にごり酒 2 かつおの酒盗

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にごり酒 2 かつおの酒盗

「今、どこにいるのよ……私」  目を開けて、数秒後。呟いてはみたものの、誰もいないので、返事はない。  ふかふかの布団に寝ている。天井の木目に見覚えがない。  小さいストーブの上に置いてあるやかんがシュンシュン音を立てて、水蒸気を出している。  懐かしい音。  小学生の頃、風邪をひいて学校を休むと、母が和室に布団を敷いてくれた。病院で処方された薬を飲むと眠ってしまい、ふと目が覚めると、シュンシュン音がしていた。ストーブで部屋を温めてくれた、母の優しさを感じる音だった。  なんだろう。この、人の温かさに包まれて、安心して深い眠りについていたような気持ちは。ここ、どこ? 「みなみ、開けていい?」  襖の向こうから男性の声がして、ハッとした。 「はいっ、今、起きますっ」  私は慌てて体を起こした。  思い出した。  昨日『居酒屋たつきち』の二階と三階にある、住居の部分に引っ越してきたんだった。  私、恋人と結婚したんだ。  結婚した最初の朝を、私は二日酔いと寝坊で迎えたようだ。  朝ではなく、すでに昼。    私が『居酒屋たつきち』の暖簾をくぐったのは、二年半前。  仕事だけで精一杯の日々は、私を心身共に疲弊させていた。 『今年のにごり酒、入りました』  外に出してあるホワイトボードに、おすすめのメニューと共に書いてあった『にごり酒』という言葉に誘われて、初めて一人で入った居酒屋だった。  そういった場所に慣れていない私を受け入れてくれて、ぐい呑みも知らない私に、ふた口ぶんだけのにごり酒を出してくれたり(本当は一杯でおいくら、という値段設定なのだが)、初めてのカウンター席におどおどしていた私に、 「これを機に、お見知り置きを」 と笑顔で声をかけてくれたり。 『居酒屋たつきち』の店長である辰吉さんと息子の辰君は、私の心の拠り所となった。  ああ、この人、素敵だなあ。  そんな軽い気持ちで、誰かを目で追う。  自分でもそれは気づいている。  しかし気づいているのはそこまで。  恋は、そこから先を、無意識にしてしまう。  もう、素敵なんて程度ではない。好きで好きでたまらなくなっている。  目で追うだけではない。昼も夜も、その人の姿を思い出して過ごしている。  人を好きになるということは、素敵なことだけれど、恐ろしい。無意識な自分は自分には見えないから。  深く、とても深く、人を好きになってしまったら、気持ちをコントロールすることは難しいから。  私は辰君を好きになって、そんなめんどうな気持ちと向き合ってきた。  式は挙げない。婚姻届のみ。会社を辞めて、お店の従業員として働きたい。最初から同居したい。  すべて私の希望だった。  しかし、店長も辰君も、私が二人に気を遣っているのではないかと案じ、なかなか首を縦に振らなかった。  何度目かの話し合いのとき 「あのさー。私、辰君が好きだけど『たつきち』も好きなの。嫌で会社を辞めたいって言ってるんじゃないの!」 と私は怒鳴った。 「結局、店かよ!みなみ、この店、気に入ってたもんな。俺と結婚すれば自動的に店がついてくるからな」 「お店がめあてなら、店長と結婚してるよ!」 「親父は高齢者だぞ!枯れ専か!」  ある月曜日の夜。  お店の定休日。  辰君と私は結婚に向けて話し合いをしていて、喧嘩になった。  あまりにも内容がくだらないので、仕込みをしながら聞いていた店長が笑いだした。 「あの喧嘩は面白かったなあ」  義父は今でも思い出し笑いをする。  今日、お店の定休日に合わせて、辰君と私は婚姻届を出しに行った。  私はアパートを引き払い、この店の二階と三階に荷物を運び入れた。  夕方から三人でささやかなお祝いをすることになり、義父が何品かおつまみを作ってくれた。  私は初めて、にごり酒をぐい呑みにいっぱいまでついでもらった。 「みなみちゃんの好きなにごり酒に合うおつまみ。これ、今日のために取り寄せたんだけど……どうかな」  義父は少しだけ不安そうに、小鉢を出してきた。そこにはどろんとした、くすんだピンク色のようなものが入っていた。 「かつおの塩辛?」 「酒盗っていうんだ」  ほとんど呑めない私には馴染みがない。 「内臓だけを使って、長期熟成させたところが、塩辛とは違うんだ。塩辛よりコクがあると思うよ。これを肴にすると、酒がすすんで、酒を盗んででも呑みたくなるってところから、酒盗って呼ばれるようになったんだよ」 「親父、これ……」 「宮本さんから取り寄せた」 「宮本さん?」  私が尋ねると、二人は躊躇し、結局辰君が答えた。 「酒盗や塩辛を専門に扱ってる店。宮本さんは抜群に腕が良くてさ、宮本さんの酒盗よりおいしい酒盗はなかなか手に入らないんだ。だけど宮本さんは機嫌に波がある人で、一度機嫌の悪いときに、親父じゃなくて俺が買いに行ったのが気に入らなくて……二度と『たつきち』には卸さないって嫌われてて。よく買えたな、親父」  義父は、ふふふ、と笑った。 「気にしてたんだろ、きっと。行ったら、あっちから謝ってきたよ。こっちは今まで卸してもらえなかった恨みがあるからな、すごくかわいい娘ができるんだって自慢してやったよ。復讐、復讐」  こんなに楽しそうな義父を見るのは初めてで、私は心の底から、この家族に加えてもらったことを、誇りに思った。  私はこのふんわりと包み込まれるような温かさを、なにがあろうとも手離さない、と固く誓った。 「それでは、いただきます。貴重な酒盗」  私はそっとひと口、口に入れた。  塩辛い。しかし確かに塩辛とは違う。深みというのか、これがコクというのか。  続けてにごり酒をひと口。  酒盗のコクと塩辛さが残っているところに、とろんとして、お米の甘さが際立つにごり酒が入ってくる。 「おいしい。合うってこんな感じなんだ!わ、すごい!」  にごり酒は甘くてとろんとして呑みやすいが、度数は高め。すぐにカーッと喉を熱くする。  しかしこれはやめられない。 「お義父さん、ありがとうございます。辰君、これ、最高!」  私はそう叫んだ。  叫んだところまでは覚えている。  頭が痛い。痛み方が尋常ではない。心臓の鼓動に合わせて、ガン、ガン、ガン……。  襖を開けた辰君はお盆を持っていた。小さい土鍋と水と薬が乗せてある。 「みなみ、おかゆ作ったから、少し食べて、薬飲もうか」  布団の横にお盆を置くと、辰君はおかゆを茶碗に入れ、フーフーと冷まし始めた。 「あの……ごめんなさい。いろいろと……すべて」  もうなにを謝ったら良いか、わからない。  おそらく、酔いつぶれた私を、二人がかりで運び、買ったばかりの布団を敷いて、寝かせてくれたのだろう。 「にごり酒はやっぱりふた口までだな」  辰君は笑った。  キュンキュンする。好きな人の優しい笑顔。  私の疲れた心を癒してくれたこの父子を、いつか私が癒して、救うときのために、私はここにいたい。
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