第一杯 神秘のドンブリ ~卵丼~

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 光が止むと、アンネの目の前には見慣れた鏡台があった。それだけでなく、壁も、ベッドも、調度品も、窓も、すべて見慣れた自分の部屋のものだ。  戻って来たのだと、わかった。  安堵しつつ、一抹の寂しさが残っていることにアンネは気付いた。 「もう一杯作ってくれていたのに……食べられなかったわ」  アンネはもう一度鏡を睨んだ。この鏡を見ていてあそこへ行ったのだから、凝視していればまた繋がるのではないかと思ったのだが……無駄だった。  鏡は、ただただにらめっこするアンネの顔を映すばかり。光もしなければ、うんともすんとも言おうとしなかった。 「失礼いたします。まぁ、どうされたのですか? 怖いお顔をなさって」  そうこうしているうちに、身支度の世話を任された侍女のヨハンナがやってきた。小さなころから世話になっている、中年の経験豊富な侍女だ。 「何もないわ。待たせてごめんなさい」 「え? いえ、こちらこそお待たせいたしまして……」 「? 待ってないの?」  アンネの言葉の意味を測りかねたのか、ヨハンナは首をかしげていた。 「お食事を召し上がっている間に準備を済ませられましたし、お起きになられるのはむしろ少し早かったぐらいなので……むしろ私の方がお待たせしていたものとばかり……」  ヨハンナが気長な性格なのだということも理由かもしれない。だが、アンネは違和感をぬぐえなかった。眉間に寄る皴に構わず、ヨハンナの背後に向けて声をかけた。 「ディーター! いるんでしょう。ちょっと来て」  憎らしいほどに素早く、男の影が差した。  ドアのすぐそばに控えていたらしい。従者のディーターが、恭しく首を垂れながら入ってきた。 「お呼びでしょうか」 「今は何時?」  ディーターは眉をひそめながらも、懐中時計を取り出した。  そもそもアンネの眠る部屋には時計はない。高級品であることもさながら、アンネの眠りを妨げる可能性のあるものは徹底的に排除しているからだ。  アンネの部屋にはなく、身の回りの世話に必要そうなものはほぼディーターが備えている。こうして、ちょっとした用事で呼びつけられることも、彼の役割の一環なのだ。 「今は昼の2時でございます」 「そう……」  大声で呼びつけた割には、その返事は気の抜けた声になっていた。  驚いていたのだ。  アンネがあの店に行ってから、おそらく1時間は経っている。それなのに、時計の針はアンネがこの部屋で鏡を覗き込んだ時とほぼ同じ時刻を指していた。  重臣会議までの時間を確認したばかりだったので、間違いない。  では、さっきまでの時間はいったい何だったのか? まさか夢だったのか。確かに信じられないようなものをたくさん目の当たりにしたが……。  そう思った時、ディーターの方が信じられない顔をした。 「あ、あ、アンネ様! 指輪は……!」  青ざめた顔でわなわな震えながら、ディーターはアンネの手を指さした。  中指にはめていた指輪がなくなっているのだ。 「ああ……」 「『ああ』じゃないですよ! あれは国王陛下から頂いたもので、あらゆるものと言葉を交わす古の魔術がこめられた国宝級の魔術具ですよ! いったいどこにやったんですか!」 「……………………さあ?」 「さあって……!」  料理のお礼に渡したと言える空気ではなかった。これ以上追及される前に、話題を逸らすことにした。 「ところでディーター。この鏡はどうしたの? いつの間にか変わっているように見えるんだけど」 「鏡? ああ、古かったから変えたんです。教会に寄贈されたもののうち、司祭様がアンネ様の身を守りそうだと言ってお持ちくださって……って鏡よりも指輪ですよ! あっちは国宝級なんですよ」 「ふぅん……そうなの」  気のない返事に、ディーターは更に激高するが、アンネの意識は既にそちらにはなかった。  色々と、起こったことの説明がつきにくい。あの店は、本当にどこだったのか。要というのは何者なのか。そして何より…… 「ああ、もう! 会議の時間は迫っているし……仕方ない、手元は手袋で隠しましょう。ヨハンナ、すぐに準備を」 「はい」 「アンネ様、お急ぎください」 「ああ、うん……」 「アンネ様~~~~っっ!!!」  ディーターの叫びは史上類を見ないほどの大声だったが、アンネは大して気にならなかった。そんなことよりも、何よりも、あのゴハンというものの方がずっと重要事項だったのだ。
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