紅白エスパー合戦

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「今どこにいるのですか? 返事をしてください、ハヤトさん」  イリジウム携帯電話の声は、三島果穂だった。  彼女の専属ガードであるハヤトは、下弦の月を背後に受けて、高さ六三四メートルの自立式電波塔トップにいた。足元では最先端の技術を駆使して作られた世界一高いタワーを彩るように、LED照明器具が最大限に近い明度で点灯し、赤から白へとライティングを繰り返している。  風はしだいに西から北へ回って、激しくさわぎはじめた。突風が夜空を通り過ぎるとき、おびただしい星くずは今にも吹き消されそうにまたたいていた。 「申し訳ありませんが、今日の私は休暇ですので、これにて失礼いたします。お嬢様」  ハヤトは背広のポケットからセブンスターの箱を取り出し、器用に煙草を一本咥えて火をつけた。何ケ月ぶりかで吸う煙草だが、驚くほどうまかった。 「休暇? そんなのわたし、聞いてませんよ」  果穂の声は実に不機嫌だった。彼女に黙って屋敷を抜け出したハヤトは、やや落ち着かない様子で白い煙を吐き出した。 「旦那様の許可はもらっています。私だってたまには羽根を伸ばしたいのです。ご理解ください」 「い・や。すぐに戻って。お願い」  ハヤトは大きな溜息をついた。眼下には世界最大三千八百万人の東京都市圏の夜景が一面に広がっている。この場所でNHK紅白歌合戦の生放送を聞きながら一人悦に入るのが年に一度の楽しみなのに、それを邪魔された気分だった。彼の身体全体を包むサイキック(PK)バリアが白く輝き出した。 「すぐに、とおっしゃられてもね。それに今日は大晦日じゃないですか。ご家族でゆっくり年越しを迎えられるのがよろしいのでは?」  ハヤトは煙草を口に咥えたまま腕時計を眺めた。紅白歌合戦の時間が近づいている。はやる気持ちを落ち着かせようと、フィルターから煙を肺いっぱいに吸い込んだ。 「もう忘れたの?」果穂は呆れた口調で言った。 「何をです?」 「まったく!」いきなり果穂の声のトーンが上がった。「いつだったか『今度星を見に行きましょう』って誘ったくせに、待てど暮らせど連れて行ってくれないから、こうしてわたしのほうから切り出しているんです。今度っていつですか?」 「ええと……でも、それならそうと早めにおっしゃってもらわないと、私にだって予定がありますからね」 「開き直るつもり?」 「いえ……ただ私は専属ガードであって、別にお嬢様の召使いではありませんので。一年三六五日、ずっとそばにいるわけではありませんよ。こうして一日くらいプライベートを楽しむ権利くらいあると思いますが」 「……とにかく戻ってきて。待ってるから」  ハヤトは目を閉じた。いつものことだと観念した。 「わかりました」  彼は火のついた煙草を投げ捨てた。PKバリアから離れた吸い殻は、夜風に吹かれて、そこから風下へ五メートル離れたところに散っていった。  すぐにいつもの口調に戻った果穂が、もう一度尋ねた。 「ところでハヤトさん、今どこにいるのですか?」  ハヤトは別荘のある埼玉県幸手市のほうに顔を向けて答えた。 「東京スカイツリーのてっぺんです。ここからの夜景は格別なんですよ。なんたって世界一高いタワーですからね。関東一円が自分のものになったような気がします。星空だってとても綺麗ですよ」 「いいなーっ。そうだ! そこにしましょう。早くわたしを迎えにきてください」 「かまいませんけど、お嬢様。一つお願いが」 「なんでしょう?」 「紅白歌合戦の録画を。あいみょんと小林幸子が観たいのです」  果穂はくすくす笑って、いいですよと快諾した。  果穂の父親が経営している三島コーポレーションは、防衛産業を生業にしている企業で、主に無人機の製作に力を入れていた。防衛省から委託され、零式超小型原子炉内蔵完全自律型戦略的誘導武器――通称「タランチュラ」を陸上自衛隊に三十機納品している。  タランチュラの黒いボディから照射される五万六千度のメーザー・ビームは、四千メートル離れた目標を一瞬のうちに蒸発させる能力がある。そして現在開発中の弐式「タランチュラ」は、遠隔操作タイプの飛行可能な仕様に設計され、海上自衛隊の護衛艦に搭載可能である。  世界の軍事バランスに多大な影響を与えるこの装備は、当然のことながら国家機密に包まれたブラックボックスとして扱われているところであり、その一方で三島一家に対する妨害工作、恐喝、スパイ活動など、各国の諜報員による犯罪行為も後をたたない。  ところが日本の警察組織による捜査にも限界があり、そもそも軍事産業に対する国民の軍事アレルギーや民間企業への過度な介入禁止など、さまざまな制約に阻まれ、三島家への保安体制も十分行き渡らないという事態に陥った。  そこで十年前から三島家は、家族一人ひとりに専属ガードを雇うようになった。そのときハヤトは二十歳。ある特殊な能力を買われ、三島家次女の果穂が八歳のときから専属ガードとして十年間彼女に仕えている。  午後七時三十分。ハヤトはPKバリアをその身に包み、テレキネシスを発動し、長い黒髪を乱すことなくマッハ1.5の速度で北北西へ向かっていた。あまり高度を上げすぎると、羽田管制塔とか在日米軍の対空レーダーに探知されるおそれがあるけれど、彼はそれほど気にしなかった。あまりにも早く、そして小さい機影としてレーダー員が首を傾げていることを知っていたからである。  目まぐるしく移り変わる夜景を眺めながらハヤトは、テレパシーをヒデユキに送った。 「今から別荘に戻る。変わったことはないか?」 「別に。それよりどうした? せっかくの休暇なのに」 「いろいろあってな」 「くくっ。どうせ果穂から呼び出しでも喰らったんだろ。正直に言えよ」 「そんなところだ。ところでおまえは何をしている?」 「ミドリと一緒に年越しそばを食ってる。うまいぞ」  武蔵野線を通り過ぎたとき、ミドリが割り込んできた。 「ねえハヤト。こっち来るんなら、ビールでも買ってきなさいよ。あとハーゲンダッツも。銘柄はあんたに任せるわ」 「おれをパシリにする気か? ビールくらい買っとけよ、まったく」 「あ、それならポテチと唐揚げもな。よろしく」とヒデユキ。 「おい、それ以上太るとやばいんじゃないのか。おれたち、もう三十だろ。少しは考えろよ」 「ストレスだよ、ストレス。じゃあな、健闘を祈る」 「待ってるからね、ハヤト」   街の灯りが寂しくなり、紺色のスーツが暗闇に溶け込んできた。  ハヤトは注意深く夜景を眺めつつ、電力会社の高圧線鉄塔が南西から北東に伸びていることに気をつけながら高度を下げた。ものの数分で幸手市に到着し、別荘まであと数キロというところで、ハヤトは速度を落とし、幹線道路を走る車のテールランプに追従することにした。
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