Prologue:Erorr code

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Prologue:Erorr code

 カーテンの隙間から薄橙色(うすだいだいいろ)の朝陽が部屋に差し込んでくると、暗闇に慣れていた目が刺すように痛んだ。  換気のために窓を開けると潮の香りが鼻腔(びくう)をくすぐり、微睡(まどろ)んでいた脳細胞を刺激していく。湿気で蒸れていた室内には夏の朝特有の清風が吹き込んできて、入れ替わりに()もった熱が朝の世界に解き放たれていった。  窓の外に広がるのは、宝石を散りばめたように輝く海面、そして岩肌鋭い(がけ)が並ぶ景色。空は淡い橙色から晴天の色に移り変わろうとしており、爽やかな朝の訪れを告げていた。  眼下には朝釣りを終えたばかりの釣り人の影がまばらにある。釣果(ちょうか)は良かったのか、上機嫌な足取りで帰路についているのが見えた。釣れた魚は朝食か、それとも夕食のメインディッシュになるのだろうか。  海沿いの道路には色とりどりの乗用車が行き交っており、各々(おのおの)の職場へ向かう人達の忙しさがエンジン音となって響いている。時折、遅刻間近なのか危険運転をするドライバーがいるので要注意だ。釣り人も文句を言っている。  普段と何一つ変わらない朝の光景。飽き飽きするほどに見慣れた、この街のいつもの姿だった。 「う~んっ」  この家に住む少女、戸田(とだ)陽葵(ひまり)は大きく伸びを一つして、気怠(けだる)げな体をほぐした。  姿鏡に映る自身の姿は寝癖がボサボサで跳ねが酷く、汗ばんで貼り付いたパジャマはみっともなく乱れている。映画や漫画で見る美麗な寝起き姿とは程遠い、生活感溢れた年相応の乙女のそれだった。  もっと誰もが憧れるような、可愛い中学生になりたい。そう思って日々を過ごしているが、変われそうにないのが現状。今の自分はもっさりしただけの、掃いて捨てるほどいるただの女子。誰かに好かれたい、もて(はや)されたい。そんな願望だけが先行して、自己嫌悪に陥ってしまう。  ――あー、やだやだ。  本棚の上にちょこんと座る、幼少期から愛用の(くま)のぬいぐるみを手に取ると、何の気なしに顔に拳をめり込ませてみる。八つ当たりだ。でも大したイライラではないし、壊してしまう勇気もない。寝起きの重たい頭がさせてしまう、特に意味のない行動だ。ちょっといじめたら溜飲(りゅういん)が下がったので、笑顔の表情から変わらないぬいぐるみを、そっと元の場所に置き直した。  ――お腹空いたな。  段々と頭が覚醒してくると、比例して空腹感も強くなっていく。今日の朝ご飯は何なんだろう、トーストとカフェオレがいいな。とささやかな期待を胸に、リビングがある階下へと向かう。  この家のリビングは広めに設計されており、大きな窓からは海が一望できる。ホテルだったら最上級のオーシャンビューと呼ばれているだろう。だが、実際に住んでみると問題も多々あり、特に大きいのがカーテンを開けると外から丸見えなことだ。お風呂上がりに不用意に通ると、あられもない姿が近所の住民の前に(さら)す結果となってしまう。なので、陽葵としては、自宅のリビングがあまり好きではなかった。  キッチンからはトントン、と包丁とまな板が小気味良いリズムを奏でている。母は調理中らしい。しかし陽葵は朝の挨拶(あいさつ)もなしに、リビングのソファーにどっかりと腰を下ろす。柔らかな座り心地で、重みで体が深く沈み込んだ。  母とは最近ろくに口をきいていない。自分のやることなすことに逐一文句を言ってくるので、話すだけ時間の無駄(むだ)だからだ。もう十四歳なのだから、子ども扱いなんてまっぴら御免(ごめん)。化粧の一つや二つ、お金の使い方に口を挟まないでほしい。  とはいえ無音の空間は居心地が悪いので、テレビを点けて気を紛らわすのがいつものパターンだ。この時間にやっている番組はニュースか子ども向け番組くらいしかないが、ないよりはマシという判断だ。ワイドショーなら賑やかでちょうどいいと思いチャンネルを合わせると、画面に有名な俳優の顔がアップで映った。 『俳優の氷室(ひむろ)一真(かずま)さんですが、昨日夜遅くに自宅で亡くなっているのが発見されました。死因は窒息死とのことで、警察の発表では自殺の可能性が高いと発表されています……』 「嘘、氷室一真が……えー、マジかぁ」  悪い意味で大ニュースだった。  氷室一真といえば今をときめく人気俳優で、多くの女性ファンを獲得したトップレベルのイケメンだ。しかも顔だけが取り柄ではなく、演技力も抜群。数々の映画監督からも大絶賛で、スケジュールがぎっちり詰まっているともっぱらの噂だ。  陽葵自身は名前を知っている程度で、特にファンというわけではないので良かったが、友人の大半はこのニュースで相当ショックを受けているだろう。登校拒否する子が続出する可能性もある。朝から大変な騒ぎになりそうだ。  しかし、どうして急に自殺したのだろうか。  仕事で引っ張りだこの、誰もが(うらや)む若手俳優。モテモテで実力もあり、ギャラのおかげで相当儲けているはず。死にたくなる要因が見当たらない。それとも一般人からは想像もつかない、思い詰めてしまうなにかがあったのだろうか。ワイドショーの司会もコメンテーターも、しきりに首を(ひね)っては疑問を口にしていた。ひな壇芸人程度の発言しかしないのなら、出ない方がマシではないか。なんにせよ、真相は本人のみぞ知る、といったところなのだろう。  ――こんな事件もあるんだなぁ。  もし自分なら、自殺なんて絶対にしないのに。死ぬのはきっと痛くて苦しいし、死んだ後どうなるかわからないのだって怖い。幼い頃は天国とか地獄とか、漠然とした概念は持っていたが、大真面目に信じるつもりはない。大方(おおかた)、規則を守らせるための、都合の良い解釈だ。本当にあるのなら、証人を連れてきてもらいたい。だが不可能。結局、死後どうなるかなんて、誰にもわからない。だから怖い。  それに美味しい物も食べられなくなる、というデメリットもある。せっかくこの世には多種多様な料理があるのに、それらを味わわず死ぬなんてもったいない。美味を捨ててまで死んで楽になろうなんて、馬鹿(ばか)らしいとしか思えなかった。 「……ちょっとぉ、朝ご飯まだなの?」  食事について考えていたら、空腹を告げる悲鳴が腹の底から鳴ってしまった。その恥ずかしさをごまかすように、陽葵はテレビから視線を逸らさないまま母に不満をぶつける。しかし母からの返答はない。普段の反抗的な態度に対する仕返しのつもりだろうか。それとも耳が遠くなったのか。自分の親がそこまで年寄りとは思えないが、あり得ない話ではない。 「ねぇ、聞いてるの!?」  わずかばかりだが怒りを胸に、陽葵はキッチンの方へと振り返る。料理に集中しているだろう母に、思い切り文句をぶつけてやろう。と意気込んでいたのだが、そこにあったのは、包丁を自身の(のど)に突き立てている、トマトソースを被ったみたいに真っ赤に染まった母の姿だった。  テレビの音が、やけに遠くで響いているような気がした。
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