてきたんだ。私はそう確信する。この内面の世界から私は、抜け出ることが出来るだろうか?生まれ、肉体がここまで生きてきた。内面に蓄えられた記憶と、ひとつひとつ向き合わなければいけない時期なのかも知れない。柚菜と亜美。この二人を書くことで、私はこの内面の世界から抜け出ることが出来るだろうか?とりあえず書くことにする。小説として、書くことにする。書かないと気持ち悪いから。書こうとしている私の内面に、素直に従おうと思う。仕事を毎日やり、それから小説に向かい合う。ここから私の苦しみが、本当に始まったのだ。それも静かに。現実の生活を維持させながら、自分を輝かせるための作業に残ったパワーを注ぎ込む。私はうまくバランスを取らなければならない。それはそれでスリルがあって楽しい。現実の生活を維持させることに対して、当たり前だけれど、責任を持たなければならない。だからといって、その仕事をきちんと継続したからといってプライドのある、安全な未来が約束されているわけではない。だから次のステップに、気付かれないように移行しなければならないのだ。現実の世界での私の可能性は、もうここまでだろう。だからこそ私の精神は、創造の世界に、光り輝く自分の輝ける場所を求めているのだろうか?肉体での輝きは、もうここまでだろう。だから。精神だけは輝かせたいと、私の本能は考えているのだろう。私の容姿はそこそこだった。その事実を受け入れるために、私はどれほどの時間を必要としたのだろう。勘違いをして生きてきた時間はけっこう楽しかった。自分を中心に時間が過ぎていくと勘違いをしていられたのだから。見えないことは幸せだった。自分に対して無知だった。何も怖いものなんてなかった。そんな自分に恥ずかしい。それに気づいた私の視点は変化した。見える景色も変化した。そのことに、自分のことをびっくりしている。自分の視点は永遠だと思っていた。永遠にこのままの視点だと思っていた。下から上を見る視線。上に対していつもいらいらしていたような。視線の変化に私自身が戸惑っている。視線には、基準が必要なのだろうか?無意識に設定されていた基準が、気付いたら壊れていた。自分に合わなくなっていたのかも知れない。自分の基準を感覚的に、どこに設定したらいいのか分からなくなった。私はどこに向かっていけばいいのだろう。会社という、大きな船に乗っているわけで、中は賑やかだから、本当の自分の気持ちをごまかせる。今はこのままでいいのかも知れない。答えはきっとその時になれば、私の内面にどこかから降りてくるだろう。過ぎて行ったし、目の前の景色も過ぎて行く。ただそれだけなのかも知れない。これからも、淡々と未来はやってくるのだろう。長く生きることが幸せなんて、今の私には思えない。毎日が淡々と過ぎて行く。働くことで、私は会社を通して世の中に貢献しているのだろう。それがきっと、正しく生きるということなのだろう。私に与えられた使命を、私は正しく理解しているだろうか?与えられた命を、私は正しく燃やしているだろうか?
「生きるって何だろう」
今頃になって、こんなことを考える。どうして私はあの時笑ったりしたのだろう。どうしてあの時怒ったりしたのだろう。過去の記憶が何度も何度も沸き上がる。一つひとつの記憶と向き合えるくらい、私は強くなっているだろうか?このままでいいはずがない。だから一つひとつの記憶と向き合わなければならないのだ。そんな私の内面の事情もおかまいなしに、柚菜と亜美は言葉として表現されることを待っている。私は小さい頃、本が好きだった。集団でいることが苦手だった。集団の中にいることに、努力はしたような記憶はある。ただ。気づくと集団の外側にいて、集団を観察している自分がいる。その距離感に、長い時間、苦しんできたのかも知れない。私は未だに自分の居場所を探し続けているのかも知れない。柚菜と亜美を書くことで、記憶と向かい合い、一つ一つ昇華していくことでもしかしたら私は、私の居場所に辿り着くことができるかも知れない。自分に無理はしない。無理に笑わない。自分の感情を不自然に昂らせる存在にはなるべく近寄らない。日々を連続させるには、狡さも必要だと社会に出てから知った。このまま生きてしまうことに私自身、危機感を持っているのかも知れない。どんどん時間は過ぎて行く。やってみたいことがあり過ぎて、だから何も出来ないのかも知れない。私のやりたいことは、どれから一番最初にやればいいのだろう。考えているだけで時間が過ぎて行く。自分にとって捨てていいものと本当に捨ててはいけないものが、自身の中でうまく整理出来ていない。究極的に、結局私は追い込まれていないのかも知れない。曖昧な輪郭のまま、そこそこの生活ができているから、私はこの場所でずるずるしているのだろう。だから書かなければいけないのだ。柚菜と亜美を、書かなければいけないのだ。書くことで、きっと私は救われる。こんな苦し紛れな予感がある。仕事が終わり、夜、パソコンを開き、ぽつぽつ書く。仕事が終わり、リラックスをしなければいけないのに、書くことで不自然に心拍数が上がる。書くという、秘密が私に出来た。昼間の時間と、夜、書くという時間。二つの時間はきっと、どこかでリンクしている。この二つの時間の間を、私は器用にやり繰りしなければならない。私の呼吸が変化し始めたのは、この頃だったと思う。日常が、書くためのリズムになっていった。本当の自分を生きているような感覚が、ある。社会に出て過ぎた時間は、書くための準備期間だったのだろうか?今まで気付いてはいたけれど、その、もう一人の自分が文章を書いている。今まで現実を生きてきた自分は、その文章を書いている、もう一人の自分を見ているに過ぎない。この感覚に、私は最初びっくりした。小さい頃から、私はもう一人の自分に気付いてはいた。その自分はいつも私を冷徹に見ていた。その私が今になって文章を紡いでいる。現実を生きた私は、社会での可能性を限界まで高めたのかも知れない。現実を知り、私は“わたし”の基本を作った。だからもう私には、会社が必要ないのかも知れない。
「どうしよう?」
と私はどきどきしながら考える。
「作家になりたい」
という欲望がどんどん強く溢れてくる。
会社に対する未練は微塵もない。出来ることなら今すぐ辞めてしまいたい。ここが。大事な決断だと理解はしている。誰にも相談は出来なかった。過去の記憶ばかりが溢れてくる。そういえば、私は本が好きだったこと。人から受ける印象を、自分の内側で膨らませることが好きなこと。そんな、点としての些細なことが、今、線として繋がったのかも知れない。私にとって、孤独は怖いものではなかった。本当の自分になることが出来て、記憶を取り出し、イメージとして膨らませる、最大の遊びの時間だったのかも知れない。集団として時間を共有することに、きっと私は向いていない。個としての時間を高めることに、きっと向いている。そのことに気付いてからの私の精神の体調は、はっきり自覚できるくらい回復した。自分を取り戻したのかも知れない。ただ、会社を辞めることは出来なかった。生活に対する未練があるからだ。私の人生が、急に忙しくなった。柚菜と亜美を書いてしまわなければならない。それが私の“今”の使命だ。
結局会社は辞めた。本気で作家を目指してという理由ではない。この会社で生きて行こうという覚悟が私になかっただけだ。作家になりたいと、漠然と考えている。ただの会社員でも、肉体的に精神的に追い詰められる瞬間は何度もある。追い詰められた時、私は「辞める」という結論を出しただけだ。それでも私は書こうとしている。この気持ちこそが私にとって、きっと真実の気持ちなんだろう。私は書かなければならない。ただ不安は増した。次の仕事も探さなければならない。自分の気持ちを明確にしなければならない。作品を書くことを、一番優先しなければいけないのだ。思い切って家を出た。母には私の気持ちは理解出来ないだろう。今まで貯めたお金はここで使うべきだと、自分の気持ちと天秤にかけ、釣り合ったので気持ちよく家を出た。母に対する未練は何もなかった。母も素っ気なく私を送り出した。その程度の繋がりだったのだろう。これで作品に集中出来ると思った。母と喧嘩をしなくてもいい。そのエネルギーを、作品にストレスなく注ぐことが出来る。生活を繋ぐことが出来れば、仕事はもう何でも良かった。嫌になったら辞めてしまえばいい。会社は作家になるまでの繋ぎとして、私は認識した。気持ちがすっきりした。家を出るとき、雨が降っていたけれど、気持ちは快晴だった。このまま気持ちよく、死んでしまってもいいような気がした。
「よし!死のう!」
みたいな。
いったい私は今まで何に苦しんできたのだろう?最近まで苦しんできたのに、それが遠い昔のような気がする。内面に、いくつもの言葉が流れた。それは、自分にとって心地のいい言葉ではなかったような気がする。自分の内面に、自分にとって心地のいい言葉を流したい。だから私はとりあえず家を出たのかも知れない。母に対するストレスを消したかった。これから内面に存在する母とも、向かい合わなければならないだろう。私は社会的に見て、“孤独な人”なのかも知れない。それを思うと悲しい。でも私にとっては“意味のあること”なのだ。まったく未来が見えない。それが“今”は心地いい。死ぬなら死んでしまえばいい。きっと私がそこまでの人間だったのだ。会社を辞めたことで、会いたくない人と会わなくてよくなった。それが一番嬉しい。家を出、部屋を借り、会社を辞めた。今の私にとってはただそれだけ、なのだ。私にとっては意味のある行動なのだ。きっとここは通過点であり、本当の意味でのスタート地点なのだ。そう思うことで、冷静になろうとしている自分がいる。追い詰められて、それで自分で出した結論だもの。この場所が、この地点が、私の歩いていく“道”のスタートなのだ。自分の道を歩いていないことの感覚的な気持ち悪さ、をずっと感じてきた。その気持ち悪さを中和するには、人の不幸が必要だった。
「ここが、それでも幸せなんだな」
と、自分に言い聞かせることが出来る。
私はその場所から飛び出した。
傷の舐め合いをすることで、自分の存在を癒すほど、もう弱くはない。私には、軸が出来たのだから。もう。
「私は“わたし”」
なのだ。
失業保険の手続きをした。初めてした。説明会に参加して、あまりの人の多さに安心した。集団の中にいると、どこか安心するのはなぜだろう。説明を聞いていても、そんな自分を冷静に冷徹に見ている“わたし”がいる。きっとこの経験も、いずれネタになるだろう。そんなふわふわした気持ちをこっそり隠しながら、私はそこにいるのだ。どこか自分だけ、浮いているような気がする。学生の頃、授業を受けていても、頭はどこかに飛んでいた。その時の感覚に似ているような気がする。説明を聞いているのに記憶が溢れてきては、ついでに眠くなる。自己都合で辞めたので、三か月後からの受給らしかった。ネットで調べていたのでどうでもよかった。貰えるものは貰っておこう。そんな感じのモチベーションだった。三か月は何もしたくなかった。早く帰りたかった。何かが始まると、終わることが待ち遠しくなる。失業保険のために、これだけの人が同じ時間を共有している。それを思うと笑いたくなってきた。でも私は我慢する。当然だ。ここで笑ったら、とにかくダメだろう。笑っている私を大量の視線が見るだろう。どう対応すればいいのだ。だから我慢する。そのための腹筋だ。当事者なのに、当事者ではないような感覚。この感覚は、生まれた時にはすでに“あった”のかも知れない。人生はきっと追い込まれているのに、自分に対しては楽になっていく。この時間もすぐに過ぎていくんだろう。今は身を潜める時期なのかも知れない。私に無関係な時間はどんどん過ぎていけばいい。ここで時間を共有している人達も、この部屋を出れば無関係だ。今はそれを孤独とはとらえない皮膚になっている。私は“わたし”の時間を生きようとしている。ここはとりあえずの時間。ぞろぞろと、機械的に説明を受けている人達。その中に私がいる。肉体が面倒くさかった。精神は未来に行っているのに肉体のスピードに合わせなければならい。肉体は現実を生きている。会社に所属していた肉体は、今は会社を辞めた。所属していた時私の精神は苦しかった。精神を解放するために、私は会社を辞めたんだ。このまま私の考える未来にものすごいスピードで移動したかった。
「何をやっているんだろう」
と、思いたくもなく思う。
ただこれが私の現実だった。三か月は何もやらない。それが今の私が「決めた事」。呼吸をうまくコントロールしなければならない。三か月を無駄にしたくはなかった。柚菜と亜美を、産んでしまわなければならない。時間はひっそり過ぎて行く。そのための環境に貯金を使っている。これは生きたお金の使い方だと思いたい、で、あって欲しい。“いま”、私は世の中に参加していない。それはそれで意識的に緊張感を自分に与えていないと何かが本当に崩れてしまいそうな予感はある。危機感かも知れない。だから朝はちゃんと起きた。世の中には無数の会社があって、そこでは無数の人が働いている。その事実に対して、精神は平等で尚、高尚でいたかった。書くことで、きっと私は世の中と繋がっている。そう思うことで、不思議と私は安心した。一人だけれど、独りではない。独りになりたくないから、私は書かなければならない。こうして私の時間は過ぎて行く。私にとっては意味のある時間が密かに、じわじわと過ぎて行く。わがままの時間を過ごしているわけではない。だって自宅にいながらこんなにも緊張しているんだもの。生きているという感覚がある。この部屋には時限爆弾が仕掛けられていて、絶えずそれを意識しながら生活しているような……。焦燥感でどきどきする。ただ私には会社員の経験がある。会社員でのリズムが体に染みついている。その呼吸が焦燥感を、うまく中和してくれるだろう。自分の内面と向かい合う準備はいつのまにか整っている。私は私を生きている。ただそれだけなのに、そんな自分を滑稽だと思う。まだ私の人生が始まっていない学生の頃。もっと楽に生きる予定だったのに。自分の輪郭を知らなかったから、何も怖いものが無かった。それが今はどうだろう?いっちょまえにもがいているではないか?私は“わたし”を生きようとして、必死にもがいているではないか?生身の“わたし”に私がどきどきしている。それがなんとも滑稽だった。
「生きられるだろうか?」
ではなくて、すでに、
「生きている」
のだ。それが滑稽であり、恐怖だ。恐怖で私が震えている。集団の中に居れば、こんな恐怖を感じなくていいだろう。こういう生き方しか出来ない私を、今はすべて愛することは出来ない。追い込まれている。冷静に、自分に対してこう思う。ただ、こういう生き方しか出来ない自分に悔しい。もっと楽に生きている人はいっぱいいる。そんなことは知っている。そんな人はいっぱい実際に見てきたのだから。結局。私は私の生き方しか出来ない。そんなことは当たり前だけれど、自分を保ったまま、調和を保つことは、神業に近いかも知れない。若い頃の私は協調性が無かった。それは若いから許されたのかも知れない。けれど、もう私は純粋に若くはない。無思想に、感覚だけで動き回れるエネルギーは、もう溢れてこないだろう。過去の私が過ぎて行く。仕事を辞めたのに、よく眠れる。辞めたから、よく眠れるのかも知れない。不安はあるのによく眠れるのは、いったいどういうことだろう。一日一日を、大事に生きている。そんな実感がある。自炊をするようになった。それは自分でもびっくりしている。朝は基本的に食べなかったし、お昼は会社の食堂だったし、夜は母が作ったり作らなかったり買ったりで、適当に済ませていた。時間があるのでネットでレシピを検索して買い物に行って、作っている。自分のために作る料理というのも、私にとっては楽しい経験だった。意外だった。
「この際、好きな男の人のために作りたい」と、まったく思わない
私の感覚は、おかしいのだろうか?男に対して過度の幻想はもう、
まったくない。恋愛を経験したことで、視線が現実的になったのか
も知れない。結局一人が心地いい。私は男というものを知り過ぎて
しまったのかも知れない。結婚をしても、きっと離婚をしていただ
ろうと自分を推測する。自分がますます分からない。時間が哲学的
になっていく。このままではきっと私はいけない。危機感は冷静に
感じている。ただ。結婚は必ずしなければいけないものなのだろう
か?結婚をして良かったという情報が、私の内側には入力されてい
ない。それがきっと言い訳になっているのだろう。母子家庭で育っ
た私。今になって喪失感を、意識が感じ始めている。何かが足りな
いまま、生きて来たのかも知れない。それをずっと私は感じ取れな
かった。その場所は、恋愛でも満たされることはなかった。仕事で
も、満たされることはなかった。そのことに、独りになって気づい
ている。書くことで、その場所は癒されていくのだろうか?現実と
内面とのバランスを、うまく取れなくなっていた。だから私は会社
を辞めた。辞めたことに対して後悔はない。自分を守るために、辞
めたんだ。何がこんなに自分を苦しめるんだろう。起きる。仕事を
する。食べる。眠る。生きるって、考えてみるとシンプルだ。だか
らきっと、私の内面がシンプルではないのだろう。だからシンプル
な日常に、いちいちつっかえているのだろう。幸せになるために苦
しんでいるのだろうか?時間はそれでも過ぎて行く。はっきりとし
た答えを出さないまま、今まで生きてきてしまったような。それで
も生きてこられたし、生きていけるのだろう。そんな過去の自分を
見つめながら、私は文章を書いている。柚菜と亜美を、書いている
のだ。それには自分を抑えなければならなかった。会社員の呼吸と、
なんら変わりがなかった。自分に戻ると極度に疲労している。その
感覚に、私は救われている。時間を大事に使っているという安心感。
精神を不安にさせる、無職という引け目。きっと書かずにいたら、
私はおかしくなってしまうかも知れない。自分でいられるぎりぎり
のラインを歩いている。そんな感覚がある。世の中との距離感が、
会社員より遠い場所で書いているにも拘らず、会社員より緊張する。
どきどきする。当たり前だけれど、人間関係のストレスは無かった。
ただ自分を厳しく律しなければ、無残なかけらになってしまうだろ
う。そんな予感はある。今は柚菜と亜美を書かなければならない。
書くことで、少しずつだけれど、癒されるというか楽になっていく
ような実感がある。もしかしたら、ここが私の居場所かも知れない。
現実から逃げているわけではない。書くことで、きっと私は現実と
闘っている。
「この場所で生きられたら、どんなに私は幸せだろう」
と、何気なく思う。
人にはそれぞれその人に合った居場所があるのだろう。私にとっての居場所はもしかしたら“ここ”なのかも知れない。だから柚菜と亜美を書いてしまわなければならない。私は与えられた天分を、自覚したのだろうか?書くことが、私の生まれてきた理由なのだろうか?複雑に内面が動いている。この現象は、生きているからこその科学反応なのだろう。生きているからこそ、味わえることなのだろう。生きなければいけないのかも知れない。自分でなくてもいい事に、一生懸命になり過ぎたのかも知れない。若さに付け込まれ、私はうまく働かされていたようだ。世の中から離れて、それに何となく気づいた。柚菜と亜美を書き終えたら、また仕事を探さなければならない。それなりの志望動機を考え、履歴書を書かなければならない。今は不景気だから、中小企業がいっちょ前に採用基準を高めている。志望動機なんて、生活を維持できるだけの収入確保なだけなのに、もっともな理由を考えなければならない。中小企業の仕事なんて、大企業の下請けなだけなのに、高尚な思想でぜひとも入社したいなんて思わない。それを隠してそれなりの志望動機を考えなければならない。
「めんどくせぇ……」
と、何気なく思う。
働くことは嫌いじゃない。ただ、今までのモチベーションではもう、働けない。何かに気づいたし、働いたことで内面のあちこちを高められた。きっともう私は、次のステップに移行しなければいけないはずだ。次のステップに行くための時間だと思えば、焦燥感を健康的に中和させることが出来る。内面をうまくコントロールしなければいけない。そんな状態の時に、母の再婚を知った。家を出て、一か月くらい経っていたと思う。母からではなくて、買い物に行った時に、母の友達から聞いた。知らなかったとは言えない。私は普通に会話をした。母と私の繋がりとはいったい何だったのだろう。それが今回のことで、どうやらはっきりしたようだ。不思議と怒りはなかった。悲しみも、もちろん喜びも無かった。
「そうなんだ……」
という感慨だけが残った。
もしかしたら、私は生きられるかも知れない。そんなエネルギーを、自分の内側に感じる。きっとこんなものなのだろう。この時私は悟った。死は怖いものではないと。支離滅裂になったわけではない。やけっぱちになったわけでもない。私の細胞を、私は直に感じているのだ。ここから私の本当の人生が始まるような気がする。きっともう、こんなものなのだ。何かが剥げて、さっぱりしている。脱皮したのかも知れない。駄目なら駄目で、そこまでの命だったのだろう。だから私は生きなければならない。もしかしたら私は、今まで誰とも繋がったことがないのかも知れない。寂しいという感覚は、ない。気づいたら、寂しいという感覚は無くなっていた。もしかしたら、もともとそんなものは無かったのかも知れないと思いたい。日常の繋がりなんて、そんなものだった。だから会社を辞めたことに、まったく後悔はなかった。繋がりの限界を知ったからだ。外の世界の現実と、頭の中の幻想的な感覚を、だいだいリンクさせた。だから音楽を、求めなくなったのだろう。幻想で現実をごまかせるほど、私はもう若くはない。けれど現実と、うまくバランスを取ることが出来ない。だから会社を簡単に辞めてしまったのだろう。私は結局私だった。現実を知り、受け入れた私は、自分を否定しようとして、やっと立っていられるくらいにおかしくなった。そこで私が偉いと思うのは、死んでしまわなかったこと、だ。それでも私は何とか生きようとした。そんな自分をやっとちょっとだけ、信じることが出来た。まだ死ぬべきではないのかも知れない。長生きをしたいとは思わない。ただまだ、きっと死ぬべきではないのだ。私がまだ、生きたがっている。それでも淡々と過ぎてきた時間。その過ぎてきた時間に私の頭に刻まれた記憶を、すべて愛することは“いま”の私には出来ない。このまま時間が過ぎてしまってはだめだった。その焦燥感が、柚菜と亜美という幻想を生み出したのだろう。大人になりきれていないのかも知れない。かといって、無垢な子供でもない。正しい大人の輪郭が分からない。分からないまま、ある程度不安定なまま進んでいくことが、きっとうまく生きるコツなのだろう。その不安定さが歪みになり、その歪みに耐えきれずに、会社を辞めてきたのだろう。私は私の見ている世界から抜け出したい。だから。私は私を支える支点のレベルを上げなければならない。現実を生きていながら、過去を生きる人間にはなりたくない。過去と向き合わなければならない。そのための時間にしなければならない。やらなければいけないことがたくさんあり過ぎて、頭の中がぐらぐらする。過去と向き合い、正しく考えることで、私の支点はきっと上がるだろう。もう私の人生は始まっている。ただ、私という人間の、世の中との適切な距離感に気づいたので、不自然な焦燥感はない。それぞれの天体には太陽との絶妙な距離感がある。それぞれが、それぞれの距離感で、太陽とうまくバランスを取っている。だからきっと何とかなるだろう。自分の距離感で、世の中と付き合っていくしかない。静かに、それでも時間は過ぎて行く。
どうやら世の中は不穏に動いているようだ。きっと、今までの価値観では生きていけないのだろう。肉体がこの時代を生きている以上、この時代を生きなければならない。この事実だけは、どうしようもない。それでも生きたいと思うし、だから死んでしまいたいと思う時もある。もう純粋に、私は若くはない。それでもこんな感じに生きている。淡々と生きようと思う。まだ私は自分のためだけに生きることが出来るだろうか?もう疲れているような気もする。とりあえず、柚菜と亜美を書いてしまわなければならない。それが多分、私の今やるべき事だ。無職だし、母が再婚した。私は家を出た。自炊を始めて気持ち的に新鮮な感覚を味わっている。そんな環境が、まだ定着していない。きっとそんなものは、時間が解決していくだろう。過ぎて行く時間に、私自身が適応していくだろう。そんな自分を客観的に見ている私がいる。私の見えている世界は、現実のほんの数%かも知れない。それを、客観的に見ているもう一人の私は知っている。書くことで、数%の世界から、抜け出せるかも知れない。抜け出すことが出来ても、結局は数%の自分の世界にいづれ帰ってくることは、数%の世界で生きる私は知っている。虚構と現実を、うまく使い分けなければならない。今は一時的に、自分を社会から隔離している。それはもしかすると、社会ともっと繋がりたいという本能だったからなのかも知れない。集団の中にいると、私は自分を閉じ、自分を守ろうとする。それが強烈な孤独を私に感じさせたのだろう。私は今、社会と繋がっているだろうか?一人だけれど独りを感じない。会社にいる時は、一人ではなかったけれど独りを感じた。私は私に対して、きっと正しいことをしている。
「生きられるかも知れない」
と、数%の世界を生きる私は思った。それを客観的に見る“わたし”は、にやりとモナリザのように微笑んだ。
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