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◇◇◇◇◇ 「君の中にいる砂子みちるを貸してほしい」 1年程前。 男は海藤の病室に入り、パイプ椅子に腰かけるなりそう言った。 彼は若い臨床心理士で垂水(たるみ)と名乗った。 患者に熱心に向き合うというよりは、自らの研究に患者の症例を使うタイプの医師だなというのが、海藤が受けた最初の印象だった。 「トラウマやPTSDの原因となった危険因子を、風化や緩和させるのではなく、引きずり出して真正面から対峙させる心理療法が、今注目を集めているんだ。 アメリカの性被害者を被験者とした臨床実験ではかなり前向きな効果を上げている」 「性被害者……?」 「つまりはレイプ被害者だよね。男女ともに」 垂水は感情の籠らない声で淡々と言い放った。 「Fight or Flight response。動物の恐怖の対象への反応。差し迫った危機的状況に対して、アドレナリンの作用で引き起こされる反応をこう呼ぶんだけど、わかるかな」 垂水は、海藤ではなくその中の何かを見ながら一方的に話し続けた。 「長年、君に薬を飲ませ続け、強制的にアドレナリンを放出させていた清宙会と今、皮肉にも同じことをしようとしているんだよ」 眉間に皺を寄せる海藤に、垂水は続けた。 「しかし今度は身体にアタックするんじゃない、じゃない。脳に直接アタックするんだ。 人工的に危機的状況を君の脳裏に起こす。 つまりは砂子みちるという人格を君から引きはがして、君と戦わせるんだ」 「―――砂子を俺から引きはがす?そんなことができるなら、とっくにやってます」 あまりもの机上の空論に呆れる海藤に、垂水は続けた。 「何も本当に引きはがすわけじゃない。君の中に砂子みちるという別人格が存在するわけではない。海藤充という人格の一部が、砂子みちるのフリをしているだけなんだから」 「それはわかります。でも―――」 「君が対峙するのは、君の情報を元に、AIが作り出すバーチャルの人格だ」 そう言うと、垂水はバッグの中からタブレットを取り出して、何度かタップとスワイプを繰り返した。 「バーチャル上で砂子みちるという完璧なキャラクターを作る。そのバーチャルステージに君の意識を取り込み、彼女と対峙させるんだ」 「―――そんなことができるんですか?」 「そのための必須条件は2つ。1つは彼女の詳細なデータを手に入れること。客観的に見た君が、彼女を少しでもおかしいと疑えばアウトだ」 「ーーー2つ目は?」 海藤が訝し気に言うと、垂水は微笑んだ。 「今、僕が話している内容、僕の顔、僕の名前。この治療に関わる全てを、君の脳内から抹消することだ」
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